「6」 伝道者のメモリワール


●――回想―伝道者のメモリワール


 きっかけとか、発端とか、そういう糸口のようなものはもう覚えていない。それを思い出すには少し、時が経ちすぎてしまった。第二次大戦が終わってから映画スタンド・バイ・ミーが大ヒットを飛ばしたぐらいの時が経ってしまった今となっては、物事をうまく説明することができない。

だから今からここに述べる事柄は、少し曖昧だ。曖昧で、古ぼけた映画のフィルムのようにところどころ擦り切れているかもしれない。しかし、これが私の記憶もあることもまた、相違ない。今ある記憶の、すべてだ。


 その記憶を思い出そうとすると、いつも歌を歌っている光景が目に浮かんでくる。多分、歌を歌っていた時が今でも一番心に残っている光景だからなのだろうな、と思った。

それは王国の調べ、というものだった。歌の題名ではない。歌の総称を、大人の人が、みんながそう言っていた。小さい学校の教室のようなところで、20人ぐらいの子供がいる。前には、大人の人が立っている。そして、黒板があり、今歌っている歌の歌詞がそこに書いてある。それを読みながら、みんなで歌っている。座りながら。この歌を知らない人でも、なんとか歌うことができる、というものだ。ちなみに今歌っている曲の名前は、「わたしのたちの喜びの理由」というものだった。なんと表現すればいいのか、小さい自分にはなんとも無理難題ではあったがなんというか、『おーけすとら』のような曲だった。なんとなく豪華な、なんとなく壮大そうな。

 彼は毎週日曜日に、ある場所へ通っていた。その場所には、20人前後の子供たちがいた。一緒に歌を歌い〝先生″と呼ばれる人のお話をいつも聞いていた。午後には、母親と一緒に色んな人の家を回った。それが何を意味するのか、当時6歳だった大川優誠には理解できなかった。しかし、あまり良いことではないのだな、というのは頭のどこかで理解していた。不特定多数の、色んな人の家を訪ねた。まったく知らない人の家だった。母親が家のチャイムを鳴らす。そして、家の中から中年の女性が出る。



「なんでしょう?」

 あからさまに不機嫌そうな声を出しながら中年の女性が言う。

「お忙しいところ、誠に失礼いたします。この御近所を、一軒一軒奉仕活動でうかがわせていただいております、大川と申します」

「はぁ……」

 明らかに不審なものを見る目だ。生ゴミを見るような、その目つき。

 そして大抵は、何か適当な一言をつけて追い返される。というか大川優誠が覚えている限り、好印象を持った、と思われる人は一人もいなかった。時にはいきなり水をかけられたりもした。相手は中年の男だった。「またお前らかっ! 何度来れば気が済むんだ! 二度と来るんじゃない!」と言われ、コップ一杯ぶんの水を思いっきりかけられた。その、水をかけられたこと自体は別に大したことではなかった。驚かなかった、と言えば嘘になってしまうが、心に傷を負った、とかそういったセンチメンタル的なことはまったくなかった。しかし、その後母親から詫びのひとつももらえなかったのは辛かった。人間は何に傷つくのかよくわからない、と思ったものだ。だって本当に、水をかけられたこと自体は本当に、まったくもってどうもなかったのだから。


 式典があった。小学4年生のときのことだっただろうか。学校の行事に出席していた。確か、小学6年生を送るための式典だったと思う。卒業式だったような覚えがある。

そのような式典では、式のはじめの方で校歌を斉唱する。普段は体育の授業でしか使わない体育館で。パイプ椅子を並べ、皆がそこに座る。しかし校歌を斉唱する時は、もちろんだが椅子から立ち上がる。

 しかし、校歌を歌う前に、もうひとつ歌うものがある。それは国歌だ。

 その国歌を歌う時、大川は席を立たなかった。席を立つこともなかったし、口を開いて歌うこともなかった。周りの生徒はみんな立って国歌を歌っている。いや、もしかしたら席を立っているだけで歌っていない人もいないかもしれない。口は開いてはいるが、歌ってはいない人もいるかもしれない。しかし、立っていない人は、――あくまで大川が見える限りの話であるが、一人もいなかった。国歌を歌う時、大川は孤独の世界にいた。風景が見渡せる解放感に溢れた砂漠という孤独ではなく、前が見えない四角い冷たい壁に囲まれた、閉鎖的な孤独だった。そこはどこまでも閉鎖的で、永遠の、本当の意味での孤独だった。嫌な汗が脇から噴き出るのがわかる。涙は演技でいくらでも流せるが、汗というのは演技で流せない。だから、これは真実の汗だった。

