7.この気持ちまで誤魔化してしまいたくない

 九月の空は、ほんの少しだけ寂しさを感じさせる青色をしている。

 どこまでも突き通った真夏の空に少しだけ影を入れたような、そんな憂いの青。

 その青空を見上げて、実加は小さくため息をついた。

「おっはよっ。実加実加、物理の宿題やってきた?」

 学校への道のりをゆっくりと歩いていた実加は、後ろから聞こえてきた元気な声にふと顔を上げる。

「加奈ちゃん、おはよー。物理?」

「そ。あたしちょっとヤバイ感じなんだよねー。提出日って今日だっけ?」

「たぶん、そうだと思うけど……。まだやってないの?」

「昨日頑張ったんだけどなー。後一歩ってとこで、気がついたら朝なんだもん」

 新学期から元気いっぱいの加奈子のその様子に、実加は小さく笑いを漏らす。

「加奈ちゃん……夏休みあんなにあったのに、宿題昨日やってたの?」

「あー。なによ、その馬鹿にした感じ。でもさー、物理ってむずくない? 坂道を登る力がどうとかこうとか言われてもさっぱりなんだよね」

 実加の隣に並んだ加奈子は、身振り手振りで物理のむずかしさを力説する。

 そんな加奈子の様子を見ていた実加は、話がひと段落ついてから本題に入る。

「で、結局終わらなかったから私の答え、写したいってこと?」

「そうそう! 実加ってばほんっとーによくわかってるねーっ。あ、代わりに英語の和訳、写していいよっ」

「……やってきたから大丈夫だよ」

 加奈子の悪びれない様子に思わず吹き出しつつ、実加はやんわりと断る。

 そんな実加の笑顔を見て、加奈子が真面目な表情を作って言葉を続ける。

「気持ち、少しは整理できたみたいだね」

 それは、夏休み前の出来事。

 実加の前に現れた、恋のライバル。

 あまりに完璧で素敵なその女性に対して、実加は自分の想う気持ちの行き場を完全になくしてしまっていた。

「うん。だいぶん、マシ……かな」

 自分を心底心配してくれている大切な親友のその言葉に、実加は精一杯の笑顔を見せる。

 逢えない時間は、恋を育てる。

 それは、互いの気持ちのベクトルがきちんと相手に向かっている時にいえる言葉だ。

 一方通行の恋にとって逢えない日々というものは、恋する気持ちをゆっくりと、でも確実に風化させてしまう。

 好きな人に逢いたくても、声を聴きたくても。

 一方通行の想いにとって、それは叶うはずのないもの。

 そして、想いは膨らんで、やがてゆっくりとしぼんでゆく。

「しばらく先輩のこと見てないから、なんかちょっとだけ気持ちが薄れた気がする」

 最後に姿を見たのは、たぶんテストが終わってすぐの放課後。

 大きなバッグを抱えて体育館へと向かう彼の後姿。

 実加の目に焼きつく、広くて大きな背中。

 その背中だけでは、夏休み中に気持ちを持続させることはできない。

「それって、諦めるってこと?」

「……」

 加奈子の質問に口を閉ざして小さく微笑む。

 諦めたいのか、想い続けたいのか。

 今の実加は自分の気持ちがわからなくなっていた。






「失礼しますー……」

 その日の放課後。二学期の初日から日直に当たっていた実加は、担任教諭がいると思われる職員室の扉をゆっくりと開いた。

 実加は先生が苦手だ。

 周りの女子生徒たちは担任の男性教師に対してもタメ口で気軽に喋っているが、元来の性格からか実加にはそれがどうしても出来ない。

 目上の人にはきっちりと敬語で、必要以上の会話は控えるように、それが実加の先生への接し方なのだ。

「……えっと」

 学期始まりならではの少しざわついた職員室の中に実加の担任教諭の姿は見あたらない。

 二学期の始まりゆえに増えがちな連絡事項や配布物の整理など、先生たちもせわしなく動いている。

 そんな先生たちの姿を目で追いながら、扉の入り口で先生に提出する予定の日誌を胸にぎゅっと抱きしめて実加は思わず途方にくれる。

