10.どうか どうか重なりますようにと
十月の空は、夏のあの突き刺す感覚を忘れさせるようなやわらかい日差しで満ちている。
制服の半そでから伸びた腕に当たる日差しが柔らかく感じたら、もう季節は秋へと移行しているのだ。
「すっかり秋な感じだよねー」
中間テストが差し迫った放課後、昇降口を出たところでぐんっと伸びをした加奈子は後ろにいる友人に話しかける。
「うん。風が気持ちいいね」
上履きを靴箱に入れた実加は、加奈子の大きな声に明るく言葉を返す。
開けっ放しにされた昇降口の向こうからやってきた優しい風が、実加の頬をくすぐる。
それは、生温い夏の風ではなく、サラサラと乾いた秋の風だ。
「秋ってなーんか寂しくなるのよね。別に夏が好きってワケじゃないんだけど」
「確かに、何かが終わっちゃう感じがするかも」
校舎から外に出れば、そこには薄い水色の絵の具を広げたような気持ちいい秋の空が広がっている。
下校時間ということもあり、周囲には学年関係なく夏服を身につけた生徒が楽しそうに帰路についていた。
「そうそう! 終わっちゃう感じなんだよねーっ。あーあ。今年の夏も恋愛できなかったなぁ」
「加奈ちゃん、佐々木くんは?」
「あーダメダメ。やっぱり男はメガネだよ。メガネでクールな感じのほうが断然イケテルよねーっ」
「相変わらずだなぁ。もぅ」
入学してすぐに一目惚れしたはずの「一組の佐々木くん」のことは、どうやら夏休みの間にすっかりどうでもよくなったらしい。
「それより! 五組の御堂くん、かっこよくない? 知的な感じでさー、くいっと眼鏡をずりあげる仕草がチョーセクシーなんだよねー」
「はは」
テスト前だというのに相変わらずハイテンションな加奈子の意見を受け流しつつ視線を横にずらした実加は、そこに見慣れた背中を見つける。
広い背中。優しい横顔。
心臓が痛くなるような中庭の出来事から一週間以上たったのに、その姿はやっぱり実加の視線を捉えて離さない。
「実加ってば聞いてる? ……あ」
自分の恋愛観を熱く語っていた加奈子は、遠くを見つめる実加の様子に気づいて、その視線の先を追いかける。
そこには。
「橘せんぱい……かぁ」
実加の視線の先には、靴箱の前で楽しそうに笑っている橘徹平がいた。
優しい笑顔が、からかいを含んだ色に変わる。
その視線の先には、思いっきり不機嫌そうな顔をしている「彼女」。
なにやら「彼女」に話しかけては、思いっきり睨まれて肩をすくめている。
「やっぱり、仲良しさんだよねぇ」
「うん」
実加から全てを聞いている加奈子は、少し離れたところで繰り広げられている二人の様子にしみじみと素直な感想を口にする。
先日の中庭での出来事。
一生分の勇気を使い果たしたような気がした実加は、教室で待っていてくれた加奈子のもとに戻ると腰を抜かすかのようにその場にしゃがみこんでしまった。
心臓がドキドキして息が苦しくて。
後で思い返すともっと伝えたいことがあったような気もするけれども。
それでも、徹平が実加の名前を呼んでくれたあの一瞬で全ては最高の想い出と変わっていた。
「あんな素敵な人に名前を呼んでもらえただけで、きっと私はすっごく幸せなんだと思う」
少し離れたところで楽しく笑っている先輩の姿を見て、実加はぼそりと呟く。
下の名前を呼んでもらえた瞬間、実加は感動のあまり泣くことしかできなかった。
同年代の男の人に初めて呼んでもらった自分の名前。
それは、いつまでも実加の心の中に残る。
例えこの恋が実らなくても、好きになった人に名前を呼んでもらえたことは実加の心の一番大切な場所できっと一生輝き続ける。
「そっかぁ。よかったね」
嬉しそうな実加の様子にまるで姉のように微笑む加奈子は、次の瞬間バシバシと実加の肩を力一杯叩く。
「みっ……実加っ! ほらあれ! 前!!」
「い、痛いよ加奈ちゃん」
ほんわか嬉しい気持ちで先日のことを思い出していた実加は、あまりの力に脱臼しそうになる右肩をなでながら隣にいる加奈子に文句を言おうとする。
と。
「あっ……」
ふと見上げたそこには、先ほどまで隣の「彼女」と楽しく会話していた徹平が何気なく実加たちのほうに視線を動かし。
そして――。
