第一章 黒い聖母

第一話 邂逅

 とある平日の、正午を二時間ほど経過した時刻のことである。

 東京都日野市のJR中央線豊田駅南口の路上で、笠井隆かさいたかしは空腹を抱えて立っていた。

 この時、この駅の南口に立っていなければ、その後の彼の運命はもっと平穏だったに違いない。

 隣の日野駅だったら何の問題もなかった。

 いや、せめて豊田駅の北口に移動していれば何の問題もなかった。

 豊田駅北口には牛丼チェーンのトップスリーが店舗を構えており、激しい顧客獲得競争を繰り広げている。その中のひとつに一般市民として入っていれば、それでよかったのだ。

 しかし、いつの間にか事件に巻き込まれているのが彼の運命である。

 平日の昼であるにもかかわらず、JR中央線の駅前とも思えない人通りの少ない豊田駅南口で、空腹を満たす手段を考えてしまったことが彼の不運だった。

 豊田駅は南口階段を下りたところにタクシー乗り場があり、左方向に向かうとさびれた商店街が広がっている。その商店街の入口にその店はあった。

 他に選択肢はない。

 周囲には夜しか営業しない居酒屋か、間口の狭い貴金属買取店しかない。

 最終手段であるコンビニが一軒あったが、昼過ぎの品揃えは期待できない。

 彼は仕方なくその店の前に移動して、対峙たいじした。

 もとは紺色だったのだろう。色あせて端のすり切れた暖簾のれんが、店先にぶらさがっている。白く染め抜かれていたと思われる文字がその中に埋もれていて、よく見なければ判別がしがたい。

 かろうじて「大衆食堂月光」と書かれていることを読み取った。

 店先には食品サンプルの棚が三段、しつらえてある。

 上の段にはラーメン、カレー、カツ丼、二段目には焼肉定食、野菜炒め定食といった定番の商品サンプルが埃をかぶった状態で置き去りにされている。

 二段目の右端に、店の名前から考案したらしい「月光丼三百円」という文字が、よれた厚紙にマジックペンで妙に達者な手跡で書かれて立てかけられている。

 三段目の棚には、大福帳を持った焼物の狸や、木彫りの熊の置物など、どうしてここに置いたのか理解に苦しむ、どうでもよい雑貨が並んでいる。

 奥にソフトビニール製の初代ウルトラマンが横倒しになっており、ことさらにびを感じさせた。

 見ようによってはレトロ、実際は古ぼけた外観である。

 窓はり硝子で、中をうかがうことができない。この手の個人食堂はどうして中が見えないのだろうかと、彼はどうでもよいことを考えた。

 先客がいなければ、こんな店、不安で入れるわけがない。

 とはいえ空腹は耐えがたいので、彼はたった数百メートル移動して北口に行くという最後の機会を放棄して、その店の暖簾を頭で分けて、中に入った。


 途端に、油とほこりが長い時間かけて融合した、もっさりした匂いが鼻をつく。

 蛍光灯が古いせいか薄暗い店内には、入口正面に壁に向かって取り付けられたカウンター席が五つ、右手奥に四人掛けのテーブル席が二つある。先客の姿はない。そして、テーブル席の奥に厨房があるらしい。

 隆は何とはなしに入口に一番近いカウンター席につく。

 目の前には二つ折の簡単なメニュー立てがあり、妙によれた、やはり達筆の手書きメニューが差し込まれていた。

 それを手に取ってみる。

 品数はラーメン、カレー、カツ丼、焼肉定食、野菜炒め定食、そして月光丼の六つ。金額も野菜炒め定食の七百円が最高で、月光丼の三百円が最低だ。これは豊田駅前の相場から見て、激安の部類に入る。

