駿 二〇一五年 春
和美と話をしてからというもの、駿は何だか気持ちが落ち着かなかった。
最期に和美が漏らした彼女の素直な気持ちはとても有り難かったものの、自分がそれに値する人間とは思えなかったのだ。
剣道は心の動きが表に現れやすい。部活の練習中に普段の駿ならば有り得ない隙が出てしまい、
「樋渡、何だその弛んだ構えは!」
と顧問から叱咤される始末である。
中学、高校と同じ剣道部に所属し、高校では同じクラスになった友人からも、
「なんやお前、最近おかしないか? 恋の悩みでもあるんか?」
と言われたが、駿は、
「あほ、そんなん俺にあるかいな」
と、話を逸らした。
しかし、駿も自覚があった。どうにも心が落ち着かない。夕方、相変らず翠の部屋のほうを眺めながら素振りをしていても、自然に和美の最期の言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
中学生の剣道大会では、試合が始まる前に、
「俺は一介の剣士なんやから、物事に動じちゃあかん」
と唱えていた。
ところが、今回の翠と和美の件で自分の未熟さを思い知らされて、駿は情けなくなる。やはり、これ以上悶々と考え続けているだけというのは、自分に似合わない。
これは剣道の試合のようなものだ、と駿は考えてみる。
開始と共に飛び出して力の限り打ちまくるのは自分のやり方ではない。そして、相手に圧されて防戦一方となり、徐々に萎縮してしまうのも自分のやり方ではない。
序盤は相手の剣をかわしながら冷静に動きを見定め、どこかに攻略の糸口を見つけ出したところで、それを突破口にして反撃に転ずる。それが自分のやり方である。
――まずは正面から向き合い、状況を見定めること。
そう方針を決めた途端、駿は久し振りに心が落ち着いた。
*
「そうやね――」
あの時、和美は普段の穏和な彼女とは別人に思えるほど、とても真剣な表情をしていた。
「なんだか最近、翠が樋渡君のことを避けているんやないかと私も気づいとった」
「えっ、やっぱりそうなんか。俺、翠に嫌われているんか」
駿は和美の言葉に激しく動揺する。ところが、和美はちょっと微笑むと、続けてこう言った。
「あほやなあ。樋渡君、絶対に誤解してるわ。とりあえず話を最後まで黙って聞いてや」
「あ――ああ、分った」
「翠は確かに樋渡君のことを避けてる。しかし、それは樋渡君のことを嫌いになったからと違う。何か隠し事があるからや、と私は思うわ。翠はそのことを樋渡君に知られるのが怖くて、逃げているだけなんや」
「なんで? 逃げんと言うてくれたらええやんか」
「その理由は、私にも今は分からん」
そこで和美は一口だけコーヒーを飲み、それから意を決したように背筋を伸ばして、言った。
「ただ、今はっきりと言えるんは――翠は今も変わらず樋渡君のことが好きや、ということや」
「は?」
駿は和美の言葉に身体を硬直させ、そして次第に顔を真っ赤に染めた。
実に分かりやすい反応である。和美の胸の奥にちくりと痛みが走った。
「何言うてんねん、二宮。翠が俺のことを――」
「好きなんやて。そうやなかったら彼女ははっきり言うてるわ。嫌やから、もう私につきまとうのはやめてほしい、とか。そやろ?」
駿は依然として赤い顔のまま、考え込んだ。和美はそんな彼の様子を黙って見守る。
さほど間が空かずに、
「確かに、翠ならそう言う」
と、駿がぽつりと言った。
「そやろ、だからおかしいねん。はっきり言わずに逃げ回るなんてあの子らしくないわ。でも、その理由は私にも分からん。だから、私がそれを聞き出してみるわ」
「聞き出すって――二宮も最近は翠と会ってないんやろ?」
「そやけど、樋渡君よりはいろいろと会う口実が作りやすいはず。例えば、お別れ会の時の写真を手渡したいとか、そんな理由で」
「おお、それはそうやな。凄い助かるわ。せやけど、関係のない二宮にそこまでお願いしてええんかな」
恐縮する駿に向かって、和美はにっこりと笑って言った。
「だから、電話を貰った時にも言うたやんか。これはかなり高いで」
「お、おう。それは俺が出来ることやったらなんでもするけど」
和美は駿を見つめながら、その日最も真剣な表情で言い切った。
「まず、私は樋渡君に約束する。樋渡君と翠はすごくお似合いやと思うから、出来れば上手くいって欲しい思うてる。そのためやったら、私はどんな協力かてするわ。翠から無理に話を聞き出すことも躊躇わへん。そして、聞き出した話はそのまま樋渡君に教える。それがどんだけ辛い内容でも、結果として樋渡君が翠のことを嫌いになるかもしれなくても、そのまま伝える。矛盾してるかもしれんけど、今のままの状態を続けるよりはなんぼかましと思うから。せやから、樋渡君も一つだけ私に約束して欲しいんや」
駿は和美の剣幕にたじろぎながらも、
「お、おう。俺に出来ることならば約束する」
と、即座に答える。
そして、和美は素直に言った。
「樋渡君が翠を嫌いになった時は、私のことを好きになってくれへん? その順番やないと、樋渡君は絶対に私のほうを見てくれへんから」
「えっ」
駿は言葉に詰まる。
それを見て和美は微笑んだ。
「ほんまに樋渡君は分かりやすいわ。今『そんな大切なこと、軽く約束しちゃあかん。相手に失礼や』って考えたんと違う?」
図星である。
目を白黒させている駿に、和美は言った。
「私も樋渡君が、翠が嫌いやから次は和美や、なんて簡単に切り替わるとは思ってへん。せやけど、せめて他の子を見る前に私のほうから見てほしいねん。それやったらどない?」
「お、おう、それやったら――」
そこで駿の言葉が止まる。和美の心臓が大きく跳ねた。やはり、この約束は強引過ぎたのだろうか。