 どうして国歌をみんなと一緒に歌わないのか。理由はとてつもなく簡単だった。この上ない簡潔な回答を示すことができた。母親が、許可を出してくれないからだった。その理由を大川は訊いた。どうしてみんなと一緒に国歌を歌ってはいけないのかと。もちろん、大川としてもどうしても国歌が歌いたいと思っているわけではない。しかし、嫌だったのだ。みんなと違うことが。別にみんなと同じゲーム機を持っていたい、みんなと同じ習い事がしたい、とかそういうことを望んだことは一度もない。しかし、卒業式においての国歌斉唱はそういったこととは次元の違う話だった。別に歌えるものだったら、みんなと一緒に立って、普通に、一緒に歌いたい。そう思った。もちろん、別に国歌が特別好きだ、ということではないが。みんなが歌っているんだから。拒否する理由も特にないじゃないか。しかし、母親の返事は冷淡だった。冷淡で、無機質で、それでなおどこかに怒気を孕んだ声だった。



「ゆうちゃんはね、みんなと違う、〝かみさま〟を信じているんでしょ? だったら、国歌なんて歌っちゃいけません。みんなとは違うんだから。そんなことをしたら、〝かみさま〟が悲しんじゃうよ?」


 正直言った話、意味がよくわからなかった。大川は〝かみさま〟を信じたことがなかった。いや、あったのかもしれない。しかし、今この時は別に信じていなかった。しかし、従わないといけなかった。〝かみさま〟を信じているというポーズを見せなければ、夕飯のおかずが一品減るのだ。いや、一品だけじゃないかもしれない。二品かもしれない。いや、それでも、おかずが減るだけならまだマシな方かもしれない。あまりに酷い時は、叫び出すのだ。「赦してください!! こんな愚かな信仰心が薄い私と、息子をどうぞお赦しください!!」と。誰に話をかけているのか、母親が叫んだ時はイマイチわからなかった。少なくとも、自分に向けて、ではない。それは、母親が叫ぶのを見た当時3年生の大川にもわかることだった。そしてその日、夕飯は抜きだった。母親が叫び、一通り本などを投げ、少し大きめな透明なグラスなどを大川に向けて投げつけた。頭に当たった。かなりの衝撃を受けた。しかし、痛くはなかった。母親が叫び出し、狂ったように物を投げだし、地団太を踏むという現実世界から切り離されたような、あまりにも異世界の光景を見せつけられて、おそらく痛覚が働かなかったのだろうと思う。痛くはなかったが、衝撃は身体が受け止めていた。グラリとしたのだ。血が出た。頭が血が出るなんて経験は、生まれて初めてのものだった。

 というかまさか、血が出ているなんて思ってもみなかった。グラスが思いっきり投げられ、頭に当たったので、どこに当たったのか、実際に手で触ってみて確認しようとして、触った手を見た時に気付いたのだ。自分の手が濡れたことに。そしてそれは、赤い液体だったということに。

そして母親は、いつの間にかリビングからいなくなっていた。寝室に行ったのだろう。なんとなく、気配でわかった。夜の6時。夕飯はいつも夜の7時ごろに食べる。おそらく今日、夕飯は無いのだろう。それも、気配でわかった。気配というか、なんとなくわかった。そして大川もいつもより大分早い時刻の、6時半に寝た。もうやることもなかったし、明日の予習やらげーむ読書やらをやって、母親から見つかったら何か面倒くさいことが起こることは目に見えていたからだ。彼は、小学3年生にして、そういった察知能力に長けていた。何をすれば、あの人は怒るのか。何があの人の地雷原なのか。どこまでなら怒らないのか。その〝察知能力〟を用いたのは、母親が初めてだった。そしてその察知能力は、『今はもう寝た方が良い』と告げていた。もちろん、すぐ寝たところで絶対に怒られない、ということはない。あの母親ならば、その気になれば、寝ている自分を叩き起こし、また〝かみさま″の教えを延々と垂れ流すに違いない。しかし、それ以上はない。悪手であっても、最悪な手ではない。明日の予習やら、読書やらをやっているところを母親に見つかれば、少なく見積もってもプラス1時間は寝る時間が伸びると思わなくてはいけない。予習をやっているところを見つかれば、「そんなことをやって、お母さんの機嫌を取ろうとしているのはバレバレだ」と怒られ、読書しているところを見られれば、「あなたはどうしてすぐに忘れて反省する、ということをしないの」と怒られる。つまり、何をしても無駄だということだ。それに、あまり長い時間寝ることができないのは良くないことだと少年はすでに知っていた。

 小学3年生にして彼は、完全徹夜というものを、すでに4度経験していた。一睡もせず、次の日、普通に学校に登校するという経験を。そして一睡もしないで学校の授業を受けるということは、どんなに辛いことで、愚かしいことか、ということも知っていた。よく同じクラスの連中で、『俺、3時間しか寝てないんだわー』という地味にくだらない主張をする輩がいるが、それがあまりに馬鹿馬鹿しい自慢であることか少年は知っていた。こういった特異な生活をしているからか、本来の性格所以なのかはわからなかったが、そんな大川には友達はいなかった。いや、少なかった。唯一の友達と言える存在がいた。それが、悠宮梓だった。それが彼にとっての、大川優誠の救い主の名前だった。



