事件 二〇一三年 秋 三

 いずれの部屋も、使用した痕跡が全くない。

 ベッドはメイクしたそのままの状態で残されており、シャワーを使った形跡はなかった。

 灰皿も綺麗なまま残されていた。行為の後、喫煙者ならば無性に煙草が吸いたくなるものだ。そして、未成年だから喫煙者でないとは限らない。それは木之本自身が、経験として知っていた。

 何かの悪戯ではないかと疑い、部屋をくまなく調べてみるが、何も出てこない。誰も入室しなかったかのような平穏さである。

 彼は頭を何度も捻りながらフロントまで戻り、部屋の鍵を開ける。

 そして、妙な違和感を受けた。いつもながらの狭い部屋であったが、何かがおかしい。

 暫く立ち竦んだ後、ようやく彼は気がついた。

 僅かに整髪料の香りがする。

 しかもそれは、彼が使っている安物とは比べものにならない、高級そうな香りだった。他の従業員でこの香りがする者はいない。皆、木之本と似たり寄ったりな安物の香りである。

 つまり、彼が部屋のチェックをしている間に、外部の何者かがここに侵入したのだ。

 木之本は慌てて売上金が入ったレジを開ける。

 そこには今日の分の金が、綺麗に揃っていた。

 続いて部屋の鍵をチェックする。

 使用中の一部屋を除いて、全部揃っている。

 他に無くなったものはないか、辺りを見回してみる。すべて揃っている。何も問題はない。

 木之本は腕組みをしたまま動かなくなる。

 ――少なくとも、形のあるものは全て揃っている。

 ということは、形のないものが目的に違いない。

 彼は急いで旧式のノートパソコンの前に座る。そしてやっと何が起こったのかを知った。

 監視カメラの記録が、今日の分だけ丸ごと消去されていた。

 どう考えても計画的な犯行である。部屋が元のままであったのは、指紋や遺留品を恐れたからに違いない。一体何が起こっているのだろうか。

 頭を急回転させながら木之本は部屋を見渡す。そして、キーボックスのところで目を止めた。


 一部屋分のブランクがある。


 即座に彼は、その部屋に繋がるインターホンのボタンを押した。

 ことの最中だったら強烈なクレームを受けることになるだろうが、確認しない訳にはいかない。

 何度呼び出しボタンを押しても、誰も出なかった。

 彼の中でアラームが盛大に鳴る。

 彼はマスターキーを握ると、ホテルの中を駆けた。

 部屋の前まで来ると、震える手で鍵を開ける。

 部屋に入る。

 人影はない。

 バスルームのほうから水音がしていたので駆け寄る。

 ガラス張りのバスルームに人の動きはない。

 扉を開けて、

「お客さん!」

 と声をかけるが、やはり答えはない。

 それもそのはずである。


 タオルで口を塞がれ、手足をビニールテープでぐるぐる巻きにされた男が、上からコンクリートブロックを乗せられて、冷たい水が溢れている浴槽の底に沈んでいた。


 *


 木之本からの通報を受けてホテルに急行した松本警察署の捜査官が、死んでいた男性の身元を探り当てるまでには時間が少しだけかかった。

 何故なら、現場には本人の遺留品が全く残されていなかったからである。乗ってきたはずの車もなかった。

 連れの女性が持ち去ったのだろうと捜査官は判断し、指紋から身元の割り出しを試みる。警視庁の指紋検索システムは、かなり古い記録をディスプレイに表示した。

 当時高校生だった男性が小学校に忍び込んで、巡回中の警備員に確保された事件。前科とも言えない軽犯罪である。しかし、そのおかげで男の素性が分かった。

 中学校の現職教師。

 この時点で捜査情報の秘匿レベルは自動的に一段階上げられた。

 捜査員が彼の自宅アパートに急行する。管理人を呼びだして家の鍵を開けさせ、中に入った。

 部屋の中には特に荒らされた痕跡はない。

 ラブホテルに連れ込んで殺害し、金目のものを奪うという一連の筋書きを想定していた捜査員達は呆気にとられた。金銭目的でないとなると、次に考えられるのは痴情の縺れである。殺人事件という意味では同じだが次元が異なる。

 捜査員の意気込みは急に萎んだ。彼らも人間であるから、事件の質によってテンションが変わるのもやむを得ない。

 それに、その室内に最前まであった膨大な未成年に対する性的交渉の記録については、部屋の主と被害者以外、誰もその存在を知らない。

 従って、それが物の見事に持ち出されていたことに気がつく者は、その時点では誰もいなかった。

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