第17話 剣奴の師

「クフ・ユッド・ダレット。起きろ、クフ・ユッド・ダレット!」


 それが自分のことを呼んでいるのだと思い出すのに、しばらくの時間が必要だった。具体的に言うのであれば、腹を強く蹴りつけられるまでだ。


「さっさと準備しろ」


 痛みにのたうっていると、男は冷徹な口調でそう告げた。カランと乾いた音を立てて転がされたのは、粗末な作りの棍棒だ。それを見てようやく、自分の立場を思い出す。


 準備しろと男は言ったが、準備と言うほどの作業は存在しなかった。痛む腹を抱えながら起き上がり、棍棒を拾って、ノロノロと「仕事場」へ向かうだけだ。


 初めて入った「仕事場」は、閑散とした有様だった。客は殆ど入っていない。無関心な瞳がいくつもこちらを見下ろしてくる中、たった一つだけ強い敵意を持った視線がこちらに突き刺さっていた。


 対面に立った、男だ。少年と言っていい。こちらが持っているのと同じような棍棒を手にして、ボロボロの服だけを身に着け、恐怖と怒りがない混ぜになったような表情でこちらを睨んでいる。


 つまり、自分と同じような人間だった。


「うおおおおお!」


 相手は突然雄叫びを上げ、猛烈な勢いで襲いかかってきた。


「っ!」


 渾身の打ち下ろしを、棍棒を掲げてどうにか防ぐ。しかし攻撃は二度、三度と続けざまに放たれてきた。一撃でも喰らえば肉をえぐり、骨を砕くであろうその攻撃に怯えながら、なんとか防ぐ。


 剣の訓練をしたことはあった。だがそれはあくまで訓練であって、実戦とは程遠いものであった。初めての命をかけた戦いに、習った技など頭から抜け落ちて、ただただ恐怖だけが頭を支配する。


 怖い。怖い。怖い。何度も何度も放たれる攻撃を、ただただ防ぐ。防戦一方だ。いくら守ったって、攻撃しなければ勝てるわけがない。しかし相手の猛攻を前に、反撃に出る隙など微塵もないように思えた。


 だが、不意に攻撃が止む。ちらりと見れば、相手は肩で息をしながら、辛うじてといった様子で棍棒を構えていた。考えてみれば当たり前だ。あれ程がむしゃらに攻撃してくれば、その体力がいつまでも続くわけがない。


 そこで初めて、相手の顔を見た気がする。

 まだあどけなさを多分に残した、幼い少年だった。身体もこちらより小さく、まともな食事を取れていないのだろう、手足も枯れ木のように細い。こんな相手を恐れていたのか、と思った。


 たん、と軽く足を踏み込めば、相手は異常なほどにそれを警戒してびくりと身体を震わせた。その瞬間、導かれるように棍棒を振り下ろしていた。驚きに身体を硬直させていた相手はそれをかわすことも出来ず、一撃は彼の頭を綺麗にとらえる。


 ──そして、そのまま絶命した。


「勝者、クフ・ユッド・ダレット114番!」


 遠くで、男の声が聞こえた。






 次の日から、自分の呼び名はクフ・ユッド・ダレット114番からクフ・ユッド110番になった。見世物として殺し合いをする剣奴。それが、今の自分の立場だった。


 勝てば勝つほど名前の番号は小さくなっていき、扱いも良くなるのだそうだ。負けた時のことは考える必要はない。その時はたいてい、死ぬしかないからだ。


 100番以降の剣奴は親の代から奴隷であった子供ばかりで、訓練もろくに積んでいなかった。棍棒を渡されるのも、自分の武器を扱いそこねて死んでしまっては興ざめだからだ。


 そんな中で、僅かとはいえ剣の訓練を積んでいた身が勝つことは難しくはなかった。初めての戦いでは興奮と恐怖のあまり混乱に陥ってしまったが、それは相手も同じことだ。恐怖に竦んで動けなくなるか、逆に最初の相手のように闇雲に打って出るか、そのどちらかしかない。


 冷静に見定めればその動きは酷く単調で、あれほど恐ろしかった猛烈な攻撃も、単にがむしゃらに棍棒を振り下ろしているだけに過ぎなかった。払い、一撃を加えてやればそれで勝負がつく。


 だがそんな戦いもいつまでも続くわけではないとわかっていた。番号が二桁になれば、大人の剣奴が出てくる。大人と言っても二桁後半の剣奴は訓練を殆ど積んでいないごろつきや犯罪者のようなものだったが、それでも大人と子供では腕力が違う。勝つには技が必要だった。


 だから試合のない日は、隠れてひたすら訓練に明け暮れていた。かつて師から習った剣の技を思い返し、ひたすら愚直に繰り返す。


「お前、面白い奴だなあ」


 ──彼に出会ったのは、そんなときの事だった。


 誰にも見つからないよう隠れて訓練していたのに、気配も感じさせず声をかけてきたその男に、本能が警鐘を鳴らす。


 鍛え抜かれた体躯はまるで巨木のようで、それでいて鈍重そうな印象は微塵も感じられない。


「何だってこんなところで訓練してんだ? 訓練室ならちゃんとあるし、教官もいるだろ」


 そしてその見た目に似つかわしくない、涼やかな声で彼はそう尋ねた。


「取って食いやしねえからさ。そんなに警戒すんなよ」


 じりじりと後退る自分の方を、男はぽんと叩いた。間合いは、取っていたはずだった。だが近づくその動きも、気配も感じられなかった。彼は殺そうと思えばいつでも自分を殺せる。それを実感して、かえって体の力は抜けた。


