第30話 アレフの選択
鈴を転がすような、虫の音が鳴っていた。
声はすれども姿は見えぬその虫の鳴き声を聞きながら、アレフはぼんやりと空を見上げる。
ナイがずっと暮らしてきた森、今ではアレフ達の拠点となって家を建てたその広場の頭上はぽっかりと穴が空いていて、柔らかな月の光が差し込んできていた。
結界避けの護符。ダリヤがどこからか調達してきたそれを使えば、あの穴にはしごでもかけてしまえば外に出られるのだという。だがダリヤ自身の分を除けば使えるのは一度きり、通れるのは一人きりだ。
「眠れないの?」
かけられた声にハッとして振り向くアレフに、ナイは微笑みかけた。いくら森の中、そこに住まう
「まあ、寝台は奪われちまったしな」
苦笑して答えるアレフの隣に、ナイはすとんと腰を下ろした。彼の寝台は今夜、ダリヤが占領してしまっている。幼い頃ならばともかく、流石に同衾するというわけにもいかない。だが、彼が起きているのは、それだけが理由ではないであろうこともナイにはわかっていた。
「……本当に、帰らなくていいの?」
ダリヤが差し出した結界避けの護符を、アレフはダンジョンでの暮らしが気に入っているからと受け取らなかった。その言葉に嘘はない。
「まあ、まったく未練がないと言うと嘘になるがなあ」
サイラス・イーシュ・ケリヨーテ。アレフの両親に罪を着せて殺し、彼を剣奴の身に落とし、そしてこのダンジョンに送った諸悪の根源であり、仇。憎くないわけがないし、アレフになってから起こした反乱で彼を仕留め損ねたのは心残りではある。
だが結局はそれも、殺すか殺されるかの話だ。たとえ彼を殺すことができたとしても、それでなにかが変わるわけではない。それで気が晴れたとしても──あるいは、貴族の立場に戻れたとしても、別の誰かに殺される日を待つことになるだけだ。
それに比べれば、ダンジョンでの生活は悪くないものだった。外敵も多いが、
それに何より、ここには家族がいる。
「──アレフ」
不意にナイはどこか思いつめたような表情で彼の名を呼び、その服の袖に縋るようにぎゅっと握りしめて、言った。
「お願い。いかないで。ずっとここにいて」
その懇願に、アレフは思わず目を見開く。
「……てっきり、逆のことを言われるのかと思った」
まだそう長い付き合いというわけではないが、彼女の人となりはわかっている。ナイは自分のことよりも、他人の心情を優先できる少女だ。彼女なら、自分たちのことなど気にしなくていいから行って来い、と、そう尻を叩くかも知れない、と何となく思っていた。
「そうね。ちょっと前の私ならそう言ってたかも。でもね……」
ナイの手に、力がこもる。
「あんたがベートと戦った時、死んじゃうかも知れないって……本当に、死んじゃうかも知れないって思ったのよ……」
実際、ベートがその摩訶不思議な力をアレフの為に使っていなければ、彼は死んでいただろう。
「……悪かった。もう二度と、そんな想いはさせねえよ」
アレフはその大きな手のひらで、ナイの銀色の髪を撫でる。
「約束して」
「ああ。約束する。もう二度と危ない事はしないし、お前たちもそんな目には合わせない。地上にもいかない。……これでいいか?」
潤んだ瞳でじっと見つめるナイに、アレフは降参するかのように手を上げてそう告げた。
「足りない」
「これ以上どうしろってんだよ」
しかし首を横に振る彼女に、アレフは苦笑する。
「私も約束する。地上なんかで暮らすよりも、ずっとずっとあんたのこと、幸せにしてあげる。未練なんて思い返す余裕もないくらい、満たしてあげる。私が──」
アレフのあげた手に、するりとナイの指が絡まる。
「私が、あんたの居場所になってあげる」
「ナイ──」
彼女の名を呼び、何事か告げようとしたアレフの唇が、柔らかく、甘く、塞がれる。
「だからずっと……そばにいて、アレフ」
そして。
柔らかく降り注ぐ月の光の下、二人の影が重なり合った。
* * *
その、翌朝。
「まあ、使うにしろ使わないにしろ、とりあえず渡しておくね」
「いや、いい。それはお前が持っててくれ」
護符を一枚差し出すダリヤに、アレフは首を横に振った。