 隆はふと迷った。

 普通、初めての店に来た客は、焼肉定食かラーメンを食べる確率が高い。それは、肉を焼くだけ、ラーメンを茹でるだけならば、どう考えても不味くなりそうにないからだ。


 しかし、焼肉定食という選択肢には明らかな問題点が一つあった。

 野菜炒め定食よりも安い焼肉定食、というのはどうなのだろうか。こんなに肉の立場がおとしめられた例を、隆は寡聞かぶんにして知らない。

 それとも最近は野菜が高いということなのか。しかし、目の前にあるメニューのよれ具合からすると、昔からこの値段設定であったことが分かる。

 隆は何とはなしに店内を見回した。

 店の入口は北の方角に開いており、そこから入った途端に見える正面の壁には、ビールのジョッキを掲げてにっこり笑う水着女性のポスターが、取り残されたように貼り付いていた。

 バブル期のアイドルによく見られた髪型と、とってつけたような笑顔が痛い。それを見ていると、何だかこのまま「只今現在の時間」の中に取り残されそうな気がしてくる。

 肉と野菜にこだわっている場合ではない。

 隆は他のメニューの検討に入った。

 この場合、第二候補であるラーメンを選択するのが、一見無難なように思われる。

 しかし、実は一番リスクが高い。なぜなら、メニューを見るとラーメンに「醤油、塩、味噌」というバリエーション設定がされていないからだ。

 専門店が拘った結果の絞り込みならば、話は分かる。しかし、大衆食堂の場合は、単なる手抜きの可能性が高い。

 では、カレーライスはどうだろうか。大衆食堂における「取り敢えず注文」の王、カレーライス様ならば、確かにレトルト感丸出しの場合は有り得るが、それ以上に失敗するほうが難しい。

 隆は決意した。

「カレーライスをひとつ、お願いします!」

 隆は、他に誰もいないように思われる店内で、声を張り上げた。

 すると、奥の厨房から、

「あいよ。それから、大声出さなくてもちゃんと聞こえてるよ」

 という、しわがれた女性の声が聞こえてきた。声の感じから想像するに、結構な年配と思われる。

 それに続いで、皿やスプーンを取り出す音が奥から聞こえてきたので、隆は意識を店内探索モードから内省モードに切り替えた。


 今は、梅雨が明けてさあこれから夏が始まるぞ、という六月の下旬である。

 去年の夏、隆はまだ仙台で高校生をやっていた。今年の春、東京の大学に無事合格したので、四月から東京で一人暮らしを始めていた。

 大学がJR国立駅前にあるため、中央線沿線で安さと利便性を優先しつつ部屋を探した結果、豊田駅から徒歩十五分のところにあるワンルームマンションを借りることにした。

 フローリングの六畳間に、三畳ほどのロフトが付いていて、ユニットだが風呂とトイレもちゃんとある。さらに、共用のコイン式洗濯機が外に置いてあった。これで月々の家賃が、二万九千円である。