●――回想2―救い主との邂逅

 なんとか昨日は母親の気まぐれは起きなかったようでぐっすりと眠ることができた。今朝は6時に起きた。12時間睡眠をすると、さすがに目覚めは絶好調だった。頭がよく働く。

母親は結局、朝は起きてこなかった。別にこういった日は珍しくもなんともない。1ヶ月ずっと機嫌が良くても月に3回ほど朝起きてこないことがある。母が起きてこない日は、朝食はない。冷蔵庫にはヨーグルトがある。バナナもある。しかし、食べることは出来ない。もし勝手に家のモノを食べてしまうと母親の喝が飛んでくる。だから何も食べない、食べられない。通学路にはコンビニがある。しかし、寄ることはできない。学校の規則で登下校中にコンビニに寄ることは禁止されている。では、今だったら行ける? それも無理だ。大川はお小遣いをもらっていない。どうやら贅沢は敵、なのだそうだ。つまり、コンビニでご飯を買うことすらできない。100円ちょっとのおにぎりを買うことすら、ままならない。こういった事情から、母親が起きてこない場合には朝ごはんを食べることは不可能だった。


 お腹は減っているが、睡眠をしっかり摂ることができた。これだったらまだなんとかなるだろう。過去に腹は空かすわ、睡眠は摂れないわと言った今より酷い状況で1日を過ごしたこともあった。あの時に比べれば今はいくぶんマシと言えた。


「その様子だと、今日は朝ごはんを食べなかったのかな?」

 学校へ向かう通学路の途中。

 突然、横から声がした。

「えっ?」

 驚いた。横には男がいた。まったく気付かなかった。この男は一体いつの間に自分の隣にいたのだろうか? その男は自分と同じ年齢に思えた。いや、違う。横にいる男がいつの間にか居たのではない。自分があまりにも鈍感で気付くのが遅れただけだ。


 そして、その男の一言はまさに図星だった。なぜこの男は、自分が朝ごはんを食べていないことに気付いたのだろう?

「図星のようだね。どうしたの? お母さんはいないのかな?」

 知らない顔だった。あ、いや、でも同じクラスにこんな奴がいたような気がする。

「その顔は……おや、もしかしたら僕のことを知らないかな? それだったら失礼。いきなり知らない奴に声をかけられても困るよな」

 と、グダグダ何かのたまっている。小学校への登下校の際には紅白帽子の着用が義務付けられているのにその少年は紅白帽子を付けていなかった。

「悠宮梓だ。君と同じクラスだ。一応……君とは4年生の頃からずっと同じクラスだったんだけどね。気になってたんだよ。でも君、誰とも話さなかっただろう? 話そうともしなかっただろ? 成績は優秀なのに。ま、1年間もずっと話すことができなくて、ずっとヤキモキしていたんだ。最近、ちょっとした偶然から君の家の場所を知ることができてね。なに、僕の家はここから遠いんだが、一週間ほど前にこの辺に来る用事があって君を見つけたんだ。そして、君をこっそりとつけて君の家を見つけたんだ。そして今、やっと話すことができて何よりも嬉しい。大川優誠。間違いないよね?」

 そうだ、悠宮梓だ。ぼんやりと思いだす。

「あ、あぁ。大川優誠だよ」

「うん、良かった。ここまで話して別人だったらどうしようかと思っていたよ。ところで」

 一拍空けて、

「で、結局。君は朝ご飯を食べたのかな? 食べていないのかな?」

 と訊いてきた。

「………………………………………………食べてないよ」

 かなり間を空けて答えた。あまり答えたい質問ではなかったからだ。しかもほぼ初対面と言ってもいい相手に対して。


「うむ、やっぱりそうか。ところで、」

悠宮は持っている黒いバッグを開けて、中をゴソゴソと漁る。というか悠宮梓は学校指定のランドセルを背負っていなかった。持っているのは、黒い少し大きめのビジネスバッグのみ。

「ここにパンがある。メロンパンと、チョコチップパンだ。今日の早朝頃買いにったんだが、食べるかい?」

 と、こちらにコンビニパンの袋を2つ取り出して訊いてきた。これは流石に予想外の展開だった。

「えっ!? どうして!?」

あまりにも驚きすぎて素っ頓狂な声で叫んでしまった。



「そこまで驚かなくても……。別に特別な理由なんてないさ。ただ、なんとなくだ」

どうしてなんとなくコンビニパンを持ち歩いているというのかこの男は。

「で、どうするんだ? あとどうせ15分ぐらい歩く。15分もあればパンの1つや2つ食べれるだろ」

「で、でも僕……お金持ってなくて……」

「お金なんて要らないよ。僕が勝手に買ってきて、僕が勝手に君にあげる。それだけの話だ。別に金を取ろうなんて思っちゃいない」

 笑顔でこんなことをのたまうんだからなんとも返事をしづらい。というか、大川にとって、この悠宮梓とかいう人間が行っている行動は理解しがたいものがあった。何が狙いなのか、どうしてこんなことをするのか、まるでさっぱりわからない。自分はこの男と、意識の根底にある文化というものが異なっているんじゃないかと本気で考えた。しかし、現実的に今、自分がお腹が減っていることも事実だ。お腹空いたまま過ごすことも可能ではあるが、どうせならお腹を少しでも満たしておいた方がいいに決まっている。多少なり午前中の授業に影響が出てくるだろうし。



