8.溢れる思いは零れ落ちて

 気がつくと、大きな背中を捜している。

 優しい気配。あたたかい微笑み。少しだけ高い、良く通る声。

 その全てを逃さないように、実加の感覚はどんどん研ぎ澄まされてゆく。

 始業式のあの日、徹平の視界の中に自分の存在がきちんと認識されたあの瞬間から、実加の中で何かが変わった。

 それまであやふやだった憧れに近い恋心が、リアルな恋愛として形になったのだ。

 見つめるだけで満足だった幼い恋が、相手に気が付いてほしい自己的な愛情を含んだものへと変化してゆく。

 彼の視界に入りたい。

 私のことに気づいてほしい。

 もう一度、私に向かって微笑みかけてほしい。

 気持ちはどんどん貪欲になっていく。

 それと同時に、心を蝕んでゆくどす黒い感情。

 もてあます、醜い気持ち。

「まーた橘せんぱいのこと探してんの?」

 ぼんやりと廊下の窓から向かいの校舎を見ていた実加の背中に、子泣きじじいのようにのしかかってくる重みがある。

「加奈ちゃん、重いよ」

「実加ってばよくこんなとこから先輩のこと見つけられるよねー。あたしには向こうの校舎の人の顔なんてさっぱりだよ」

 実加たちの高校は、校舎がアルファベットのH型をしている。

 間に中庭を挟んで向かい合った二つの校舎の真ん中に、渡り廊下が設置されているのだ。

 そして実加たち一年生の教室と徹平たち二年生の教室は、中庭を挟んでちょうど向かい側に位置している。

 そのため、実加たちの教室の前の廊下の窓からは徹平たちのいる二年三組の教室が見えるのである。

「加奈ちゃんは視力が悪いからでしょう?」

「うーん。確かにそろそろコンタクトしなくちゃだな。でも、視力の問題じゃないと思うなー」

 そこで一旦言葉を切って、加奈子はにやりと含みを持たせた笑みを見せる。

「何よ?」

「あ・い・の・ち・か・らってやつでしょ? やっぱりあの職員室ハチアワセ事件が実加のハートに火をつけたんだねーっ」

「ハートに火をつけたって……」

 人差し指を動かして楽しそうに話す目の前の友人のセリフに、実加は小さく苦笑いをする。

 でも。

 一昔前のそのネーミングセンスも茶化した言い方も、加奈子はわざとやっているのだ。

 ほとんど無理だと思われる実加の恋。その恋を少しでも明るくする為に。

「あ……」

 そんな加奈子の言葉に小さく笑っていた実加は、窓の向こうに探していた人物の姿を発見する。

 教室の中、楽しそうに話す彼。

 普段の優しげな雰囲気そのままに、さらに今のこの会話が楽しくって仕方がないという笑顔。

 そして――。

 その笑顔が向けられる先は、サラサラの髪の毛が肩のところで揺れる、幼なじみ。

 見ず知らずの実加のことも気にかけてくれる、優しい人。

 実加に向けられたやわらかい笑顔ではなく、明らかに何かに怒っている様子だが、その怒りすら彼には嬉しくて仕方がないらしい。

 客観的に見れば、その二人の様子は間違いなくお互いに惹かれあっているもの。

 それは、誰にも壊すことのできない強いつながり。

「あちゃー。ほんっとーに橘せんぱいとあの幼なじみさんってよく一緒にいるんだね」

 実加の視線の先を見た加奈子は、小さくそう呟いて頭を押さえる。

 幼なじみで家が隣同士で同じクラス。

 そのどれか一つでも実加が持っていれば。

 もしかしたらあの場所にいたのは実加かもしれない。

 それが無理でも、相田実加という女の子の存在は知ってもらえただろう。

 気づいてほしい。

 自分という存在を。

 こんなにも、先輩のことを好きになっている相田実加という人間の存在を。

「……加奈ちゃん」

「ん?」

 窓の向こうを眩しそうに見ていた実加は、ぎゅぅっと胸の前で両手を握り締めて言葉を続ける。

「先輩に気づいてもらうには、どうすればいいかな?」

「え?」

 それは、願い。

 泣きたくなるほど切ない想い。

 存在を知ってもらいたい。

 自分のこの気持ちに、気づいてほしい。

 好きだから。

 誰よりも、あなたが好きだから。

「告白……しても、いいかな?」

「実加?」

「私のこの気持ち、先輩に言っても迷惑じゃないかな?」

 告白。それは、大切な人に思いを伝えること。