 物件の内覧をした時、仲介業者に「何か出るんですか。それならそれで構いませんけど」と言ったら、苦笑いされた。それぐらいの激安物件だ。

 ただ、どうやら手抜き工事がひどいらしく、梅雨の時期に床下から湿気が上がってきたり、隣の部屋の生活音が筒抜けだったりする。それでも住めないことはない。

 隆は野宿でも平気な体質である。

 また、豊田駅と八王子駅の間にはJRの車両基地があり、その関係で豊田駅から始発が出る場合がある。これが意外に便利だ、と仲介業者は言っていた。

 確かにそうかもしれないが、始発列車は事前に長い乗車待ちの列が出来るので、時間がない時はメリットがない。

 隆は、むさくるしい長髪の天然パーマをがしがしと掻きながら、そんなことをしばらくつらつらと考えていて、そしてやっと気が付いた。

 カレーだからすぐに出てくるものと思っていたのだが、なかなか出てこない。既に五分は経過していそうだ。


 嫌な予感がした。

 そして、この彼の「嫌な予感」というのが、実によく当たる。


 隆が「カレーなのに遅いな」と認識した直後、厨房のほうから物音が聞こえてきた。まるで、彼がそれに気がつくまで待機していたかのようなタイミングである。

 物音とともに、壁の向こう側から女性が姿を現わした。

 それは、七十歳をとうに過ぎたように見える老婆だった。その点は隆の予想通りであったが、さらに予想外に背が低かった。百四十センチもないのではないかと思われる。

 カレーライスが大皿料理に見えた。

 彼女は皿を両手で捧げるように持ち、とことこ、と隆のほうに歩いてきた。本当に「とことこ」という効果音が聞こえそうなほど、とことこ、である。

 彼女は黙ってカウンターに皿を置いた。

 綺麗に回れ右をすると、とことこ、と厨房のほうへ戻っていくので、隆は慌てて後ろ姿に声をかける。

「あの、コップと水とスプーンはどこですか?」

 彼女は振り向きもせず、左側の壁を指差した。見れば、箸、スプーン、コップなどが一揃い、壁際の箱に詰め込まれていた。セルフサービスということだろう。

 隆は黙ってそれを取りに行く。

 コップにぬるい水を入れて右手に持ち、スプーンを左手で取った。紙ナプキンがなかったが、これはやむをえまい。そこまで要求するのが酷に思えるほどの店構えである。

 隆は席に戻って、それらをカウンターに並べ、やっとカレーライスに向き合った。

「黒い」

 それが第一印象である。

 生まれてからいろいろなカレーを食べたが、ここまで黒いのは珍しい。ただ、真っ黒ではなかったから、あえて黒さを狙った訳でもなさそうだ。

 それと、この微妙な香り。

 概ねカレーであるが、微妙に脇道に逸れているような気がしてならない。例えば、ニンニクが含まれているような気がするのだが、自分の気のせいだろうか。

 さらに、具材らしき固形物の姿が見当たらなかった。長時間煮込んで溶けてしまったのだろう。だが、肉の欠片すら見当たらないほどの煮込み具合、というのは有り得ない。

 それでまた、隆は嫌な予感がした。

 見た目から食べた時の味が想像できない、予想を裏切るカレーは初めてだ。そんなものが実在するとは思ってもいなかった。

 隆は、恐る恐るスプーンで「ルウ少な目、米大目」という、カレーの食べ方としては最も邪道な掬い方をして、口に運んだ。

 途端に、複雑な味が彼の舌の上に広がる。ここで言っている「複雑」は、プラスの相互作用ではなく、マイナスの拒否反応である。はっきり言うと、不味い。

 ルウを控え目にしたにもかかわらず、カレーにあるまじき甘さと微妙なニンニク臭を感じる。

 さらに、米がまた不味い。水加減を間違えたのではないかと思うほど、べちゃっとしていた。

 甘すぎるカレーと、ゆるすぎるライスの強烈な破壊力を持ったコンビ。レトルトのほうがまだましである。


 しかし、彼はそれを食べ続けた。