「……わかった、もらうよ」蚊が遠くで鳴いているような声で大川が言った。

「良い判断だ。どっちを食べるかい?」

「チョコチップパン」

「どうぞ」

 と言うと、悠宮梓はすぐさまチョコチップが入ったスティックパンの袋をこちらに差し出してきた。

 大川はその袋から1つだけスティックパンを取り出すと、袋を梓に返した。

「おや? 別に全部のパンをもらっても構わないよ?」

 と、提案された。が、

「いや、1つでいい。さすがに通学時間に一気に全部は食べれないよ。でも、少しでも食べれればまったく食べないより大分マシになる。……どうもありがとう」

 ぎこちない、不自然な会話。これが僕、大川優誠と悠宮梓の出会いだった。




●――回想3―救い主はこう歌う

 学校の授業が一通り終わって、しばらくしてから大川は学校を出た。図書館で本を借りたのだ。ミステリー小説と、少し難しそうな純文学系の小説だった。

 ここ最近はあの変わりモノの悠宮梓と一緒に下校をしていたが、今日は図書館に寄ってゆっくり借りる本を選びたかったので梓には先に帰ってもらっていた。

 そのことを告げると梓は「そうか。じゃ、お言葉に甘えて今日は先に帰らせてもらおう。ずっと野郎2人でガン首揃えて帰るのも息苦しいもんな」と言ってくれた。嫌味なのか純粋に心の底から出ている言葉なのかわかりにくかったが、おそらく心の底からの言葉なのだろう、と大川は解釈した。そういえば、一人で帰るのは、ずいぶん久しいことかもしれない。ふとそう思った。学校の休み時間でも、なんとなく悠宮梓と一緒にいることが多かった。学校の休み時間、学校の登下校の間に色んなことを話した。少しずつ、少しずつ。家のことや、好きなテレビ番組のこと。勉強のこと。小説のことなど。


 図書館にどれくらい居たかはわからなかった。図書館で借りる本を選別する時はあまり時間を気にしないようにしていた。時間を気にしてしまうとどうしても心に焦りが生まれてしまうのだ。普段は厳しく、うるさい母親も学校の図書館に行っていた、と言って借りた本を見せれば別に何も言わない。あのうるさい母親が何も言わないのであれば、ゆっくり図書館に籠らないと損というものだ。

 学校を出て、家に向かおうとしたときにはもう夕焼けの赤朽葉色となっていた。見事なほどまでの夕焼けの色が大川が見ることのできる視点一杯に降り注いでいた。これぞ夕方、と胸を張って主張することができる光景だった。2週間に1度ほど、大川はこの光景を見るが、この光景は大好きだった。いつも見ているはずなのに、夕方になる時だけ、まるで別の世界になってしまったかのようなこの光景が。最初の数秒見たらもう慣れてしまって、一番最初に感じる一瞬の感動が失せてしまうのが残念だったが、その一瞬さもまたこの光景の魅力の一つと言えた。まぁ、友達が少ない、家には頭のおかしい母親がいる自分のちょっとした現実逃避かもしれない、と気付いたのはまた最近の話だ。それを思うと悲しくなってしまうが、それをあまり考えないように努める。


 夕闇が近づいている。季節は秋。少し油断したらすぐ暗くなってしまう季節。暗闇は人を不安にする。少し心と脳が疲れていたり、病気に罹ったりしていたら、その不安は一段階進化して疑心暗鬼となる。自分は果たして病気に罹っていないだろうか。そう思い、一つ溜息をついてしまう。1週間に一度だけ。学校の授業以外であの母親から解放される。この瞬間が好きだったのと同時に、嫌いでもあった。

 この瞬間が好きである理由は単純明快だ。この瞬間こそが、母親という呪縛から逃れている時だからだ。今この瞬間だけが、自由を謳歌することができる時。この瞬間だけが、

〝生″″というものを実感できる時。

 この瞬間が嫌いである理由も単純明快だ。この瞬間が終わってしまったら、また自分が束縛されるのかと思うと、心に何か重いものがずっしりと乗せられたような気持ちになる。この瞬間は有限ではない。この瞬間に限らず、この世に存在するあらゆるものが無限でないことは知っている。しかし、この幸福な瞬間が終わった後に待ち受けるものは無間地獄とも思えるような暗く、長く、辛いものだ。いつ終わるかわからない暗闇。それが待ち受けていることがわかると、今この瞬間を純粋に楽しむこともできない。今この瞬間を純粋に、最高に楽しむことが最善なことかもしれないことも理解しているが、そう簡単に割り切れるものでもない。