 自分の心の中で膨らんでいるこの気持ちを、相手に伝えること。

 男性が苦手で人見知りが激しい実加のこの言葉に、加奈子は思わず目を見開く。

「……迷惑じゃないと思うよ。うん」

 初めての恋に戸惑って、悩んで、諦めようとしていた目の前の友人は、この恋を伝える道を選んだ。

 それは、加奈子にとっては嬉しいこと。

 実加の中で生まれた恋が、つぶされることなくちゃんと育っているのだから。

 でも同時に、間違いなく断られると思われる実加の告白にもろ手を挙げて賛成することもできない加奈子は、歯切れの悪い言葉を口にする。

 徹平とその幼なじみである今日子との間には、他の人間が入り込む余地のない何かがある。

 それは、他人そとから冷静に見ていればわかるもの。

 そんな二人の間に、名前も知られていない実加が想いを伝えたところで、その恋が実ることはほぼありえないと考えられる。

 それでも――。

「私、この気持ち先輩に伝えたい」

 しっかりと窓の向こうに視線を向ける実加の表情に、加奈子は何かを言いかけてやめる。

 可能性はゼロではない。

 もしかしたら、一発逆転ということがありえるのかもしれないのだ。

「よーしっ! んじゃ桜せんぱいに橘せんぱいのメールかケイタイの番号、聞き出してあげるよっ」

 どんっと胸を叩いて、まかせて! と加奈子は言葉を続ける。

 実加が頑張るというのなら、自分はそのサポートをするまで。

 実加のこの恋が、幸せだったと思えるものにするために。

 後悔はして欲しくない。

 初めてのこの恋を、悲しい思い出にはしてほしくないのだ。

「あ」

「ん?」

 メールのほうがいいかなーと考えている加奈子に、実加は首を振りながら言葉を続ける。

「自分で……頑張るよ。自分でちゃんとやりたいんだ。だから……」

 この気持ちは自分のもの。

 思いを伝える決意をしたのも自分。

 だから、その術はできる限り、自分のちからで頑張りたい。

 そんな実加の気持ちを汲み取った加奈子は、優しく笑って大きくうなずく。

「うん。わかったよー。これは実加の恋だもんね。じゃぁ、あたしは黙っておくよ」

「ごめんね」

 自分の気持ちをちゃんとわかってくれている加奈子のその言葉に、実加は幸せな気持ちになる。

「それじゃぁ……やっぱりオーソドックスにラブレターかなぁ」

「ラブレター?」

 ほっこりと胸にあたたかい気持ちが広がっていくのを感じていた実加は、加奈子の言葉にきょとんと目を丸くする。

「そ! 直接告白するにしてもなんにしても、まずはせんぱいを呼び出さなくちゃだもんねっ。そのためにはお手紙っしょ?」

「あ、そっか」

「昼休みだと慌しいだろうし、やっぱり放課後かな。でも、バスケ部っていつも結構遅くまで練習してるんだよなー」

 そう言いながら加奈子はうーん、と頭を抱える。

 黙っておく、といいながらついつい世話を焼いてしまうのが加奈子だ。

 でも、それは決して余計なお世話なんかじゃなく、実加にとっては素直に嬉しいものである。

「……部活終わるの待つのが無難かなぁ?」

「うーん……。あ! ちょっとまってっ」

 ぐぐぐ、と考え込んでいた加奈子は、にかっと笑顔になって実加の顔をみる。

「来週の火曜日って、確か体育館使用禁止だった気がする。女バレもその日は練習休みだし、もしかしたらバスケ部も練習ないかも!」

「火曜日?」

「うんうんっ。その日なら放課後呼び出しても迷惑じゃないんじゃない?」

 まるで自分のことのように喜ぶ加奈子の言葉に、実加も思わず笑顔になる。

「そうだよね」

「よーっし! んじゃ男バスの子にそれとなく火曜日のこと聞いてみるよっ。練習休みならせんぱい呼び出して……告白、だね」

「うん」

 加奈子のガッツポーズに実加は深くうなずく。

 自分の中でどんどん大きくなっていく想い。

 あの背中を見つけるたびに苦しくって切なくって泣きたくなるこの気持ち。

 その全てを抱きしめて、実加はゆっくりと窓の外を見上げる。


 そこには、いつもよりも優しくあたたかい九月の空。

 秋の訪れを告げる、薄く透き通った雲の向こうには、どこまでも広がる優しい青。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る