「そいつはあかんよ、二宮」
駿は落ち着いた顔で言った。
「やっぱりあかんかあ……」
和美は自分の勇気が急速に萎むのを感じる。
駿は和美の顔を見つめながら言った。
「そや、そいつはあかんで。そんな中途半端な約束やったら、二宮に翠のことを頼むのは可哀想や。だから――」
そこで急に駿は顔をまた赤くした。
「俺もちゃんと二宮に約束しないとあかん。二宮のことを好きになるって」
もちろん話はそんなに単純ではない。和美が言った通り、駿はそこまで器用ではないからだ。
ただ、和美はそれ以上何も言わなかった。しばらく静かに涙を流した後、恥かしそうに、
「ほな、頑張るわ」
とだけ言って、店から出て行った。
*
つまり、駿の心が落ち着かなかったのは「自分は翠の秘密を知りたいために、心にもない約束を和美にしてしまったのではないか」 という後ろめたさがあったからである。
そのことを、眼をそらさずに正面から見つめる。
そして、確かに駿は翠のことが好きだし、幼い頃からそうだった。
そのことを、心を偽ることなく正直に認める。
だから、彼女が苦しんでいることを知った時に、和美を利用することにしたのか。
その問いに対して、全力で「否」と答える自分がいる。
軽々しく考えている訳ではなく、実際に駿は和美のことを好ましく思っている。
そこで「翠が駄目だったら好きになる」という余計な思いを捨ててみて、できるだけ和美のことだけを単純に考えてみた。かなりいい子だと思う。
しかし、和美が言った通り、どうしても翠のことを外して考えることは出来なかった。
――翠とのことがなければ、自分は和美に好意を持つかもしれない。
だからどうだ、ということではない。駿がそう思っただけのことで、他に何の意味もなかった。
ただ、そう考えたところで駿の覚悟が決まる。
さらに、駿は別な視点から物を見ることが出来るようになった。
「今回の件が最終的にどのような結果に行き着いたとしても、それで一番辛い思いをすることになるのは二宮だ」
そのことに駿は気がついたのだ。
翠が仮にそれが他愛もないものであったあとすれば、駿と翠にとっては笑って水に流すことができるであろうが、和美はそれで済ますことが出来ないだろう。
逆に、翠の悩みが相当に深刻なものだとしたら、それを知ることによって和美も相当な精神的重圧を負うことになる。しかも、彼女は駿にそれを伝えなくてはならない。
その結果、翠と駿が仲違いをすることになり、それが自分の幸せに結びついたからといって、彼女は決してそれを「良し」としないだろう。
どう考えても、和美にとって益になるところはない。それなのに和美は最善を尽くすという。
和美が自分の利益を最大にしようと考えるのであれば、むしろ自分にとって有利な方向に持っていくために嘘をつけばよい。翠の秘密を聞き出したりせず、自分に都合のよい内容ででっち上げればよいのだ。
駿にはそれが事実かどうか分からない。もちろん、駿が翠に直接問い質せば和美の嘘は瓦解するが、翠が駿をずっと避け続ければその機会はないから、分の悪い賭けとはいえまい。
しかし、その点について駿は和美を疑っていなかった。
そもそも、駿は翠が自分を避けている理由が分からなかった。だから和美は、その時点で自分の都合の良い方向へと話を誘導しようと思えば出来たはずである。
それをせずに、和美はわざわざ「駿とは関係のないことで翠が悩んでいる」と説明した。そこに至るまでに和美の心の中で様々な葛藤があったことを駿は知らなかったが、それでも彼は和美を信じた。
*
和美には申し訳ないと思いつつも、駿は現時点で自分が出来ることは何もないと悟ると、途端に肩にのしかかっていた重荷が取れて気分が楽になった。
学校でも、
「なんや、お前。急に明るくなってへんか?」
と友人に言われ、駿は忸怩たる思いを感じたものの、
「あほか、別にいつもと何も変わってへんわ」
と、軽い口調で応じた。
「そか、なんや最近たまに深刻そうな顔をしてたから、話しかけにくうて仕方がなかったんや」
「大丈夫や。何にもあらへん」
「ならええわ。そんじゃあ、お前、これのこと何か知らへんか」
そう言いながら友人が差し出してきたのは、学校で持ち込みが禁止されているタブレット端末だった。
「こんなん、学校に持ってきたらあかんやろ」
「そないなことは後にして、とりあえず画面を見いや」
「まあ、ええけど――」
駿はタブレット端末の画面を覗き込む。すると真っ黒な画面の中央に白い文字が浮き上がっていた。
C.O.N.
「なんやこれ?」
「駿も知らんかぁ。このサイト、最近になってどうも口コミで広がっているらしいねん。俺も別なやつから教えてもろて初めて知ったんやけど」
友人は自分のほうに少しだけ画面を引き寄せる。画面を操作するためだ。駿は彼のほうに身を寄せた。
「検索サイトで『外道 復讐 殺人 依頼』という文字を、その順番で間に全角のブランクを入れて検索すると、この画面が最初に表示されるんや。そんでもって――」
彼は画面中央の文字に右中指で触れた。すると画面から文字が消え、カタカタという効果音が流れてさらに文字が一つずつ表示されていった。
「えっ、なんやて!?」
表示された文章を読んで、駿は驚きの声をあげた。
「なあ、薄気味悪いやろ。誰かの悪戯か、詐欺の類やと思うんやけど――」
駿もその意見に同感である。いくらなんでも馬鹿げた内容だ。
しかし、このサイトは悪戯でも詐欺でもなかった。
そして、駿はそのことを後になって思い知ることになる。
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