 そう思うと、家へ向かう足取りも自然と重くなった。

 

声が聞こえた。自分を呼んでいる声だろうか? それとも他の誰かの、他の用途を帯びた声だろうか? それを考えるのもなんだか億劫だった。

 ずっと、下を向いて歩いていた。どこから下を向いて歩いていたか忘れてしまったがおそらく学校を出たところからだろう。そんなことを考えているために生きているわけではない。そうだ、そんなくだらない、考えても幸せにはならないことを考えて生きているわけではない。


 顔を上げた。何故か、その声が気になったからだ。

 声は、自分の真正面から発せられているような気がした。

 目の前には、悠宮梓がいた。声の主は、悠宮梓だった。

 悠宮梓は、走っていた。走りながら、かなりの大声を出していた。

 かなり遠くから、全速力でこちらに向かっているように見えた。

 「早く走れ! 立ち止まるな! 車が来るぞ!!」

 悠宮梓の姿を認めた後の声は、はっきりと自分の耳に届いた。

 そして、気付いた。自分は今、横断歩道の、公道のど真ん中にいるということを。

 そして、気付いた。今、歩行者用信号が赤だということを。

 そして、気付いた。うるさいクラクションの音が、聞こえていることに。



何が起きたか理解できなくても、自分の内が理解にいくら追いつかなくとも、身体という器はありのままの現実を受け入れ、物理法則に従って動く。そのことを思い知った。





 悠宮梓の通報により、大川優誠は救急車で最寄りの総合病院である聖和総合病院へと運ばれた。

 悠宮梓は大川優誠と共に救急車に乗せられ、聖和総合病院へと連れて行かれた。悠宮梓は今、総合病院の第二手術室の前の多人数用ベンチに腰をかけ、手を組んで俯いている。大川の両親に諸事情の説明をした。大川の母親はあともう少しでこちらに着くだろう。

 自分の果たすべき役目は果たした。そういう自負はあった。しかし、実際問題事故は防げなかった。自分は今、この時に何を考えればいいのかさっぱりわからなかった。どうすれば事故を防げたのか? あともう少し自分が大川優誠があまりに不自然な歩調で横断歩道を渡っていたことを気付けば良かったのか、そもそも別々に帰ろうなんて提案に乗なければ良かったのか、考えようとすればいくらでも考えることができた。

 しかし、そんなことをいくら考えても無駄だとわかっている自分がいる、ということも梓は知っていた。だから今、自分が大川優誠のためにしてやれることは、祈るだけだった。論理的でも何でもない、まさに宗教地味たことだった。手を組み、目を閉じ、見えぬ神に祈る。それしか出来ることが無かった。それしか出来ない自分を、悠宮梓は恥じた。


 騒がしい音が入口の方面から聞こえてきた。ここは確か病院のはずだ。どうしてそんな騒がしい音が聞こえてくるんだろうか。強盗でも入ったのか?

 その声はこちらに、手術室の方まで近づいてくる。そして、梓はその音源を見た。中年の女性だった。中年の女性が、奇声をあげてこちらへ向かってきている。右に左に病院の看護婦と思われる人がその中年の女性を止めようとしている。その中年の女性が発する奇声に負けじと何かを言っているようだがそれでも中年の女性が発する奇声の方が数段上だ。こちらに近づいてくるにしたがって、何を言っているのか、ようやく聞き取れるようになる。

「何を勝手にしているのですッ! あの子は清き神の僕です!」

「大川さん、お、落ち着いてください! 今、担当の者いらっしゃいますので……」

「担当!? 何が担当ですッ! どうしてあの子がそんな……そんな神が創った神聖なる神殿の身体に人の手を加えようというのですッ!! これは犯罪です!今すぐ手術をやめろ!! やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

中年の女性は、大川の母親だった。聴く者を震え上がらせる声、聴く者を不快にさせる声で、両脇にいる看護婦達を圧倒する。もはや大川の母親は獣で、看護婦達はそれを必死に宥める調教師のように見えた。

すると、大川の母親が来た通路の反対側から、白衣を着た男が小走りで飛んできた。筋肉質な、がっしりとした男だった。

「大川君担当の藜戸(あかざと)と申します。息子さんは無事です。命に別条はございません」

おそらく大川の母親が「自分の息子の安否を気にした一種の普通の母親」であると勘違いしたのだろう。一般的な対応ではあるが、この場においては不適切な対応を返す。

「そんなことはどうでもいいんですッ!! あ、あ、あなたはッ! 息子の命より大切なものを、どうして奪おうとするのです!」

さすがにこの返事は予想に無かったのだろう。大川担当の医師、藜戸は、

「はい、えっと、どうなさいましたか?」

 と相手の言葉を確認するので精いっぱいの様子だった。

「あの子はですね! 敬虔な神の僕なんです! 私があの子を生み、いえ、神があの子をこの世に生み出してくれて、神があの子をここまで育ててくださいました。その子が交通事故に遭ったのは神の試練とも言えるものなんですッ! だから、今、私は試されているッ! ここで安易に生に手を伸ばすことは許されませんッ! 手術を今すぐ中止してください!」