「い、今! 橘せんぱいってば実加に向かって笑った? 笑ったよねっ!」
呆然とする実加の隣で、加奈子が嬉しそうにぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる。
まるで自分のことのように喜んでくれる大切な親友の言葉に、実加は小さくうなずいた。
「うん。……加奈ちゃんにも見えた、よね? 嘘じゃぁ、ないよね?」
下校時間の昇降口
たくさんの生徒が入り混じる中で確かに徹平は実加の姿を見つけて、小さく微笑みを残した。
今まで、欲しくて欲しくて仕方がなかったもの。
願い続けた、先輩の笑顔。
広い背中を見つけるたびに。
優しい横顔を目にするたびに。
自分と先輩との間に広がる距離に苦しくなりながら、それでもいつかはあの笑顔を見たいと願っていた。
いつか、自分に向けて笑いかけて欲しいと望んでいた。
その願いが、今、叶った。
何気ない放課後の一瞬に、確かに叶ったのだ。
「うれしい」
じんわりと満たされていく心の中のあったかい気持ちをぎゅぅっと抱きしめて、実加は素直な気持ちを声に出す。
嬉しい。
たとえこの恋が実らなくても。
先輩の隣にいることができなくても。
たくさんの人ごみの中、先輩が自分を見つけて、そして微笑みかけてくれる。
その事実だけで実加は十分満足で、先輩のその笑顔だけで実加は十分幸せなのだ。
「うん。うんっ」
実加の言葉を受けて、加奈子も嬉しそうに何度もうなずく。
まるで自分のことのように。
自分の恋が実ったかのように。
「実加の気持ちがちゃんと伝わったんだね」
自分の手をぎゅぅっと握り締めてくれる加奈子の手のひらの温かさを感じながら、実加はもう一度先輩のいた場所に視線を移した。
そこには、体育館に向かう徹平の後姿があった。
広い背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
半年間、探し続けたあの背中。
願い続けた、大切な人。
でも。
以前みたいに苦しくて切ない想いは薄れていた。
たとえ手が届かなくても、実加の想いは確かに届いたのだから。
決して実ることのないこの恋だったけれども、それでも、ちゃんとこの想いは先輩の心に届いたのだから。
重なることのなかった実加と先輩の人生が、ほんの一瞬だけでも重なったのだから。
「加奈ちゃん」
実加の手をとって喜んでくれている目の前の親友の名前をゆっくりと呼ぶ。
この恋を、ずっと応援してくれた
くじけそうになったとき、実加の背中を優しく押してくれた大切な友達。
「ん?」
「ありがと」
ありったけの思いを込めて、実加はゆっくりとお礼の言葉を口にする。
諦めようと思った先輩への想いを諦めずにいれたのも。
告白する勇気を持てたもの。
全ては加奈子のおかげ。
加奈子の気持ちが、いつも実加の心に届いたからこその結果。
「何がぁ? あたし別になんにもしてないよ」
実加の言葉にビックリしつつ、加奈子は明るく笑う。
全然わからないという顔をしていても、それが照れ隠しだということは中学時代からの付き合いになる実加にはすでに承知の事実となっている。
「うん。でもいいんだ。お礼言いたかっただけだから」
加奈子のそういう何気ない優しさに助けられながら、実加は言葉を続ける。
「加奈ちゃんのおかげで、私、今すっごく幸せだよ」
心の底からそう言って、実加はゆっくりと頭上に広がる十月の空を見上げる。
そこには、どこまでも澄み渡った秋の空が広がっていた。
薄い筋雲と、薄水色の空。
ほんの少しの寂しさと、たくさんの優しさを含ませたその空の色に自らの恋を重ねた実加は、澄み切った秋の空気を思いっきり吸い込んだ。
私に向けてくれたあの笑顔。
私の名前を呼んでくれたあの優しい声音。
その全てを、私は絶対に忘れない。
生まれてはじめて私のなかに落ちてきたこの恋は、今、確かなカタチとなってここに残っている。
きっと、一生なくすことのない宝物となってここにあり続けるのだから――。
ただ、あなたに逢いたかった 真冬 @mahuyun
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