第三幕 法の不在

発端 二〇一三年 秋

「もう駄目、これ以上我慢できない……」

 中学校の女子トイレの個室に籠(こも)り、汀純奈(みぎわじゅんな)はスマートフォンの画面を見つめて、そう呟いた。

 昨日から何件もメールが届いている。

 発信者は同一人物で、その執拗さは異常だった。一時間に六通。さすがに深夜の一時から朝の七時までと学校の授業時間中は絶えていたが、それ以外は十分間隔で送信されている。これが二週間続いている。

 そのことが発信者の執着を示しているようで、純奈は恐怖を覚えた。学校内で顔をあわせた時には他の人と何も変わらない普通の表情なのに、裏ではこのような陰湿なことをしている。

 そのことを知らない同級生は、

「やっぱり格好いいよね」

 と、うっとりとした顔で純奈に同意を求める者もいたが、その度に彼女は固まった笑みで、

「うん、そう、だよね」

 という曖昧な回答を繰り返していた。このメールのことを知られるわけにはいかなかったので、彼女は強く否定できずにいたのだ。

 メールが届きだしたのは二週間前からだったが、それ以外の手紙やメモという方法も含めると、既に執拗なアプローチは六ヶ月近く続いていた。

 今は秋だから、純奈が二年生になった途端に眼をつけられたことになる。それとも一年生の頃から目を付けていて、有利な立場になったことから具体的な手段を取りだしたのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、手元の電話が震えた。驚いて落としそうになる。小刻みに震える指で画面のロックを外した。

「どうして返事をしてくれないの。僕がこんなに君のことだけを考えているというのに――」

 改行のないメールの文章が、画面全体を埋め尽くす。

「君のことをとても愛している」

「いつも君のことだけを考えている」

「君を抱く夢を毎晩見ている」

「次はいつ二人だけで会えるのか」

 そんな内容が、空虚かつ過剰な修飾語と共に、延々と書き連ねてある。最期のほうには、

「君は頭がいいから自分の置かれている立場が分かるはずだ」

「僕は君の未来を左右することが出来る」

「僕の言う通りにしないと、悲惨なことになるのは分かっているよね」

 という内容の恫喝が、穏やかな表現に変換されて並んでおり、純奈は吐気を覚えた。

 そして、最後にはいつもの締めの言葉があった。


「ここは長野県だから条例違反じゃない。二人の関係は法的に問題がないのだから、安心して」


「安心なんか――」

 出来る訳がない。既に身体に変調をきたしている。夜、なかなか寝付けないし、寝ても浅いから頻繁に起きてしまう。

 疲れがなかなか取れず、授業中につい居眠りしてしまうことがあり、その度に、

「汀さん、勉強のしすぎではありませんか」

 と教師に苦笑されていた。しかし、それも長くは続くまい。きっと、いつかは彼女の様子がおかしいことに気づく者が出てくる。

 そうなれば、どうなる?

 過去に何度か、呼び出しに応じて一緒に遊びに行ってしまったことがある。人目を避けるようにして車で、いずれも長野県内でドライブした。写真も残っている。

 彼はすべてを計画的に進めていた。仮にここで彼の所業が暴露されたとしても、一緒に外出した事実は消すことが出来ない。それを彼は記録に残していると言っていた。

 しかも、彼特有の過剰な修飾語で飾って。

 一度、印刷された大量の文書を読まされたことがある。彼はそれをネット上に保存し、公開予定日を翌日にして、常に更新していると言っていた。

 彼が逮捕されたり、嫌疑をかけられたりした途端に、その公開日付の更新が止まる。

 彼が想像した彼女の痴態が世界に公開される。それが事実かどうかは、おそらく閲覧者には関係ない。


 彼女は震える指で届いたメールを特定のフォルダに移動した。

 そのフォルダの名前はこうなっている。

「長澤先生」


 *


 二〇一五年の十一月末日時点で、長野県を除くすべての都道府県には「青少年保護育成条例」が制定されている。

 この「青少年保護育成条例」というのは、所謂(いわゆる)「淫行条例」と呼ばれているもので、大人が十八歳未満の青少年と「みだらな行為」に及ぶことを明確に禁止した条例である。

 ところが長野県においては、一部の市区町村を除いてこのような条例を制定しているところがない。

 なぜなら、

「青少年の健やかな育成は県民が見守るべきことであり、条例の文言で規制すべきことではない」

 という考え方が長野県には昔から根強く残っており、地元の新聞社や弁護士会も規制反対の立場を取っていたからである。

 勿論(もちろん)、この考え方に従って青少年の保護や育成が、実際に効果的に行われているのであれば、それに越したことはない。また、過去にはそれが十分に機能していた時期もあったのかもしれない。

 しかし、今は「大人の眼を盗んでスマートフォンで連絡を取り合い、人目を避けて会うことが容易な時代」である。

 ネット上には既に『十八歳未満の女の子と遊びたければ長野県に行け。淫行で警察に捕まることがないぞ』という書き込みすら横行している。

 無論、ネットの書き込みの内容はただの暴論だが、条例の性格を現わしている。

 条例は地方自治体が制定する「地域の立法」であるから、その規制が及ぶ範囲も原則として「その条例を制定した地方自治体の域内」に限定されるのだ。


 これを具体的な例で説明すると、以下の通りとなる。


 まず、長野県内で未成年者と淫行しても処罰されることはない。これは長野県に条例がないからである。

 では、淫行条例がある東京都在住の男性が、長野県内で未成年者と淫行した場合はどうなるか。

 この場合、東京都在住の男性が東京都の条例で処罰されることはなく、他の都道府県から来た者であっても長野県内ならば長野県の条例が適用される。淫行条例は存在しないから、適用されるはずがない。

 逆に、長野県在住の男性が長野県在住の未成年者と東京都内で淫行した場合、住所所在地が長野県であっても東京都の条例が適用されて処罰される。条例の適用に出身地や住民票所在地は関係ないからだ。


 また、長野県においてはさらに極端な例が生じている。

 長野県内でも東御市(とうみし)のように、市区町村が独自の淫行条例を定めている場合がある。ところが、東御市に隣接している上田市には淫行条例がない。

 上田市から東御市にかけては国道十八号線が走っており、その沿線にはいくつかのラブホテルがある。そして、上田市のラブホテルで淫行しても逮捕されないが、東御市であれば逮捕される。

 そのため、あえて極端な言い方をすると「未成年を乗せた車は上田市のラブホテルに吸い込まれてゆく」ことになるのだ。


 さらに、規制範囲の不整合もある。

 長野県内であっても、十三歳未満に対してわいせつな行為を行なった場合は、刑法一七六条の「強制わいせつ罪」で処罰される。これは国法だから、自治体の定めによる格差は生じない。

 また、過去に「中学校の教師が生徒にバイブレーターを渡し、操作方法を教えて自慰行為させた」ことが処罰の対象となったことがある。

 ただ、この時適用されたのは児童福祉法であって、その規定では「児童に淫行をさせる行為をしてはならない」と定められていた。

 つまり、その事例では「生徒にバイブレータを使わせた」受身の行為が問題にされたのであり、淫行そのものが問題になった訳ではない。

 さらに、十八歳未満の青少年の裸体を撮影すると、児童ポルノ禁止法によって処罰される。

 いろいろ異論はあろうかと思うが、あえて簡潔に整理する。

 現在、長野県において規制されていないのは、

「十三歳から十七歳までの青少年に対して、裸体の撮影や受け身となる行為を伴わない行為を行った場合」

 ということになる。

 高尚な理念はともかく、この規制範囲の不毛さをもっと深刻に考えるべきではないかと思う。


 勿論、それ以前に「県民が見守ることで青少年は保護できる」という頑(かたく)なとも思える理想のほうを、再度考え直すべきではあるまいか。

 理想と現実のバランスがとれないのでは、それこそ「見守る側の大人」ではなく、「見守られる側の子供」に等しい。


 *


 メールをフォルダに移動して、純奈は大きく息を吐いた。

 このままずっとトイレに立てこもっている訳にはいかない。もうすぐ昼休みが終わってしまうので、その前には教室に戻らなければならなかった。

 純奈は個室を出て手を洗い、ハンカチで手を拭きながら鏡に映った自分の顔を見つめた。目の下にうっすらと隈が出ている。精神的に限界近いのだが、身体的にもそれが現れている。

 大きく溜息をついて気分を変えると、彼女は女子トイレから出た。


 そして、その直後に硬直する。


 女子トイレから自分の教室に戻る経路に、学年主任の長澤が立っていた。スマートフォンを片手にした何気ない素振りだったが、純奈には彼が数分前からそこで彼女を待ち構えていたようにしか思えない。

「やあ汀さん、こんにちわ」

 距離があるので、長澤は社交モードである。

 背が高く痩身で、顔の造作がすっきりしている。髪は教師として見苦しいと言われないぎりぎりのラインまで伸ばし、天然なのかわざとなのか分からない範囲で髪を脱色している。

 三十歳前半で学年主任を任されていることからも分かる通り、頭が切れるし、教え方も上手い。

 東京の一流大学卒なのに、自ら望んで長野県の中学校教師を目指したというから、そのアンバランスさを評価する親もいるという。

 しかし、純奈は知っていた。それらはすべて長澤が丹念に作り上げた虚像に過ぎないのだ。

 純奈は下を向いて長澤に向って歩きだした。教室に戻るためにはそこを通らなければならない。大きく迂回するルートもあるが、そうすると長澤は、

「僕のことを避けているの」

 と、顔をあわせる度に執拗に訊ねてくる。過去に長澤が気がついていないと思ってわざと遠回りした時に、その辟易するほどの執拗さを体験していた。

 純奈は目をあわせまいとしたが、しかし経験から分かっていた。純奈が近づくにつれて、長澤の瞳には別種の光が宿り始める。それは獲物を狙う爬虫類の目だ。

「こんにちわ」

 と、挨拶だけで通り過ぎようとした純奈の耳に、長澤の声が届いた。

「高校に進学したくないの?」

 彼女の足が止まる。拳が震えた。

「君はとても頭が良い。なのに、どうして細かいことをちゃんとできないのかな。日付を決めるだけだから簡単じゃないか。そんな、基本的で、簡単な事すら、出来ない生徒の、保証なんて、出来ないよね」

 長澤は最後のところを、嫌味たっぷりに区切って言った。

 純奈は思わず顔を上げる。目の前に長澤の笑顔があった。人によってはひどく魅力的な明るい笑い方だったが、その裏にどのような思考が隠されているのか、純奈には分かっていた。

「脅しですか……」

 声が震える。弱みを見せまいとすればするほど、声に出てしまう。

「そんな人聞きの悪い。学年主任としての指導ですよ」

 長澤は殊更に笑みを浮かべて、少し大きな声で言った。すべて計算され尽くした行動である。

「君がそんな簡単なこともできない人間ならば、今回は私が決めてあげようじゃないか。来週の土曜日にします」

「そんな勝手に――」

 そう言っている途中で、純奈は自分を抑える。

「おや、随分と道理が分かってきたようですね。そうですよ。教師に反抗する学生なんて、素行不良以外の何物でもありませんからね」

 長澤はあくまでも明るい表情で言った。

「それじゃあ約束したからね」

 そう言い残し、鮮やかな身のこなしで彼は立ち去る。

 純奈は身体を震わせながら、昼休みが終わる予鈴が鳴り響くまで、そこに立ち尽くしていた。

 彼女だけが知っている真実――長澤は幼児性愛(ペドフィリア)なのだ。

 さすがに日本国内で小学生以下を相手にする訳にはいかないから、そちらの性癖は海外で発散しているらしい。

 国内では中学生以上を対象とし、中でも幼く見える生徒をターゲットにしていた。


 そして、わざわざ長野県の中学校の教師になったのは、そのためである。

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