 これは親の躾によるものだ。「自分が頼んで作って貰った食べ物を残すのは、大変失礼である。それならば最初から頼んではいけない」と、親から厳しく言われていた。

 もちろん、これは普通の食べ物を想定した言葉であって、想定外のものを含んだ言葉ではない。出されたものは、毒入りであっても絶対に喰え、と言っている訳でもない。

 目の前のカレーは、毒ではないがそれでもアウトに近いのではないかと隆は思った。が、それでも食べた。お腹が空いていたこともあるが、それ以上に、

「このカレーは、あの婆さんの俺に対する挑戦状だ!」

 という気がしたからである。どうして偶然入った初めての食堂で、女店主から挑戦されなければならないのかは、彼にも分らない。ただそんな感じがしたのである。

 背中を妙な汗が流れる。右腕には鳥肌が立ち、鼓動が激しくなった。全身が危険信号を発しているのだ。


「待ちな」


 半ば意識を失いかけた隆に、後ろから声がかかる。

 振り向くと、いつの間にか女店主が後ろに立っていた。

「それ以上は身体に毒だよ。私の負けだ。ほら」

 そう言って、彼女はファンタオレンジらしき液体が入ったコップを隆に向かって差し出した。

 彼はそれを受け取ると、一気に喉に流し込む。美味かった。自分史上最高の、ファンタオレンジだった。


 いや、ちょっと待て。

 何かおかしくないか。


 隆は我に帰って、女店主に尋ねる。

「あの、ひょっとして今『それ以上は身体に毒だ』と言いませんでしたか?」

「ああ。確かに言ったが、それがどうかしたのかな?」

 女店主は平然と言い切った。

「いやいや、それは有り得ないでしょう? どうして客に、全部食べると身体に悪いことが分かっている料理なんか出すんですか? テレビのバラエティーの撮影か何かですか?」

「そんな危険なテレビ番組があるのか? 犯罪だから、急いで抗議しなさい」

「だから、言っていることがおかしいです。貴方自身は一体何をしているんですか!?」

「だから、大事に至る前にちゃんと止めたではないか。むしろ感謝されてもいいぐらいだ」

「だから――」

 そこで隆は、ふと言葉を切る。この会話自体も、彼に対する挑戦であることに気が付いた。

 女店主は、にやりと笑った。

「爺さんはまだ元気かい?」

「親父ならぴんぴんしてますよ」

 女店主の唐突な問いに、隆は即答する。

「親父だって? 歳があわないような気がするが」

「俺は養子ですから」


 女店主は、月見里美幸やまなしみゆきと名乗った。

 非常に珍しい苗字である。「山がないから月が良く見える」という謎解きのような読みで、店名の由来にもなっていた。

 美幸は隆の目の前に椅子を持ってくると、それに座った。

 というより、登った。足が床に届いていない。

「いろいろ事情がありそうなのに、不躾ぶしつけに聞いたりして悪かったね」

 さほど悪いとも思っていなさそうな美幸の顔と言い方に、隆は苦笑した。

「気にしてないから大丈夫ですよ」

 乱れた頭髪をさらに掻き乱しながら、彼は言った。


 *


 実際、昔のことは綺麗さっぱり忘れてしまっていた。父親のきよしは何か知っているはずだが、彼は一言も口にしなかったので隆も聞かなかった。どうせろくな話ではない。

 自分には今の両親と兄が家族であって、 血の繋がりは重要ではない。物心ついた時には三人がいたし、その時から、

「お前は養子だけとな。まあ、そんなことはたいしたことじゃない。今は俺の子だからな」

 と、清からはっきり言われ続けていた。

 このやり方には賛否両論あるようで、児童相談所の担当者は眉を潜めていたが、清と隆の間ではむしろそのほうが自然だった。

 母の良子よしこは、父とは正反対で極めて無口だったが、折々の表情を見ていれば彼女がいかに隆を大事に思っているのかが、手に取るように分かった。それでも最初はさんざん手を焼かせたらしい。

 隆は覚えていないし良子も何も言わなかったが、実家が豆腐屋なので近所の人が買い物にやってきては、

「まんず、しょっちゅう姿がみえねぐなるんで、良子よすこさんが顔色変えて探すにいってだよ」

 と教えてくれるので、その度に冷や汗が流れた。実は隆は、清より良子のほうが怖い。

 さらに兄のひろしは、隆が仙台の実家にやってきた時には既に松本に転居していたはずなのに、常にかたわらにいて見守っていたような気がする。そのぐらい存在感があった。

 今でも頻繁に電話で話をしているし、隆が松本を訪ねたりもしている。

 この三人は、必要な時には手を差し伸べてくれるし、自分でどうにかできる間は見守ってくれた。

 お陰で隆は、修行以外は自由にさせてもらっていた。

 日々の修行も、肉体的には極めて厳しかったが、精神的に辛いと思ったことは一度もなかった。

 清から教えられた動きを教えられた通りに、丁寧に何度も繰り返す。場合によっては、それを一時間に亘ってひたすら続けることもある。

 退屈で単調なことの繰り返しだったが、隆はそれによって日毎に少しずつ自分の中に何か新しい力が蓄えられていくのを感じ取っていた。

 その力は、生まれてすぐに天涯孤独となり何も持っていなかった自分に、自分であることの自信を与えてくれる。それがとても嬉しかった。

 もちろん、修行には他にも様々な辛さがある。

 やっている最中に打ち身や痣が出来ることがあり、その時はその時で物理的に痛いのだが、周囲の子供を怖がらせるといけないので、隆は中学校まで真夏でも長袖と長ズボンで通していた。

 その服装を不審に思われて、中学校まではなかなか友達が出来なかった。

 近所に住んでいた同級生が一人だけ、その親も含めて兄の同じような姿を見ていたので、事情を薄々理解してくれた。

 従って、まったく孤立していたわけではないものの、事情を知らない子供達が自分を遠巻きにして噂話をしていることは感じていた。

 それでも、隆は修業を止めたいとは思ったことはない。自分にとって大切なことをやっているのだ、という自覚があったからだ。

 ただ、その修業には良子が前に座って黙って見守る中で行なう学校の勉強も含まれており、実はこれが隆にとって最も大変な時間だった。

 幸いなことに彼は物覚えが良かったので、小学校を卒業する段階で中学生の問題集が解けるところまで進んでいたし、良子は決して無理強いすることはなかった。

 隆が肉体的に疲れている時には手加減をしてくれるし、理解に手間取っている時には図を使って説明してくれたり、自分の手に負えないと判断した時には洋に電話をして助けを求めたりもした。