「えー。なんで? 持ってればいいじゃない。せっかく苦労して持ってきたのにー」
「悪いな。要らないなら適当に、誰も拾えないような場所に捨てておいてくれ」
子供っぽく頬を膨らませるダリヤをなだめ、アレフはそう頼む。他にどのくらいこの護符があるのかはわからないが、帰る方法があるとなれば大々的に攻め込むことも可能になってしまうかも知れない。
「勿体ないなあ……まあいいや。ところであの銀色の髪の子は? ボク、またあのスープ飲みたいんだけど」
ダリヤはぼやきつつも護符を胸元にしまい込み、よほど気に入ったのかそう言いながらキョロキョロと辺りを見回した。
「あー……ナイなら、まだ寝てる……」
アレフは僅かに視線を泳がせて言いよどみ、付け足す。
「ちょっと疲れてるみたいでな」
「? ふうん?」
「ぎー……?」
首を傾げるダリヤの背後から、訝しむような目でギィがじっとアレフを見つめていた。
「まあいいや。じゃあボクは帰ろうかな」
「あ、ちょっと待った」
興味を失ったように告げるダリヤの手を掴んで止めると、アレフは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「悪いんだが、地上に戻るならこれを届けてくれないか?」
「なあにこれ?」
くるりと巻かれたそれを、ダリヤは無造作に開く。
「ふーん。熱烈なラブレターだね」
そしてその内容を確認して、ニヤリと笑みを浮かべた。
「頼めるか?」
「心得た」
ダリヤは重々しい口調で頷くと、それも胸元に仕舞い込んで荷物を背負う。
「じゃあね、アレフ兄ちゃん。と、えーっと、何だっけ。トカゲの人、赤い髪の人、白い髪の子。銀の髪の子にもよろしく言っといてね」
「……ああ」
名前くらい覚えろとベートは思ったが、もう二度と会うこともないだろうし、一度殺し合っただけの仲だ。深く気にするのはやめて、ベートは低く唸るように返事をする。
ダリヤは無邪気に手をふると、空高く護符を投げ放った。ダンジョンと地上の境目、何もない中空に丸く穴が空き、まるで紅に染まった月のように輝いた。
「バイバイ、またねー!」
ダリヤは身軽な動作で木々をあっという間に登って行くと、しなる枝の反動を利用して高く飛び上がり、その月に吸い込まれるようにして潜り込む。彼女がそこを通り抜けた瞬間、同時に空中の穴も消え去った。
「……まるで嵐がダンジョンの中にやってきたようだったな」
「ああ。昔っからあいつはそうさ」
槍をトンと肩に担ぎぼやくベートに、アレフは苦笑する。懐かしくもあり、騒がしくもある。もう二度と会えないと思うと寂しさはあった。
「アレフ……」
何とはなしに空を見上げていると、ふらりとナイが姿を表す。
「あー……おはよう。その、身体は大丈夫か?」
ちょっと無茶をさせてしまったかも知れない。少しばかりバツの悪い思いで声をかけると、ナイは倒れ込むようにしてアレフの方によろめいてくる。慌てて身体を支えようと駆け寄ると、彼女はアレフの胸ぐらを掴むようにして睨め上げた。
「ラブレターって、何」
低く唸る声とともに放たれた、ダリヤに勝るとも劣らぬ殺気にアレフの背筋がぞくりと震える。
「いや、それは言葉の綾であってだな……」
「未練があるって言ってたのは、それを送った相手なの……?」
「まあ、ある意味間違っちゃあいないが……お前が想像しているようなものとは多分違うぞ」
ぐいぐいと迫るナイにたじたじと押されつつ、アレフは弁明する。助けを求めるように視線を向けると、ベートはさり気なく視線を反らし、ヘレヴはおろおろと狼狽え、ギィは囃し立てるように腕を振り上げてぎぃぎぃ鳴いていた。
「何笑ってるのよ。ちゃんと説明して」
まなじりを釣り上げるナイにそう言われ、初めてアレフは自分が笑っていることに気がついて。
「ぎっ!?」
「あっ」
「ほう」
驚きの声が三つ上がる。
「…………こういう事だ。わかったか?」
そう尋ねるアレフに。
「………………………………………………わかった」
ナイは耳の先まで真っ赤に染め、口元を腕で押さえながら、蚊の鳴くような声で頷いた。
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