「8」


●2011年8月1日 ――大川 優誠

 まさか森神がこの件について首を突っ込んでくるとは思ってもみなかった。爪を齧る。これは残念なことに、どう楽観的に見ても良い方向に流転しているとは言い難い。この状況を吉と見ることができるのはただの馬鹿、阿呆、もしくは道化師だけだ。

 森神はどこまで突っ込んでくるだろうか? もしかしたらもう自分のことを気にかけているかもしれない。良くない意味で。アイツは俺が部活動をしていないことをたしか知っていと思う。梓が死んだのは6時頃だ。死亡推定時刻というものがどうやって算出されるものか、自分には知るよしもないことだが、今のこの国の警察の科学技術に、死亡推定時刻を外すことを期待するのは無謀というものだ。学校の通常授業は4時で終わる。学内の図書館で勉強をしていたことにしようか? いや、それはダメだ。実際に行っていたならばいざ知らず、図書館にはその日は行っていないのだ。警察が本腰入れて調べればそんな小細工はすぐにバレてしまう。しかし実際、5時半前後、6時に俺が学校にいたことは〝確定″している。

 森神について、思い出してみる。大川は森神に対して、相性が良いとは言えない存在だった。将棋を好んで2人でよく対局していたが大川の勝率は低かった。ちなみにチェスはしなかった。大川がチェスのルールを理解しようとしなかったために、基本的には将棋しかしなかった。……今回はアイツに、敵うだろうか? 逃げ切ることは、できるだろうか? 全盛期のディープ・インパクトの鬼のような足が、自らを今にでも追いかけてくるのではないかという焦りで自然と汗が出る。大丈夫だ。ここまでの俺の行動は完璧だ。これは理論ではない。感情の問題だ。アイツはまだ、この事件のルールを理解してはいない。それまでは、追いかけることはない。どんなに素晴らしい追込の足を、それこそ、ディープ・インパクトのような鬼足を持っていようとも、ゴールの場所がわかっていなければ馬のテンションも下がってしまう。馬に乗る騎手がそのゴールの位置を把握していないのだ。体力の分配が下手くそな先発投手と同じだ。恐れることは何もない。

 そうだ。逃げ切れる。良いスタートを切ったのだ。逃げ切れる。そう、アイツを打ち負かせばいいのではない。アイツが俺に追いつく前に、ゴールまで逃げ切ればいい話だ。おそらく、仕掛け自体にはすぐに気付かれてしまうだろう。時間が無かったのだ。時間があれば素晴らしい仕掛けが施せるのか、と聞かれれば回答に窮してしまうが。

 だから、仕掛け自体を気付かせないためにできることをする。今はそれだけだった。大丈夫だ。大丈夫。普通の理論に生きるものでは、この事件の真相には気付くことは出来ないはずだ。俺とアイツのある共通点は梓だけには当てはまらない。その共通点の差が、今回の事件の仕掛けの存在に気付くことの鍵になる。


 プルプルプルプルプル

 携帯電話の音だ。夜の11時頃に電話をかけてくる人に心当たりはない。いや、いるとしたら、梓か、森神ぐらいだ。しかし、梓はもうこの世にはいない。だとしたら、この電話は森神からか?

 そう思い、携帯電話のディスプレイを見てみる。

 ――非通知だった。

「非通知……?」

 そもそも、大川の携帯電話に他の人から電話がかかってくること自体がとても珍しいことだ。ごく一部の学校施設への登録、ごく一部の友人関係を除き、携帯電話の番号を書面に残すような契約などはしていない。先ほども言ったが、電話番号は必要最低限の人間にしか教えていない。過去の経験から、必要以上の人間とは関わらないようにしているのだ。どうしても教えなくてはいけないときなどは、わざと番号の数字を2つほど間違えて相手に教える。本当に何がなんでもこちらと連絡を取り合いたい奴は直接会いに来るだろうし、そこまでの用事じゃなければ別に連絡を取り合う必要もない。大川の理論だった。本当はそこまでするならば携帯電話なんて持たない方が楽なのだが、親友2人とは携帯電話で連絡が取ることが常だった。それに、情報を仕入れるためのツールとして携帯電話はあった方が便利なのだ。

 本来、携帯電話には非通知設定を施している携帯電話からの着信を拒否することのできる機能を備えているものだが、大川はその設定をし忘れていた。だから実際にこうして非通知の相手から電話がかかってきてしまっている。どうしたものかと頭を抱える。クソッ、こうして頭を悩ませるのが嫌だから非通知設定をいつもしているというのに。

 こんなことがあった昨今、この電話は何かとてつもない連絡なのかもしれない。そう思うと簡単にスルーすることもできない。それに、2分以上コールが鳴っている。ただの間違い電話、ということでも無さそうだ。覚悟を決めて電話を取ることにする。

「はいもしもし」

 名前は名乗らない。相手側の声と環境音を聴くために神経を集中させる。

「…………」

 ゴソゴソッという何かが動く音。具体的に何が動いたかは判別することができない。受話器を持つ手を変えたのだろうか?