 ただ、その一方で隆が気が散って勉強に集中していない時には、良子に黙って睨まれた。これが実に怖い。夜中に思い出して飛び起きるほど怖い。口煩く言われるよりも効いた。

 そんな風に、殊更に丁寧に扱われることもなければ、いつの間にか放置されていることもなく、程よい関係を維持したままで、ひねくれる暇もなく隆は修行に明け暮れた。

 そしてその中で、自分の境遇を素直に受け入れていった。他の家に養子として引き取られていたら、ここまで上手く自分を受け入れることができただろうかと、隆は思う。

 それで、高校を卒業して大学に入学する前、仙台から東京へと旅立つ前日の夜に、隆は清と良子に向かって、

「俺はこの家の子供で本当によかった。そうでなかったら大変なことになっていたんじゃないかと思う」

 と、真顔で礼を言った。

 すると、清は、

「そんなことはない。洋も相当出来がよかったが、お前のほうが更に上だった。だからお前一人でもなんとかなったと思うが、うちは母ちゃんが最高だからな」

 と、これも真顔で返してきた。その隣りでは良子が黙って涙を浮かべている。

 その場面を、隆は今でもリアルに思い浮かべることが出来る。

 そして、彼はこう考えていた。

「これがあれば、自分はもう何があっても大丈夫だ」


 *


「それに、父と母と兄が最高でしたからね」

 隆は気負うことなくさらりとそう言う。

 月見里はしばし隆の顔を見つめると、大きく息を吐いて淡々とした声で言った。

「爺さんも大変なことをしたもんだね。自分と同じような化物をもう一人生みだしちまったんだね」

 言葉だけ捉えると大変な侮辱に聞こえる。

しかし、隆は、

「そこまで凄くないですよ。ところで、月見里さんは親父のことを御存知なんですね」

 と、素直に化物であることを認めた上で、月見里と清の関係を訊ねた。

「美幸と呼んでもらって構わないよ、あの爺さんの家族ならね。それに、改まって月見里さんと呼ばれると、逆に恐怖で鳥肌が立つから」

 彼女は軽く身体を揺すると、そのままさらりと話を続けた。

「それで、爺さんと知り合いか、という質問の途中だったね。よく知ってるよ。昔、爺さんと戦ったことがあるからね」

「親父と戦ったんですか」

 隆は驚いて、小柄な美幸をまじまじと見つめた。

「おや、そんなに意外かね」

「それはまあ。そういえば、どうして俺が親父の関係者だって思ったんですか。養子だから顔形は全然似てませんよね」

「雰囲気だよ。ぼんやりしていて無害そうに見えるのに、安易に手を出すと危険な人間というのは、そうはいないからね。それに何気ない動きかな。私は爺さんの動きを実際に見たことがあるから」

「それだけで親父と俺を関連付けるなんて、無理がありませんか」

「そう言うあんただって、爺さんの子かと質問した途端に即答したじゃないか」

「それはまあ。親父のことだから、どこに知り合いがいるか分かりませんから」

 隆と美幸はお互いにしらを切り通す。

 実際は、最初に身体の動きを見た時から、二人とも「只者ではないな」と考えていた。それほど、何気ない動きに無駄がなかったからだ。

「しかし、親父と戦って無事に生きているなんて、尋常じゃありませんね」

「これでも『黒い聖母』と言えば、その筋じゃちょっとは知られた名前なんだがね」

「ふうん」

「おや、今もしかして『黒い聖母というより、腹黒い婆さんだろ』って顔をしなかったかね」

「してませんよ」

 実は美幸の言う通りなのだが、隆は盛大にしらばっくれた。

「ふん、まあいいさ。それで、あんたは爺さんの後継者と考えていいんだね」

「はあ、そうですが何か」

「いや、別に」

 美幸は、椅子から飛び降りるようにして立ち上がると、空になったコップを持ち去る。

 そのまま厨房に下がるのかと思っていると、美幸は途中で立ち止まり、再び隆のほうを向いた。

「それより、あんたは東京の大学に入学したって言っていたね。大学はこの近くかい」

「国立ですよ。だから、この近くに家を借りることにしたんです」

「ふむ。家を出たということは、修業は終わったということだね。それで、アルバイト先とか見つかったのかね」

「いえ、それはこれからですが」

「そうかい」

 美幸はにやりとした。


「じゃあ、うちで働かないか」


「……どうしてそうなるんですか」 

「おや、それが命の恩人に対するあんたの礼儀かね」

「いやいや、それはおかしいでしょう。俺の命を危険に晒したのは美幸さんじゃないですか」

「細かいことを気にする男だね。将来、出世しないよ」

「だから、そうじゃなくて」

「いいじゃないか減るもんじゃなし」

「減らなきゃいいってもんでもないでしょう」

「じゃあ、収入が増えるんだから、なおいいじゃないか」

 美幸の微妙に論点を逸らす話法に、隆は翻弄される。

「分かった。じゃあ、バイト代の他に賄いもつけようじゃないか」

「賄いって、さっきのカレー並みじゃないんですか」

「その通りだが、何か問題でも」

「大ありですよ。毎日、命の危険と隣り合わせじゃないですか」

「分かった、分かった、じゃあ少し待ちな」

 そう言って美幸は、厨房へと姿を消す。

 隆は厨房の中が見える席に移動すると、手荷物からスマートフォンを取り出した。

 そして、「親父」という登録名称を付された〇二二から始まる電話番号にかける。

 四コール目で、

(はい)

 という良子の声が聞こえた。

「母さん、俺。親父はいるかな」

 良子は、無言のまま固定電話の受話器を清に渡す。

(なんだまんずたかすかあ。なしてこっただ昼間に電話あしてきたんだよ。なぬが事故でもあったのが?)