「……訓練室は……動きを、見られる」


 訓練以上の動きを出来る実戦なんてない。だから、訓練を見ていればその相手の最高の動作を確認できる。そしてそこで訓練している相手は、全て敵なのだ。


「なるほど、違いない。けどなあ、お前さんの動き、悪かないが一人で出来る訓練には限界があるぜ」


 それには気づいていた。気づいていたが、どうしようもない。


「どうだ、坊主。俺が鍛えてやろうか」


 突然の申し出に、目をむいた。男はどう考えたって、上級剣闘士だ。二桁前半……いや、一桁台すらあるかも知れない。まず当たることはないだろうから、動きを見られて困る可能性は低い。


「……なんで……ですか」

「気まぐれだよ。強いていえば……お前の目が気に入った」


 妙な理由だった。だが、それに縋るしか生きていく道がないこともまた、わかっていた。


「お願いします」

「おう。俺は、アレフだ」


 名乗った男に、もう一度目を剥いた。上級どころじゃない。アレフは筆頭剣闘士。この闘技場で、最も強い男に与えられる番号だった。


「僕は……」

「ああ、いい、いい」


 名乗ろうとすると、アレフは面倒くさそうに手を振った。


「お前はこれからどんどん名前が変わるだろうからな。『坊主』で十分だ」






 果たして、アレフの言う通りになった。

 筋肉の塊のようなその見た目にそぐわず、彼の指導は的確でわかりやすいもので、自分の実力がめきめきと伸びていくのがわかった。


 彼の指導がなければ、一年も経たずにアイン70番程度で命を落としていただろう。それほど、剣闘士の生活というのは過酷なものだった。


 アレフが教えてくれたのは、戦い方だけにとどまらなかった。様々な生き物の生態や体の作り、殺し方に解体方法。食べられる草の見つけ方や、飲み水の濾し方。歴史に数学、薬学まで多岐に渡っていた。


 闘技場では人ではないもの……魔物や猛獣と戦わされることもあったから、そういった生き物の話を聞くことは大いに役立ったが、サバイバルに関する知識や学問が一体何の役に立つのかはさっぱりわからなかった。


 そして──俺が剣奴になって十年経った頃。とうとう、その日がやってきた。


「師匠……アレフ師匠……!」


 胸から血を流す彼に、俺は駆け寄る。


「流石、俺だな……」


 その傷口を見下ろしながら、アレフはニッと笑った。


「完璧な一撃だったぜ、坊主。この俺の素晴らしい指導の賜物ってやつだ」

「喋らないでください! 今、止血しますから!」


 俺は、ギメル第三席になっていた。そして師であるアレフ筆頭との試合が組まれたのだ。


 この十年でアレフは老い衰えた。それでも彼の技は他の剣闘士たちを寄せ付けずアレフで居続けたが、俺は同じ技を持ち、彼よりも若く逞しい肉体を持っていた。

 アレフは、その全ての技を、俺に教えたのだ。


「無駄だよ。こりゃもう助からん」

「馬鹿なことを言わないでください! 師匠なら大丈夫です!」


 剣闘士の敗北はたいてい死を意味するが、まれに生き残ることもある。負けはしても、素晴らしい試合をすれば助命されることもある。俺とアレフの戦いは、それに足るものだったはずだ。


「……せ」


 だが。


「殺せ」


 誰かが、ぽつりと呟くように言った。


「殺せ」


 それはさざなみのように広がっていく。


「殺せ。殺せ」


 無関心ないくつもの瞳が、俺たちを見下ろして。


「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 今や熱狂とともに、そう叫んでいた。


「そら、やれよ……やれないなら、お前が殺されるぞ」


 己の剣を手渡して、アレフは言う。


「駄目です……出来ません……師匠。アレフ師匠。俺は、あなたのおかげで……」

「ばーか」


 アレフはニカリと笑った。


「今からお前が……アレフだ。さあ、やれ!」


 凄まじい殺気が放たれる。俺の身体は考える前に動いていた。この間合い、やろうと思えば武器などなくても師匠は俺を殺せる。


 だから俺は。


 彼が俺の身体に叩き込んだ通りの一撃を持って、彼の首を、刎ねた。






 浴室の中はしん、と静まり返っていた。

 ちょいとばかり話が長すぎたか、とアレフは思う。


「ま、そんなわけで筆頭剣闘士になった俺は、そんな国はぶっ潰しちまおうと思ってな。色々あってそれに失敗して、迷宮送りになったってわけだ」


 話をさっさと終わらせちまおう。


 そう考えて強引に話を纏めたアレフの耳に、水音が響いた。

 水道から湯が漏れ出たか、と蛇口を見るも、そこには雫すら垂れていない。にもかかわらず、ぽたりぽたりと水音が鳴る。


「ぎっ……ぎぃ……」


 嗚咽に視線を向ければ、ギィが涙を流していた。

 ギィだけではない。ナイも、ヘレヴもだ。


 アレフはガリガリと髪をかく。風呂は好きだが、湿っぽいのは苦手だった。


「……温まり過ぎたな。そろそろ出るぞ」


 だが。


 ポカポカと温まった胸の中は、久しぶりの入浴のせいだけではないだろう。


 そんな気だけは、した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る