 もはや論理がメチャクチャだった。しかし、絶対的な意味での論理破綻ではなかった。普通の、自分は普通なんていうドメイン(領域)を完全に説明し、理解することは出来ないが、おそらく普通の人からすれば、絶対的な意味での論理破綻であるのだろう。それも痛いほどわかった。しかし、自分もかつては普通の人間ではなかった。だからわかる。

 大川の母親が何を言っているのかが、完璧に理解できる。

 いや、少し違う。理解はできないが、言っている意味が理解できるというべきか。

 理解はできるが、そこまで自分は到達していないと言うべきか。

 到達ではない。堕ちるというべきかもしれない。

 確かに大川優誠自身から、母親は熱心なエホバの証人の信者であることは知っていた。知っていたつもりだった。しかし、自分が知っていたのは仮初の上面だけで、その土の下に埋まる、おどろおどろしいほどに醜悪な、歪んだ、複雑に絡み合ったどうしようもないカオスには気付けなかった。この人は、本気なんだ。本気で息子を殺しにかかっている。いや、息子を捧げようとしている。それが絶対だと信じている。神がそれを望んでいると。神の声は人間には聞こえない。しかし、その神の声が自分には聞こえていると信じているのだ。神が存在するのか、しないのか。その命題の絶対的な解答は存在しない。しかし、神を証拠無しに心の底からどんなことでも、どんなものでも信じている人、というのは存在するのだ。そしてそれは、神を信じる者のみの話ではない。

 しかし、実際に大川の母親が聞こえているのは神の声ではない。自分が信じている団体のただの広報紙だ。ただの雑誌、紙に書いてある文章を盲目的に信じるそこらの一般人と何ら変わりはない。根拠もないダイエット用品の効能、政治の動向。それと大川の母親が信じているものは何も変わりは無い。

 しかし、信じたことによって失うものの重さがいささか違いすぎた。それだけの話だ。

 もし仮に、この世に神の声を聞ける預言者がいようとも、それをこの世の人間が信じる必要はまったくない。1人いるかもしれない神の声が聞ける預言者に対し、贋者が何人いるかわかったものではないからだ。贋物は考える限り、これから先、何人も現れるだろう。


「大変失礼ですが、大川さんはエホバの証人の信者でいらっしゃいますか?」

突然医師の藜戸はそう切り出した。大川の母親のヒステリックな発言を無理矢理制してからの発言だった。

「……神を信じるただの一の人間に過ぎません」

「そうでしたか。いえいえ、もしや、と思いまして。実は私も一なる神を信じさせてもらっている一信者なのです。こんなところで姉妹に会えて光栄です。これも何らかの神のお導きでしょう」

その言葉に梓は耳を疑った。まさか、医者も信者なのか?

確かに、姉妹という言葉は信者である人に対してよく使われる言葉だ。由来は、神の前には人類は皆兄弟姉妹だ、という聖典の言葉に基づく。

一般の人はあまり知らないであろうそれを、あの医者は知っている。もしかしたら本当にあの医者も信者なのかもしれない。しかし、もしそれが真だとして、なぜここで言うのか?


「さて、先ほどはこちら側からの説明に、いささか不備があったことをお詫びします」

「御託はいいんです。でも、私もあなたのような理解者に出会えて助かりました。私が何を言っているのか、普通の人には理解されにくいんでしょう。それは私にも少しはわかります。私のような、神に選ばれた人間にしかわからず、その他の人間には理解することができないことがあることを私が忘れていた、そのことも反省しなくてはなりません」

「えぇ、えぇ。こちらも色んな方への対処が遅れてしまったことの反省はいたします。で、なんですが、大川君についての処置についてなのですが、私に一任していただけないでしょうか」

「処置を……一任?」

「えぇ、そうです。姉妹も、神に選ばれているとはいえ、医療について詳しくはないと思われます。私は、神からこの道に歩めと言われて、なんとかこの道でご飯を食べさせてもらっている身です。なので、大変恐縮ではありますが、多くの、普通の人は知り得ない、いわゆる一般的な知識を私はちょっぴり多く持ち合わせております。なので、色々と融通が効きます。息子さん、優誠君を救うことができると思いますよ。救う、ことがね」

ここまで来てようやく気付いた。この医者はおそらく信者ではない。信者と見せかけて、それとなく言質を取ろうとしているのだ、と。

大川を手術するための、言質を。

救うという抽象的な言葉を使って大川の母親を誘導しようとしている。救うという言葉は、ルシフェル証人会の信者である大川の母親と、一般人との間に、微妙な差異がある。その差異をあの医者は利用しようとしているのだ。