「親父、オレオレ詐欺撃退用の方言対応はいらないから。しかも、わざわざ相手に誘いまでかけなくていいから」

(なんだよ、つまらねえな。ちっとは楽しませてくれよ)

「今はそれどころじゃないんだ。親父、月美里美幸さんって知ってる?」


 極めて珍しいことに、しばし清が沈黙した。


(――何だよお前、もう『黒い聖母』に会ったのかよ。そりゃあ婆さんも日野市在住だけど、随分と早いなあ)

「知り合いが近くにいるのなら、先に教えてくれたっていいじゃないか」

(いやまあ、わざわざ会いに行く相手じゃないし。出会わなくて済むなら、それに越したことはない相手だからな)

「だから逆だって。親父の知り合いなんて危険な人ばかりだろう? 教えてくれたら避けられたじゃないか」

(そりゃまあ、そうだけどよ。それじゃお前、全然面白くないだろう?)

 隆は天を仰いだ。

 ――やられた、これは織り込み済みだ。

(いいじゃないか。これで大学生活を満喫できる訳だし)

「親父、どう考えても大学生活とは無関係な方向に、しかも満喫というには過酷過ぎる方向に、俺の人生が方向転換したような気がするんだが、これは気のせいか」

(その通りだよ)

「軽く即答するなよ。それで、親父。この状況はどれぐらい危険なのさ」

(そうだなあ。深入りしすぎると全世界を敵に回しかねないほど危険な状況ではあるんだが――ところでお前、婆さんの料理は食ったのか)

「死にそうになるぐらい不味いカレーなら食べたよ。今、なんだか厨房でやっているけど」

(ああ、そうかい。じゃあ、それ食ったところで考えろや)

「そんなことでいいの?」

(どうせバイトしろと言われたんだろ。それとも正社員か?)

「バイトだよ」

(じゃあ、問題ないんじゃないの。組織の正式な構成員になるわけじゃないんだから)

「何だよ、組織って」

(あれ、そこはまだ聞いていないのか)

「聞いてないよ」

(ふうん。まあ、細かいことは婆さんに聞くんだな)

「ちょっと待ってくれよ。ヒントはないのかよ」

(いるのか、ヒント)

「いるに決まってるだろ? 兄貴じゃないんだから、ありのままに受け入れる度量は俺にはないの!」

(器が小せえなあ。将来出世っできないぞ) 

「何、婆さんと同じこと言ってんだよ。ともかく、どこの系列の組か、どこの国が裏についているのかだけでも教えてくれ」

(やくざでもスパイでもないよ。婆さんところは秘密結社だから)


 隆は一瞬、言葉を失った。


「親父、今、秘密結社って言わなかったか」

(おう、言ったぞ)

「すると何か、国立市に支部がある世界的に有名な秘密結社――なんだか矛盾してるけど、そっちの関係なのか」

(そんなわけあるか。陰謀論者じゃないんだから)

 東京都国立市に、とある秘密結社のロッジがあるのは、よく知られた話である。

(婆さんところはちゃんとした、知る人ぞ知る秘密結社だよ)

「それにしては質素だなあ。もしかしてアジトは別にあるの」

(そんな小じゃれたものがある訳ないだろう? 婆さんのところはお前が今いるはずの小汚い中華料理店が本部だよ)

「親父も来たことがあるのか」

(ああ、それに不味いカレーも食ったぞ。あれは人の食い物じゃなかったな。洋なら黙って食うかもしれんが)

「ああ、兄貴ならそうかもしれないね」

 食べ物に関する兄のストライクゾーンの広さを思い出して、隆は笑った。

「何しろ、厨房から調理係が飛び出してきて謝るまで、塩と砂糖を間違えた料理を黙って食べるほどだからね」

(それにしては、自分で作る時は味に拘るのな)

「そうそう」

 清と完全に雑談していた隆は、そこでやっと異常事態に気づいた。

「ところで親父、今、中華料理店にあるまじき香りが、この店内に思いっきり流れているんだけど」

(やっぱりな。で、何の香りだよ)

