第5話 『避けられぬ死』

「おおっ、見ろよギィ、こりゃ凄いぞ!」


 アレフは目の前に広がる光景に思わず快哉をあげた。

 謎の射手に言われるままに通路を歩き辿り着いたのは、巨大な地底湖だったのだ。

 細く続いた通路は急に袋のように膨れ上がって、大きな空洞を作り上げている。その半ばほどから水がたまり、一面の湖を為していた。


「これだけありゃあ、俺が百人いても千年は大丈夫だな」


 アレフは跪いて、湖の水をすくい上げる。水際には柔らかな下生えの草が広がっていて、澄んだ水は驚くほど冷たかった。匂いをかぎ、舌先をつけてみても嫌な匂いやピリピリとした感触は全くない。新鮮で清浄な水だった。


「おい、何してんだ、ギィ。お前も来いよ」


 何故か入り口の辺りで壁に張り付いているギィを振り返って、アレフは手を振る。


「ぎ、ぎぃー……」


 だがギィは何かに怯えるように、一向に動こうとしなかった。


「何だ、これだけの水を見るのが初めてだから怖いのか?」

「ぎーっ、ぎー! ぎー!」


 からかうように声をかければ、ギィはこちらを指さす。


「悪い悪い、怒ったか? 大丈夫だからお前も来いよ」

「ぎーーーっ!」


 そしてその指はどんどん上にあがっていって、遂にアレフを追い越し天井を指さすまでになった。


「何だ?」


 彼女のただならない様子にふと振り向くと、アレフは巨大な蛇の顔とばっちり目が合う。湖からその身体をもたげているのは、アレフの身体と同じくらい太い身体を持つ大水蛇だった。その長い身体を天井近くまで持ち上げて、こちらを見下ろしている。まるで時が止まったのではないかと錯覚する程微動だにせず互いに見つめ合っていると、大水蛇は長い舌をチロリと出した。


「うおぉっ!? なんだ、こいつは!」


 それを合図にしたかのように大水蛇は口を大きく開けて首を伸ばし、同時にアレフは後ろに跳んでそれをかわした。


「……俺よりデカい奴には久々に会うな」


 大水蛇を見上げて、アレフは軽口を叩く。胴体の太さは一メートルほどだろうか。長さは水中から持ち上がった身体だけでも軽く十メートル以上はあるように見える。水底に身体を横たえて頭を支えているとすれば、全長は少なくともその倍はあると見ていいだろう。


 大水蛇はゆらりと身体を揺蕩わせながら、狙いを定めるようにゆっくりと頭を動かす。見た目上は動いているようには見えないのに、頭の動きに連れてスルスルと身体が流れていくのが不気味だった。


 かと思えば、ゆっくりした動きが一転して矢のように牙が飛んでくる。ただの矢なら先ほどのように受け止めてしまえばいいだけだが、大水蛇の頭となると流石のアレフも避けるしかなかった。


 ガチンと音を立てて牙が交差し、虚空を噛み砕く。


「デカいくせにすばしっこい奴だな」

「ぎーっ」


 何か後ろから抗議の声があったような気がしたが、それどころではない。剣で反撃しようにも、噛み付いたあと頭は素早く引き戻されてしまって手が届かない。自分よりも大きな相手の場合懐に入り込むのが定石だが、変幻自在に動く蛇を相手にそれをするのは自殺行為でしかない。


「来いっ!」


 アレフは剣を片手に構えて高く掲げ、もう片方の腕を前に突き出す。タイミングを計るようにゆらゆらと揺れる大水蛇の目をじっと見つめながら、アレフはその時を待った。


 弾かれるように、大水蛇の首が伸びる。その時点で、アレフは己の考え違いに気がついた。いつの間にか大水蛇は身体をぐっと彼に寄せ、その分首を複雑に折り曲げてそれを感じさせていなかった。結果として、アレフが思っていたよりも速く長く大水蛇の首は伸びた。避けきれない。


 目の前で大きく開く顎を、アレフは目を見開いて見つめる。まるで剣のような二本一対の牙はぬらぬらと濡れた輝きを帯びていて、これに貫かれればただではすまないだろうという予感を抱かせた。


 その横面を、突き出したアレフの腕がぐいと押す。彼の豪腕とて大水蛇の頭を受け止めるにはか細すぎるが、ほんの少し逸らす程度であれば造作も無い。同時に足を開いて半身になり、アレフは僅かな動作で攻撃を躱した。


 と同時に、大水蛇の伸びきった首が彼の目の前に来る。


「もらったっ!」


 無防備な首目掛けて、アレフは一気に剣を振り下ろした。


 甲高く金属音が鳴り響き。


「ありゃ」


 根本からポッキリと折れた剣とこちらを睨みつける大水蛇の顔とを見比べて、アレフはどうしたものかと思案した。






 並び立つ木々の梢に腰掛けながら、彼女は先ほど現れた男の事を思い出していた。

『避けられぬ死』には剣も矢も効かない。あの男がどれほど素早く動こうと無駄だ。今まで何人もあの通路へと入っていったが、出てきたものは一人しかいない。敏感に大水蛇の存在を察知して逃げ帰ってきた彼女だけだ。


 あの男も戻ってこないということは膨大な水に惹かれて湖に足を踏み入れ、殺されたのだろう。愚かなことだと思う。


 だが一番愚かなのは、我が身可愛さにそんなところに追いやった自分自身だ。


 ごつりと、樹の幹に額を押し当てる。落ち込んだとき、彼女はいつもこうしていた。この小さな小さな森だけが、彼女の世界だ。


 ずるりという音に、はっと顔を上げた。


 音は、『避けられぬ死』の巣へと続く通路から聞こえてくる。一体何ごとかと目を見張ると、大水蛇の巨大な顔がぬうと現れて、彼女は悲鳴をあげるところだった。


 『避けられぬ死』があの湖から出てきたことは一度もない。ゆっくりと進む『避けられぬ死』に、彼女は怯え震えながら後ずさった。どん、と背中に樹の幹が当たる。そこは森の境目だった。これ以上離れようとするなら、森の外にでるしかない。だが、そんなことが、出来るわけがない。


「おーい」


 突然、『避けられぬ死』が口を利いた。


「こいつ、倒しちまったんだけどさあ」


 いや、違う。さっきの大男が、『避けられぬ死』の顎を両手で持ち上げて引きずっていた。信じられない膂力だ。

 混乱する彼女に、男はなおも言葉をかける。


「これって、あんたのペットだったりする?」

「そんなペットがいるわけないでしょっ!」


 答えるつもりなどないのに答えてしまったと気付いたのは、


「そっか。なら良かった」


 にこやかな男の笑顔を見た後のことだった。

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