「……わかりました。いいでしょう、私の息子を、あなたに一任します」

まだ何かを疑っているような目つきではあったが、なんとか了承した。

「御理解を頂き、誠に感謝をいたします。それでは、そちらのベンチに腰をかけて、お待ちいただけますでしょうか」

と言い、手術室前のベンチを勧めた。

やんわりとした口調だが、どことなく断れなさそうな響きを秘めた言葉だった。

「……いいでしょう」

「ありがとうございます。では、失礼いたします」

と深々と頭を垂れて、その場をあとにしようとした。その背後に、

「もし――」

大川の母親の、凛とした声が廊下に響いた。

「あの子にもし、俗なる血を入れようことがあるなら……どうなるかわかっていますよね? センセイ?」

聞いたものを全員凍らせてしまうのではないかと思う声だった。普段は喋らない人が前後の脈絡無く突然怒鳴り始めた時の場の空気のようなものが手術室前の廊下に流れた。

医師の藜戸はピタリと止まり、ゆっくりとこちらに振り向いた。こちらを向いた時の顔は、笑顔だった。まさに貼り付けた笑顔、という表現がピッタリの機械的な笑顔だった。

「もちろん、善処させていただきます」

まったく動じることなくそう言ってのけたのだった。

「そんな言葉を使って私を惑わすのは止めてくださいッ!! 私が従うのは神の御言葉のみです!! 何が〝善処″ですかッ!? 私はあの子に俗なる血を入れるか、入れないか、とだけ尋ねているのですッ! そんな曖昧な言葉を使って私を拐すとは……あなたは医者失格ですッ!!」

「落ち着いてください、奥さん」

「あなたが私を動揺させているんでしょうッ!?あなた、わかっているんでしょうねッ!? あなたは今、私を騙しているんですよッ!? あなたも知っているでしょう!? 98年のルシフェル訴訟をッ!?」

えほばルシフェル訴訟。1998年に、実際にあった訴訟だ。患者への説明責任、インフォームド・コンセントという言葉が見直された事件として一部で有名だ。梓もそれをよく知っている。

「えぇ、もちろん心得ておりますよ。しかし……」

「しかしも何もありませんッ! 実際にそういったこの国の法が私の、私と、私の神に味方しているというのに……。あなたたち、医者というのは本当に自己満足な価値観でしか生きることのできないブタですね! あの子とこの世の理を一緒にしないでください! あの子は神に選ばれた聖なる子供なのですッ! もしあの子がこの手術で死ぬようなことになろうとも、あの子は幸せなんですッ!」


気が付いていたら。

僕はベンチから立ちあがり、大川の母親を殴っていた。


「ちょ、ちょっと! 何をしているんだい君ッ!」

ハッと我に返った時、梓は藜戸におさえられていた。

「お、お前は……誰?」

殴られた左頬を抑えながら尋ねられる。

「……俺だって、俺だってクリスチャンだ! ルシフェル証人会じゃあないけどなぁッ! だったら俺の血だったら満足するかッ!」今は毎週教会に通っているクリスチャンではない。形だけのクリスチャンだ。しかし、一度教会で洗礼を受け、信者、いわゆるクリスチャンになった者は、よほどのことがない限り、そのクリスチャンという形が消えることはない。だから、嘘を突いているわけではない。



意味不明なことを叫んでいた。気持ちが全面に押し出されすぎていて、論理的なものは何一つない言葉だった。

「はっ……?」

それを聞いた大川の母親も呆気にとられたようだった。一体コイツは何を言っているんだ、という目をしていた。その目と梓の心は実は一致していた。


その時、スーツ姿の男2人が歩いて手術室の前までやってきた。

それに気付いた大川の母親が目を思いきり見開いて大声を上げる。

「あなたッ! 今の今まで何をしていたんですか!?」

「役所に寄っていた。すまない」

「や、役所……?」

普段、ほとんど耳にしない単語に顔をしかめてしまう。少なくない結婚生活を送っている中で、主人が役所に行ったことなんてほとんど数えるほどしかない。いや、行ったことはあるかもしれないが、その時は事前に告げていたし、まったくの私用であればこんな報告はしてこなかった、と言える。

「あぁそうだ。で、息子は一刻も早く手術が必要な状況のようだが?」

凛とした響きを持たせて、大川の父親が母親に言う。

「えぇ、そうです。しかし、あの子は……」

「あの子は、なんだろう? あの子は大川優誠。私の息子であり、君の息子だ。まさか、手術を拒否している、なんてことはないだろうね?」

「ちょ、ちょっと待ってください。そんな言葉尻を捕えられて断片的に責められても答えられるわけ無いでしょう!」

「何を訳のわからないことを。君自身が何を信じるかは勝手だ。それは僕と君が付き合う前から決めていたことだ。そこまで僕がとやかく言う筋合いはない。そして、君が子育てに普段家にいない僕があれこれと関わることもノーだと言った。それもしょうがないと思った。だから受け入れた。で、それで僕がまったく無関心でいたと本気で思っているのかい?」