 電話の向こうから清の楽しそうな声が聞こえてくる。隆は顔を心もち上にあげると、鼻をひくつかせた。

「これ、多分ナンプラーだ」

(そうかい。じゃあ、ガパオライスかカオマンガイあたりだろうな)

「なんで日本の豊田駅前の中華料理屋で、そんなものが出てくるんだよ」

(ああ、そうだなあ――)

 清がしばし言葉を選ぶ。そして、

(――月見里の婆さんは、店のメニューに載ってるやつを作るのが一番苦手なんだよ。じゃあな)

 と、一気に言い切ると逃げるように電話を切った。

 隆はスマートフォンの回線切断画面を凝視する。

 ――怪しい。絶対に爺さんは何か隠してる。

 しかし、それが何かは見当もつかない。そんなことを考えている間にも、店の中にはフライパンで何かを炒めている音とともに、美味しそうな匂いが充満してゆく。こちらも、いまだに正体が何かは見当もつかなかったが、今準備されているものが美味であることは既に確定していた。

 厨房の音が消える。柱の向こう側から再び美幸が皿を捧げ持つように現れて、

「ほらよ」

 と言いながら、隆のテーブルにそれを置いた。


 ガパオライス。


 しかも、見るからに入っている緑色の葉っぱが、よくあるスイートバジルではない。

「美幸さん、この緑色のやつはもしかして本物のガパオ?」

「ガパオライスだから当然そうに決まっているじゃないか」

「いやいや、日本だったら普通はバジルを使うじゃないですか」

「私は偽物は好きじゃない」

「じゃあ、さっきのカレーライスは一体何ですか?」

「カレーライスは日本料理だから」

「いや、まあ、そうですけど……だいたい、どこからガパオを仕入れてくるんですか。メニューにないから常備している訳じゃないんですよね」

「ああ、そいつは自家製だよ。外に生えてるから作りたいときにむしればいいだけのことだ。それより喰わないのかい? 嫌なら下げるけど」

 そう言いながら美幸が皿に手を伸ばしたので、隆は慌てて皿を持ち上げた。

「食べます、食べます、食べさせて頂きます!」

「最初から素直にそう言えばいいじゃないか」

 そう言いながら、美幸は隆の前にある椅子に昇る。そしてテーブルの上に顔を出して、興味深そうな顔で隆を見つめた。

 隆は目の前の皿を見つめる。

 鶏の粗挽き肉にガパオという香草を加えて、ナンプラーとオイスターソースで炒めたシンプルな料理が、見事なタイ米と一緒に皿の上に載っている。さらには油で揚げた目玉焼きが添えられていた。

 日本でよくあるピーマンとパプリカは入っていない。どこまでも本場に忠実なガパオライスで、見た目は完璧である。その上、先程から凶暴な香りが隆の鼻を虜にしている。

「頂きます」

 そう言うと、隆はスプーンでタイ米と鶏肉を半々の割合ですくいあげて、口の中に運んだ。


 途端に顎のほうから、じんわりとした感覚が口の中を伝わってくる。


 本当に上手いものを食べた時の、隆の癖だ。

 ナンプラーとオイスターの濃厚な味が絡みついた鶏肉を噛むと、鶏の脂分がさらに混合されて絶妙な味となる。

 加えてあっさりとしたタイ米のアクセント。ただ、これだけは流石に日本の炊飯器で炊いたのだろう。

 調味料の甘みの向こう側から、次第に唐辛子の辛さが立ち上がってくるタイミングもばっちりである。

 ――完璧だ……

 隆の目尻に思わず涙が浮かんだ。

 ここまで美味いものはそうはない。母の良子が作る「卯の花」並みに美味い。

「で、アルバイトの件はどうするね」

 美幸の言葉に、隆は自然に答えていた。


「宜しくお願いします……」

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