9.聞いて欲しい想いがあります
深呼吸を繰り返す。
緊張のあまり、口の中はすでにカラカラになっている。
両手を胸の前で祈るかたちに握り締めて、実加は校舎の出入り口をじっと見つめている。
伝えたいことはたったの二文字。
伝えたい想いは胸の中に溢れるこのあたたかなモノ。
ぎゅぅっと握り締めた両手に、心地よい秋風が吹きつける。
どうか、どうか届きますように。
この気持ちが。この想いが。
間違うことなく、きちんとあの人に伝わりますように――。
放課後の裏庭で目を閉じて何かにすがるように祈っていた実加の耳に、ゆったりとした足音が聞こえてくる。
グラウンドから校舎を挟んで反対側に位置する裏庭は、普段は誰も通ることのない場所。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間に、美術部だけが使う小さな絵画保管庫がひっそりとたたずんでいる。
その保管庫の前を、実加は橘徹平との待ち合わせ場所に指定した。
美術部員の実加にとって、この場所は校内でも数少ない大切な安らげる場所なのだ。
そのとっておきの場所で緊張のピークに達していた実加は、聞こえてきた足音にゆっくりと顔をあげた。
そこには、優しい微笑をたたえた長身の男子生徒がいた。
春、あの瞬間から想い続けた大切な人。
その背中を、笑顔を、声を、全てを人ごみの中で探し続けた、半年。
少しでも近づきたくて、彼の視界に入りたくて仕方がなかった想い。
「あれ? この前の日直ちゃん、だよね」
普段から告白され慣れている徹平はいつもの調子で指定された場所に到着したところで、その待ち合わせ場所で立ち尽くしている女の子の顔を見て思わず目を丸くする。
「あ、あの時はありがとうございましたっ」
まさか徹平が自分のことを覚えているとは思わなかった実加は、慌てて深々とお辞儀をする。
下を向くと、口から心臓が飛び出しそうだ。
おちつけ。
伝えたいことはこれじゃない。
もっと、もっと大切な何か。
「それと……」
ぐっとお腹に力を入れて、新鮮な空気を肺の中に送り込んで、実加はゆっくりと顔をあげて口を開いた。
「春に、私をボールから助けてくださって、ありがとうございます」
よみがえる記憶。
体育館に響く、音。
運動部ならではの、熱気。
扉を開けた瞬間に感じた空気が、実加の体中によみがえってくる。
「えーっと……そんなこと、あったかな」
実加の言葉に視線を上に向けて少し考えた徹平は、思い当たる記憶がなく申し訳なさそうに口を開く。
「はい。ぼんやりしていた私に向かって飛んできたバスケットボールから、先輩がかばってくださったんです」
振り返ったときに目に飛び込んできた広い背中。
あたたかくて耳に心地いい優しい声音。
その全てが、今では宝物だ。
何もわからないままぼんやりと先輩の背中を追いかけていたあの瞬間から、実加はこの恋に落ちたのだ。
ぎゅっと、両手を握り締める。
伝えなければ。
伝えなければならない想いがあるのだから。
「そのときから、先輩のこと見てました」
心臓が、きゅぅっと何かに掴まれたかのように苦しくなる。
口から飛び出した言葉が、ゆっくりと風に乗っていく。
口に出した声が震えないように一度深く息を吸って、実加は言葉を続ける。
「ずっと、先輩のことが、好きでした」
口に出した瞬間、それはとても簡単な言葉になる。
心の中にあるときは一人で抱えきれないぐらい巨大なものなのに。
苦しくて苦しくて仕方がなくって、抑えようとするそばからあふれ出してしまう。そんな大きな気持ちだったのに。
言葉にすれば、それはたった二文字のこと。
どんな気持ちも、どんな想いもこの二文字に込められる。
握り締めていた両手の力を、ゆっくりと緩める。
この気持ちは、目の前の人に伝わったのだろうか。
徹平の着ている学生服の第二ボタンを見ていた実加は、ゆっくりとその視線を上げていく。
「……ありがとう」
見上げたそこには、自分を見つめる優しい眼差しがあった。
そして、その眼差しが少しだけずらされると同時に、声のトーンを少し落として言葉が落ちてくる。
「でも、ごめん」
徹平からもらった言葉の意味を理解するまで少しだけ時間がかかった実加は、ぼんやりと空を見つめた。
三文字の中に込められた気持ちは十二分に実加の心に届いていた。
申し訳なさいっぱいの言葉。
それが実加の中できちんと処理されたところで、優しい声音がゆっくりと続ける。
「その気持ちに、応えることはできないよ」
そう言って静かに微笑む目の前の人に、優しく笑う「彼女」の姿がかぶる。
茶色いストレートの髪が笑うたびにサラサラと揺れていた。
目の前の人と同じ、春の日差しを感じさせる優しい微笑みを見せてくれた「彼女」。
実加にはとても敵わない、とっても素敵な一つ年上の女の人。
「悲しませたくない女の子がいるから」
とても、とても大切な人を思い浮かべたかのような優しい微笑みに、実加はきゅぅっと胸が締め付けられるような気がした。
わかっていた。
この恋が叶わないことは。
自分が「彼女」に敵わないことは。
それでも。もしかしたらと願っていた。
先輩と一緒にいるときの「彼女」は本当にいつも怒っていたし、口調だって乱暴だったし。
先輩だって、「彼女」といるときだけ普段のこの微笑みではなくやんちゃな子供のような笑顔になっていたし。
「園田せんぱい……ですか?」
思わずぽろりとその名をこぼした実加に、徹平は一瞬だけ目を見開いて小さく首を傾げる。
それは、無言の返答。
イエスなのかノーなのか。どちらともとれる返事。
でも。
「私、先輩の大切な人が園田せんぱいで良かったです」
徹平の答えがイエスだと感じた実加は、頭で考えるよりも先にこの言葉を口にする。
二人が並んでいる姿は、とっても自然だったから。
きっと、自分が先輩の隣にいるよりも、とっても自然だと思えるから。
「お話、聞いてくれてありがとうございました」
伝えたい気持ちは、全て伝えた。
自分の中に溢れていたこの想いは、きっと全部先輩に届いている。
そう思えた実加は、しっかりとした声音でお礼を言って、もう一度お辞儀をする。
下を向くと、今度は目に涙がたまっているのがわかる。
でも、まだ泣かない。
ここではまだ、泣けない。
「それじゃぁ、失礼します」
たまっていた涙を無理やり引っ込めて、実加は自分が持っている最高の笑顔を先輩に向けて、全ての気持ちを背にこの場を去ろうとした。
その、瞬間――。
「実加ちゃん」
大好きな人の大好きな声が、自分の名前を呼んでくれた。
それは、奇蹟。
決して訪れることのないと思っていた
「本当に、ありがとう」
こらえていた涙が一気に瞳から零れ落ちてきた。
背中に掛けられた言葉は優しくて。
本当に、本当に優しくて。
好きになってよかった。
頬を伝う涙を止めることができないまま、実加は自分の中に溢れる気持ちをしっかりと抱きしめた。
苦しい想いも切ない願いも。
全てはこの一瞬のためにあったのだ。
背中に感じる優しい気配を忘れないようにと願いながら、実加は今この瞬間に感じている全ての気持ちをしっかりと抱きしめて、足早にその場を去った。
先輩とのこの一瞬が、一生この胸に残る宝物になると確信しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます