「7」


 そしてもし、動くことができるとすれば、児童相談所に病院側が通告して、さらに児童相談所が家庭裁判所に通告して、家庭裁判所の判断を待つのが最善、ということになる。しかし、大川優誠は一刻を争う事態なのだ。家庭裁判所の判断を待たずして手術を強行するということももちろんできるが、昔の判例に基づき今回も法廷闘争にもつれ込むようになったらどうなるか? 何が叩かれ、何が擁護されるか、非常に分かりづらい時代なのだ。危険な轍は踏めない。病院側から見れば、大川優誠なんて一個人の命を取るか、大きい総合病院の将来を取るか、なんて二択を迫られたら、どう最終的に判断するにしろ、迷うことには変わりないからだ。

 そういう事情が背後にあったから、結果論とはいえ、大川の父親の判断は実に素晴らしいと言えた。結果論とは言え、最善手だったのだ。

 これは、運ではない。事故が起きる、以前から母親の度が過ぎた信仰心とそれを息子に押し付ける様子を見て、児童相談所に相談しに行き、今後の戦略を練ったお陰だった。口頭で何度注意しても聞く耳を傾けない妻には、もはや別の手段しかないということを悟っての、次の一手だった。それがまさか、こんな形で効果が現れるとは。


 そして、その場で大川の母親である大川彌生は気を失い、倒れてしまったようだ。あまりにもショックだったのだろう。正しいことをしているのに、なぜ、と、世の中に対して深い失望を感じたのかもしれない。しかし、大変都合が良いことにここは病院なので、ベッドはいくらでもある。一時的に患者を休ませるためのベッドに運ばれて、手術室の前に残ったのは悠宮梓と大川の父親、そして、児童相談所の大島の3人となった。

「いや、済まなかったな大島。こんなところまでわざわざ」

「構わないよ。それにしても、優君が無事で良かった」

「あんな女房も世の中にはいるんだ。ビックリしただろ?」

「なーに。仕事柄、もっとすごい人を見たことがある。お前の奥さんはまだマシな方さ。それに、今回の一件で少しは考えも変わったろうよ」

会話を聞く限り、大島と大川の父親は友人のようだった。それも、あまり浅くない間柄のようだった。

「そんなことより、悠宮梓君、だったね。今回は君のお陰で、救われた。本当にどうもありがとう」

突然話しを振られたので梓は驚いてしまった。しかし、なんとか表情に出さずに落ち着いた表情だけを見せて、

「い、いえ。それよりお父様も、迅速な対応、誠にありがとうございました」

とサラリと言ってのける。

「あぁ、その子が噂の……」と大島。

「そ。悠宮梓君。俺の息子と同じ学校に通う……友人、でいいんだよね?」

確認された。

「はい、大川優誠君の友達です」

「君が3ヵ月前と今回、俺に助言をくれなきゃ、今のような展開にはなってなかったに違いない。本当にありがとう。これからも息子をよろしく頼むね。……それと……、君もクリスチャン、なのかい?」

「…………そうです」否定したい気持ちはあったが、先ほど大声でクリスチャンだと主張して、大川の母親を殴りつけた一件がある手前、完全否定はできなかった。できれば肯定したくもなかったが。

結果として、めもりひとつ分ほとトーンの下がった回答になってしまう。

「いやいや、そんな恐縮する必要もないさ。君のような人間がいることだって知っている。君もクリスチャンで、視野の広い人間だからこそ、今回のようなことにいち早く気付けたんだ。何にせよ、――君が、どんな人間であるにせよ、君は息子の命の恩人だ。本当に、ありがとう」



大川優誠の家は一軒家だった。2階建てで、ちょっぴりオシャレな匂いのする佇まい。白を基調としたカラーデザイン。午後6時。悠宮梓は家の前でじっと立っていた。

何時に大川の父親が帰ってくるかわからない。しかし、彼は待つことが大して苦痛でもなかった。ここ最近自分の中でマイブームが起きているシリーズの文庫本を読みながら時間をじっくりと潰している。もう6時で、辺りも暗くなっている。季節の変わり目というのは怖いものであっという間に暗くなってしまう。少し前、1ヶ月前まではこの時間ではまだ陽の目が出ていたというのに、この季節になると、たった1ヶ月が経っただけなのにこの暗さだ。電灯が無ければ本も満足に読めやしない。

 そして、誰かが近づいてきた。このあたりは人通りが少ない。待っている間に4、5人ほどとすれちがったが、その時すれちがった人達とはまた違う足音だった。

「…………?」

 そして足を止める。悠宮梓も、文庫本から目を上げ、足音の主の方へと目を向ける。

「大川優誠君の、お父様ですか?」と悠宮梓。

「え、あ、あぁ。そうだが、君は?」

「夜分遅くに申し訳ありません。私は大川優誠君の友人で、悠宮梓と申します」

「あぁ、優誠の……。で、どうしたんだい? こんな時間に」

 大川優誠の友人であることを告げると、途端に警戒を解いたようだった。

「すみません、大川優誠君のことについて、お父様に相談したいことがありまして……」

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