「オオカワ ユウキサンですね?」

 聞き覚えのある、女の声だった。声色は聞き覚えがあるものだが、その雰囲気はなんというか、不気味なものだった。聞き覚えがあるが、それが誰の声かはわからない。心当たりも、形あるものではなく、姿を持たない霞みのようなか細いものだ。しかし、この声は聞く者の感情を黒くする効能でもあるのではないか、黒い重力で操られてるかのような、悪魔の声だった。ボイス・チェンジャーなどで声を変えている様子はない。この声色は、ボイス・チェンジャーなどで変えられるような声ではない。

「…………おたくは? 何者で?」

「フフフ……私のことなど、どうでもいいではありませんか……」

 こちらのことを遥か高みから見下ろしている。そんな傲慢さが染み出た声だった。

「今、この時点で重要なことは」

 声を切って、

「あなたが、悠宮梓を殺害した犯人である。そして私は、その事実を知っている。この点が非常に重要な点である。私の名前なんかよりかは。そうは思いませんこと?」

 ふざけた口調だった。話の内容もふざけている。しかし、鼻で笑い飛ばすこともできない。



「…………」

「どうでしょう? オオカワ様」

「いいでしょう。あなた……あー、僕はあんたのことを何て呼べばいい? 別に本名なんて聞いても教えてくれなさそうだしな。便宜上、形而上、あんたのことをなんて呼べばいいのか、教えてくれないか」

「…………そうですね。その発想はありませんでした。ほんの少し、時間をください」

そう言うと、電話口の向こう側から電話主の気配が消えた、気がする。まさか、どうでもいい便宜上の名前1つのために何か資料でも探しているというのか。

1、2分すると、ゴソゴソッという音と共に気配が復活した。そして。

「大変失礼いたしました」

「いんや、こちらこそ時間を取らせて申し訳ないね」

「いえいえ。それで、私のことはこれからは、この電話においては、『オーエン』と呼んでください」

「……は? なんだって?」

「『オーエン』です。『U.N.オーエン』。別に何でも良かったのですが、一番しっくり来るのがこれだったので」

 U.N.オーエン。有名なミステリー小説、『そして誰もいなくなった』の犯人の名前だ。もちろん、本名ではない。



「……なるほど。世間から隠された罪を裁く、貴方の名前にしては、ピッタリかもしれませんね?」

 何が可笑しかったのか、『オーエン』はクスクスと笑いだした。

「別に私は〝本物″のオーエンと違い、罪を裁くつもりはありません。人が罪を裁くことができると思うことは実にくだらない、というのが私の考えですから」


「へぇ…………」

 どこかで聞いたことのある考えだ、大川はそう思った。

「で、話を本筋に戻しましょう。オーエンさんは、殺人を犯した私に、何か頼みでもあるのでしょうか? セオリー通り、と予測するならば、僕はどうやらこれからあなたから脅迫されるらしい」

「いえいえ、そんなことはありません。私はあなたを脅迫するつもりなんてこれっぽっちもありませんよ」

「では、どうして電話を?」

「直接訊きたかったんです、あなたに」

「何を?」

「覚悟のほどを」

 …………。



「主語が抜けていてイマイチわかりかねますね。私の、何に対するどんな覚悟かを説明してもらってもよろしいでしょうか?」

「えぇ、いいでしょう。実に簡単なことです」

「伺います」一息ついて、気を取り直す。そして大川は相手の返事を待つ。

「あなたの、今回の殺人事件に対する覚悟です。捕まらない覚悟はあるのかと、お訊きしたいのです」

「…………………………」

 長い間が空く。

「無論、捕まることなど問題外です。私は捕まりません。絶対に」

「……結構」何かを納得したような、そんな声色だった。

「用件はそれだけで?」

「ええ。私は、あなたの口からその覚悟を聞きたかった。それ以上でも、以下でもありません」

「では、もうこの電話は切っても構いませんね?」

 大川はもうコイツと通話を続けたくなかった。早く切りたかった。

「あなたには何か狙いがあるようだ。そして、その狙いのために何か複雑な仕掛けを施しているように見える。それを期待しましょう。それでは、良い夢を」

 と言って、電話を切った。

 最大限好意的に言って、あまり良い電話ではなかった。

 まだ考えなくてはいけないこともたくさんあるし、充分な休息も必要だと言うこの時にこれ以上ないほどの不愉快な電話だった。できればこんなことはさっさと忘れて別の考えるべきことを考えたいが、この電話の一件はさっさと忘れてはいけないことだ。しかし、今は後回しにするべきだ。今は、カードを切らなくてはいけない。できるだけ急いで。

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