「な、何を言っているのか……」

「おおかた、君のことだから、君と同じ神を信じていない僕は子育てするのに相応しくないとかなんとか思っていたんだろう。それもいいと思っていた。世の中、そういう家庭もあるかと思った。だから子育ての中心的な部分は君に任せて、僕は僕の。僕ができることを優誠にしてやろうと思った。だからこうして、役所に寄ってから病院に来たんだ」

「だ、だから何をしに役所に寄っていたって言うんですか……? 優誠の手術より重要なことだとでも言うんですか……?」

「あぁ、重要だ。優誠を助けるために非常に重要だと思った。だから寄った。聞いたよ、彌生(やよい)。手術、拒否したんだろ?」

「…………」

「こちらの方、児童相談所の方だ。大島さん、という」

もう一人の方のスーツ姿の男性を、そう紹介した。

「じ、児童相談所……?」

テレビドラマの中でしか聞かないような単語に大川彌生は眉間に皺を寄せた。ここで児童相談所、という言葉が出てくること自体不自然過ぎたし、さらにその児童相談所の人間がここにいるということも不思議過ぎることだった。

「こういうことだよ、彌生。君は今、この瞬間、優誠の母親じゃない」

「え……? は……?」

優誠の母親じゃない。その言葉の意味がしばらく飲みこめずにいた。何を言っている? 優誠は私の子供だ。私が腹を痛めて生んだ正真正銘私の子供だ。お昼の2時にワイドショーを放映するぐらい、間違いないことだ。

「詳しいことは、こちらの児相(児童相談所)の方が説明してくれる。では、すみませんがお願いいたします」

「はい、では、こちらから説明させていただきます。こんにちは奥様。私、中央児童相談所の福祉・厚生総合課長の大島と申します。実は、1ヵ月前から御主人の方からお子さんのことについてある相談を受けておりました」

「そ……、相談? 主人が……児童相談所に?」

まさに寝耳に水な話だった。優誠がネズミを捕まえて学校から帰って来た時よりも新鮮な驚きを感じていた。

「はい、それで、当方で調査の最中のところで、今回の奥様の一件、息子さんの事故がございました。3時間前に、聖和総合病院の藜戸医師からの要請に応じ、当児童相談所は今回の手術拒否を〝医療ネグレクト〟、つまり、事実上の児童虐待と判断いたしました」

医療ネグレクト(拒否)、児童虐待。普段は聞き慣れない、しかし、どこかに不穏な響きのある単語のひとつひとつをちくり、ちくりと頭の中で反芻させる。そんな馬鹿な、そんな馬鹿な……。

「ちょ、ちょっと、児童虐待って、ちょっと待ってください、いきなりそんな……」

「つきましては、当児童相談所は一時の親権喪失相当であると判断し、家庭裁判所へ申し立てを行いました。聖和病院にもすでに連絡がいっているとは思いますが、30分ほど前、即日判決が出ました。『親権喪失宣告』です。   

こちらに、裁判所が発行した書類がございますので、詳細の方をご確認ください」

と言って、懐から茶封筒を取り出し、大川彌生に渡そうとする。しかし、彌生は受け取ろうともしない。顔面は蒼白になり、手は震えている。

「嘘よ……。そんなの……嘘……」

「つまりだ、彌生」と大川の父親。

「お前の言うことなんざ、誰も聞いちゃいなかったんだよ。止めようとしたのも、すべては演技。ここは病院だからね。あまり大声を出すと迷惑をかけるだろうから、適当な話をして、お前を暴れさせないようにしただけなんだよ。お前はもうこの瞬間、大川の母親でも何でもないんだ。母親でも何でもない奴を、ましてや、自分の息子を救おうとしない奴の声なんて、誰が聞く?」

 いや、正確には、最後のチャンスだったのかもしれない。もし、病院で彌生が息子の治療を優先してくれと懇願したら。普通の対応をしていたら。親権剥奪は免れていたはずなのだ。しかし、今回は親権剥奪という非常事態までに発展してしまった。もし、大川の父親が児童相談所に何も相談しておらず、直接病院に駆けつけてしまったら、大川の母親と父親で少なからず争い、諍いが起こっただろう。そうなると、病院側も多少なり行動が遅れてしまったかもしれない。実際にこの国の判例で信仰の自由を保証する判決が数年前に下されているのだ。それがルシフェル訴訟と呼ばれている。もちろん、今回とはケースが少し違う。ルシフェル証人会の信者本人が治療を拒否したのに病院側が治療を強行した際に、ルシフェル証人会信者側が勝訴したのがルシフェル訴訟だ。だから、厳密には今回とは違う。しかし、そうした類似した裁判で原告側が勝訴している判例があるため、病院側も思い切って動くことができない。良くも悪くも、判例主義の日本の司法。その悪い面が最悪の形で大川優誠の治療を邪魔した、というわけだ。

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