第2章 解決編Answer 「14」


 最終章:解答編― A nswer

 ここでは確かに、何かが起きた。

 解答編は、何かが起きたことの、証左。



●2010年7月29日 ――16:39 私立M学園 裏庭 ――無人

 私立M学園の裏庭。あともう少しでこの学園に吹き荒れる嵐を、まったく感じさせない光景だ。

ここには、誰もいない。文字通りの、無人。動く物も、ほとんどない。誰かが時間を止めてしまったかのように。2010年7月29日の、午後4時39分現在。私立M学園の裏庭には、誰もいない。誰の姿も、ない。



●2010年7月29日 ――16:45 武蔵浦和駅前マクドナルド ――大川 優誠

 2010年7月29日午後4時45分現在。大川優誠の姿は、武蔵浦和駅前のマクドナルドにあった。手に持っているのはマックシェイク。週に1回ほどの大川の贅沢だった。左手にはマックシェイク、右手には携帯電話。ニュースサイトをいくつか回って、世間の昨今の動向をまったりと見守っている。そこまで仰々しいものではない、が。この時の彼は、まだ知らない。約1時間後、とんでもないことに巻き込まれることに。自らが犯罪を犯すことになることに。ここから学校まで、徒歩で30分強。タクシーで、10分ほど。



●終幕『悠久の風、感じる私の頬の肌』

「ど、どういう、こと……?」

「ありがとう、梓君。好きだったよ、私の―」

 会話がまるで成り立っていない。何が、どう、何に対して“ありがとう”なのか。

「私の、思い出……」

 瞬間。

 身体の、背中の部分から、強烈な電撃が走った。

 あまりに強烈な感覚故に、反射的に右手拳を強く握り締めてしまう。

 だから、右手で持っていた携帯電話を握りつぶしてしまうのもまた、当然のことで。

 自分の後ろを見た。

 そこにいたのは、茜。見紛うことなき、鳳茜だった。間違えるはずもない。肩まで届かない程度のショートヘアに、左眼を覆い隠す眼帯。携帯電話を間違えてトイレで流してしまったかのような、悲壮感が表情に表れている。死んでしまった世界に間違えて生まれてしまったかのような。泣いている。どうして、泣いているんだろうか……。

 自分を刺しているのは……茜だった。

「どう……して…………」

 世界が紅に染まる中、なんとか絞りだせた言葉がそれだった。なぜ?どうして?自分は実は刺されていないのではないかという考えが頭に浮かぶ。いや、それとも夢ではないか?とも。しかし、そんなことはない。今、自分がいる世界は、紛れもなく現実のものだった。風がどこからともかく吹けば、頬に当たる。そんな、当たり前の世界だった。

 お腹の部分にナイフを刺された。あまりの激痛、信じられない激痛に意識が飛びそうになったが逆に意識が覚醒してしまった。腹部を手で押さえる。粘っこく、そして熱い感覚。人間が生きている証とも言える血の、触覚だった。

「…………うっ…………うっ……」

 自分を刺した茜は、泣いている。

 どうして、泣いているの? そんな茜の顔は、見たくないよ…………。

 もしかして、僕のせい? 僕のせいなら、謝る……。

 しかし、声は出ない。思いが、声にならない。気持ちを声にするための変換機が壊れてしまったのだ。おそらく、お腹を刺されてしまったから。

 そして、茜は小走りで教室から出て行ってしまった。

 残っているのは、自分だけ。悠宮、梓だけ。


 思ったより、血は出ていなかった。もちろん、それなりの量は出てはいるがナイフでお腹を刺されたにしては、相当量とまではいっていないように思えた。おそらう、ナイフを茜が抜いていかなかったからだろう。ナイフを抜かなかった茜に、心の底から感謝したい。もし、ナイフを抜かれていたら激痛で本当に意識が飛んでいた。それに、今以上に血が溢れ出ていただろう。

「ふ……ふふふふ……。本当。死んじゃうだろっつの……」

 あまりにおかしい一言だった。自分で言って、自分で笑ってしまう。この馬鹿げた状況に笑ってしまう。

 そして、頭を切り替える。……この状況を、何とかしなくてはいけない。

 自分が今にも死にそうな状況にあっても、悠宮梓はその状況すらを客観的に俯瞰し、冷静に対処しようと思う。

 悠宮梓はもはや、普通の人間ではなかった。普通の人間とは違う価値観、違った頭をしていた。今の梓がそれを嫌というほどに体現していた。

 他人から見てしまえば、まさに異常ともいえる悠宮梓の行動。彼の行動は、おそらく世の中のほとんど誰にも理解されずに、死ぬことになるだろう。理解されない行動、理解されない過去。

 彼は、自分の過去を今まで一度も、他人に話したことはない。森神悟はもちろん、大川優誠も知らない、悠宮梓の過去。誰にも話すつもりはないし、おそらくはこれからも、誰も知ることはないだろう。よほどの熱意を持って、自分のことを調査しない限り、自分の過去を他人に漏れることは、ない。信じる者だけが救われるのと同じく、扉も、叩かなければ開かないのだ。自分が死ぬことにより、扉を叩く人が、いなくなる。今はそんなことよりも、

今、自分が死に行く状況を、なんとかしなくてはならない。

おそらく自分は、死ぬだろう。それは間違いない。

人が死ぬと、ほんの少し、いささか少し面倒くさいことになる。国が動く。国が動くような事態になれば、きっと茜は逮捕されてしまうだろう。しかし、それは嫌だった。

「なんで……刺されたんだろう……」

自分が刺された理由。それを、どうしても知りたかった。もしかしたら、何回かした茜とのデートの途中で、自分が何か彼女を傷つけるようなことでもしてしまったのだろうか? それとも、何か別の、自分が知り得ない因果でもあったのだろうか? それともそれとも、彼女が誰かに脅迫されて自分を刺してしまった、いわば彼女も被害者だったのではないだろうか? 一瞬にして、色々と考えが浮かぶ。死に行くであろう、このタイミングに自分の脳は活発に、自分でも驚くほど目まぐるしく働いた。その事実に気付き、さらに笑ってしまう。

その何か、理由は、真実はきっと、警察が一般的な方法で彼女を逮捕すれば永遠にわからなくなってしまうかもしれない。だから……だから……。

「守……らなくちゃ…………」

そうだ。彼女を、守らなくては。そう決心して、立ちあがる。

こんな自分を殺して牢屋に入るなんて、そんなの馬鹿げている。

こんな自分を殺してお金が貰えるならともかく、牢屋に入るなんて馬鹿地味ている。


 動いた瞬間、吐き気がした。どうしようもない吐き気だった。しかし、どうしようもなくても堪えなくてはいけない。

 腹部には、ナイフが刺さりっぱなしだ。しかし、抜くわけにはいかない。

 お腹の中に、何か異物が入っている感覚は実に気持ち悪かった。ナイフを刺しながら普通の生活はできないものだなと、改めて思い知らされる。

 教室を隅から隅まで一通り見回してみる。見事なまでに何もない。血を拭かなくてはいけない。ここを、自分の墓場としてはいけない。ここを自分の墓場だと警察に気付かれてしまったら、茜が第一の容疑者になってしまうだろう。今日は確か、生徒会の引き継ぎがある日だった。確か、茜がそんなことを言っていた気がする。つまり、逆を返して言うなれば、今自分がここで死ななければ茜は疑われないというわけだ。しかし、口で言うのは簡単だがそれを完璧に実行するのは極めて難しい。〝協力者〟が必要だ。〝協力者〟であり、自分の遺志を伝えてくれる〝伝道者〟が。

スラックスのポケットから携帯電話を取り出す。血は携帯電話に触れる前にシャツで拭いておいた。別にいまさら携帯電話が血まみれになろうがどうってことないが、携帯電話を操作している間に使い物にならなくなってしまっては最悪だ。

 その“伝道者”のメールを探す。新規メールを作り、電話帳からメールアドレスを探すのは時間がかかるため、伝道者から受け取ったメールを選択し、それに対して返信するという形をとる。

 どこにしよう。ほんの少しだけ、考える。そして、メールの本文を考える

『至急 学校の裏庭に 来てほしい』

 うてた。これでいいだろう。メールを送信する。

 そして、教室の後方にある掃除用のロッカーを開ける。そこに、自分が探しているモノが入っているはずだから。

「あった……」

 雑巾だ。新品の雑巾1枚と、黒ずんでいる古いボロ雑巾が4枚ほど。古いボロ雑巾4枚を使って簡単に血溜りを拭う。血の量がそれほどまで多くなくて、本当に助かった。この量の2倍ほど出ていたらもうどうしようもなかっただろうと思う。

 そしてその血で汚れたボロ雑巾をスラックスのポケットになんとか捻じ込む。

「はぁ…………はぁ…………!!」

 嫌な脂汗がじわじわと流れ出てくる。気持ち悪くなってきた。

 その気持ち悪さに耐え、新品の雑巾でもう1回血を拭いた。

まだ多少床が赤い。しかし、元々床の色が赤茶色なのが幸いしたか、注意深く持って見ないとそれが血なのか判断できない。この学校の教室の床がジャラ・プライムフローリングで本当に助かった。今必要なのは完全な血液の除去ではない。ここで、この教室で目に見える形で血液が見つかり、この瞬間に学校にいる人たちが騒ぎ立てないことが重要なんだ。この瞬間、この瞬間の前後に学校にいる人たちが騒いでしまったら、ここが殺人現場だとバレてしまう。だから、これでいい。ジャラ・プライムフローリングは少し赤がかかった茶色だ。いくらなんでも血痕を放置すれば誰かに発見されてしまうかもしれないが、1回少しでも拭けばそのリスクは下がる。しかも、今は放課後なのだ。トラブルが無い限り、この教室に来るのは教師だけだ。