 と、その時――。

「失礼しまーっす」

 実加の耳に、懐かしい声が飛び込んでくる。

 優しくて暖かい声。

 それは、夏休みの間聴きたくて聴きたくて仕方がなかった声音。

「あ、ちょっとごめんね」

 やっと聴くことができた声に思わず固まったまま動けなくなっていた実加の顔を覗き込んで、にっこりと微笑みつつ橘徹平はゆっくりと職員室に入っていく。

 その手には、二年三組の日誌。

 どうやら、徹平も実加と同じく始業式早々日直に当たってしまっていたらしい。

「立岡せんせー。はい日誌。っていうかさー。始業式に日直っていります?」

「まぁまぁそう言うなって。あれ、園田はどうした?」

「今日子サン? あーなんか今日は用事があるからとか言ってもう帰りましたけど。あれ、今日子サンになんか用事ですか?」

「いやいや、特に何でもないんだけどな。はい、ごくろーさん」

 担任教諭であろう立岡という先生と仲よさそうに話している徹平を眩しそうに見つめていた実加は、徹平の視線が自分に向いたことに慌てて目をそらす。

「あ、誰か先生に用事? 良かったら呼ぶよ」

 明らかに一年生であろう実加の様子に、徹平はにっこりとお得意のスマイル全開で優しく話しかける。

 普通の女の子なら飛んで喜ぶこの場面なのだが、実加はあまりの緊張に喜びも吹っ飛び思わず固まる。

「あっ……」

「あ、もしかして二学期早々日直? だったらお仲間さんじゃん。担任は誰?」

「いっ……いじゅういんっ……せんせぃ……です」

 目の前の徹平の存在が、そしてその徹平が自分に話しかけているという現実が信じられないまま、実加はどうにか言葉を搾り出す。

 こんなことが、あっていいのだろうか。

 あんなに遠い存在だった人が、目の前にいる。

 目の前で、実加を認識して微笑んでくれる。

 優しい声音で、実加に言葉を投げかけてくれるのだ。

 そんな実加の緊張をほぐすようにあたたかい微笑みを残して、徹平はくるりと先ほど話していた相手へと顔を向ける。 

「立岡せんせー。伊集院先生の机ってどこですかー?」

「伊集院先生? 確かそこのシマの端だったと思うけど」

 話は終わったとばかりに机について雑務を片付けていた徹平のクラスの担任教諭は、めんどくさそうに奥の机を示す。

「だってさ」

 せんせーサンキューっ、と簡単な礼を言って、徹平は実加にもう一度優しい笑顔を見せる。

「あ……ありがとうございますっ……!」

「いえいえ。一年のときって職員室緊張するんだよねー」

 俺もそうだったからわかるわかる、とうなずきつつ、徹平は実加の横をすり抜けて廊下に出る。

「じゃあね」

「あ……」

 そのまま、ひらひらと手を振って階段に向かって歩いていく。

 その背中は、夏休み前に見た、あの広い背中と同じもの。

 でも、あのときより格段に身近に感じることができる、優しい気配。

「しゃ……しゃべれ、ちゃった」

 あたたかい微笑み、少し高めのやわらかい声。

 その一つ一つをゆっくりとかみ締めながら、実加はもう一度ぎゅぅっと日誌を抱きしめた。

 しぼんでしまっていた気持ちが、自分の中で大きくなっていくのを感じる。

 手を伸ばしても届かないところにあった大切なモノが、ふわりと浮かび上がってくるような気がする。

「ふ、ふふっ」

 顔が、にやける。

 床を見て、日誌を抱きしめて、実加は緩む頬に右手を当てる。

 冷たくなった右手が、火照った頬に心地いい。

「あ、相田さん。日誌持ってきてくれたんだね」

 席に戻ってきた担任教師が入り口にいる自分の生徒に声をかけるまで、実加は自分の中に広がる喜びをゆっくりとかみ締めていた。



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