「フフッ…………」

 また笑ってしまう。どうして、笑ってしまうんだろう? いや、理由はわかっていた。今自分がしていることが、あまりにも面白かったから笑ってしまったのだ。今、自分は何をしているのだろう? まるで、殺人者がアリバイを作るために殺人現場を隠ぺいしているみたいじゃないか。あまりにも面白すぎるジョークだった。


 さて、自分が流した血についてはある程度の処理を終えた。このクラスの担任の神辺がいつ職員会議を終え、ここに戻ってくるかわからない。できるだけ早く、ここをあとにしなければならない。しかし、そうは言ってもある程度策を練らなくてはいけない。何の策もなく廊下に出て裏庭に向かえば、誰かに見つかってしまうかもしれない。それは梓にとっての敗北、ゲームオーバーを意味していた。絶対に誰にも見つかってはいけないのだ。しかし、誰も見つからないようにして行くのは無理ではないか、とも考えた。運を天に任せることになってしまう。しかし、それは避けたい。

 そして思いつく。見つかってもいいような状況で行けばいい、と。自分のナイフを隠せばいい。服を着ればいいじゃないか。担任神辺の黒いコートがある。担任用の椅子にかかっている。今年の夏は例年と比べてかなりの冷夏で、夜はなんと冷え込むのだ。だから担任の神辺は薄手のコートを着ていた。しかし、いくら朝と夕方が肌寒くとも、昼は暑い。

朝のホームルームのときには神辺はコートを着込んできて、神辺はそのコートをそのまま椅子にかけて1日中放っておくことがしばしばだった。今日はそのしばしばに当たる日だった。だからこの教室には神辺の黒いコートが、椅子にかかっている。


 しかし、そのコートを着込んだだけではナイフは隠れない。いや、ナイフは隠れるかもしれないが、ナイフの柄の部分が出っ張ってしまう。それに加え、刺された腹部の周辺からはじわじわと血が広がっていた。少しずつ血が出ている。シャツが少しずつ、紅で染まっていく、染まっている。

まだ大丈夫だ。身体は動く。しかし、これ以上血が染み出して来たら身体が動かなくなってしまうかもしれない。それはもう、完全たる〝詰み〟の状態だった。いくら頭が動いても、身体が動かなければまるで意味が無い。タイムリミットはもう設定されているのだ。血をどうやって止める? 必死に考える。雑巾はもう使えない。あまりにも血がつきすぎた。スラックスのポケットにも血が染み出し始めている。これ以上、雑巾を外に出すのは躊躇われた。万が一、廊下に血を落としてしまったらそれだけでこの事件を隠ぺいするのは難しくなる。ナイフの柄の部分はどうしても隠せない。コートを上から着込んでも、ナイフの柄の部分だけ出っ張ってしまう。それは不自然だ。もしこの教室から裏庭に向かう途中、誰かに見つかってしまったら弁明できない。だとしたらもう……選択肢は、一つしかない……。


 1度、2度。軽い深呼吸をする。肺が新しい空気を求めるたびに、腹部が鈍い痛みに襲われた。しかし、何もしなければ特段痛くもない。いや、痛くないことはないが、痛みに慣れてしまった。痛みを、痛みとして認識することができなくなってしまった。

 そして、あまり時間が経たない間に、息を止め、ナイフを引き抜いた。

「…………ッ!!!!?!??!!?!!!!!!!?!?!?!!!!!!」

 衝撃的な、あまりにも前衛的な痛みだった。気持ち悪くなった。身体中の、液体という液体が抗議の逆流を始めた。吐き気がした。悪性のインフルエンザに罹り、布団で本当に死ぬかもしれないと思ったことが過去に一度あった。その時の記憶を思い出させるには、充分過ぎるほどの吐き気だった。しかし、インフルエンザに罹った時と今との決定的な違いは、吐き気だけでなく、それと同時に腹部に強烈な、あまりに強烈な痛みが走っていることにあった。

 本気で意識が飛びそうになった。目の前の光景が影分身を始める。しかし、なんとか雑巾を傷口にあてがることができた。傷口には、当たり前ではあるが穴が空いていた。それを、雑巾をクッションにして、自らの手で触認することができた。あまりにも現実味を帯びない感覚だった。身体の一部に、穴が空いているという感覚が、そこには現実としてあったのだ。

雑巾を傷口にあてあがり、その上からレースのカーテンを巻き付けて雑巾を少し強めに固定する。腹部を圧迫し、血液の流出を少しでも抑える。あまり強く締めすぎると意識が飛びそうなほどの激痛に襲われることが想定されたため、慎重に慎重を重ねて締めた。レースのカーテンを相撲力士のまわしのような要領で締め、雑巾を固定した。その上から神辺の黒いコートを羽織る。レースのカーテンを巻きついているため、多少ふっくらと膨らんでしまうが、ナイフの柄の部分が出っ張ってしまうよりかは断然マシだ。もう、準備は万全だ。無駄にここで時間を潰すことは許されない。裏庭へ向かおう。自らの墓場である、裏庭へ。

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