6.諦めようって 何度も 何度も

「あーおなかすいたぁっ」

 じりじりと降り注ぐ太陽の日差しを体中に浴びて、お元気娘加奈子は両手を上に突き上げて思いっきり伸びをする。

 見上げると、そこにはどこまでも突き抜けていくような青空。

 それは、すべての悩みを丸ごと吹っ飛ばしてくれそうな、透き通った色だ。

「ねねっ。学食で何か食べて帰ろうよっ」

「う、うん」

 加奈子の提案に何気なく言葉を返した実加だが、ふと横を見ると空に向かって思いっきり手を伸ばしていたはずの友人の肩ががっくり下がっているのを見て首をかしげる。

「か、加奈ちゃん?」

「あーっっ!! んもうっ! 実加ってばなんでそんなに元気がないかなぁ?」

「え?」

 じたばたとその場で握りこぶしを作って暴れる加奈子に対して、実加のテンションは低い。

「だーかーらーっ! 暗いんだってば。先週ぐらいからなんか変でしょ? 実加らしくないもん」

 先週――。

 学食のカウンター前で出会った「彼女」。

 サラサラと流れる綺麗な髪にやわらかい笑顔、気遣う声。

 それは、実加の中にあった恋する気持ちをくじけさせるには十分すぎる出来事。

「うん……」

 自分の言葉にさらに沈んでいく友人の顔を覗き込んで、加奈子は小さくため息をつく。

 そこには、頭上に広がる青空とは対照的な、曇り空のような瞳。

 泣きたい気持ちを必死でこらえている、表情。

「ほら、行くよ」

 真夏の気温と対照的に冷え切った実加の手のひらを引っ張って、加奈子は足早に人気の少ない学食へと足を向けた。





 夏休みを目前に控えた学食は、人もまばらで普段なら調理室いっぱいにいるおばさんたちの姿も見当たらない。

 退屈そうにパンやお菓子を売っているおじさんが一人いるだけだ。

 そのおじさんから菓子パンとパックジュースを購入した加奈子は、パタパタと元気な足音を響かせて実加の座っているテーブルへと戻ってくる。

「で。一体何があったのよ」

 申し訳なさそうに学食の椅子にちょこんと座っている実加の向かいに腰をおろして、フルーツ牛乳のパックにストローを差し込みつつ話を促す。

「何がって……なにも」

「あのねー。この加奈子さんの目はごまかせないんだから。ぜぇーったいに変だもん、実加。先週、学食でお昼食べた時ぐらいから変だよね? やっぱり注文取るとき誰かに何か言われたの?」

 先週。

 お弁当を持参していた加奈子が席を取っている間にあった出来事。

 それは、実加にとって切なく苦しい気持ちを呼び起こす。

「……会ったの」

「ん?」

 テーブルをはさんで向かい側から心配そうな表情で覗きこむ加奈子の様子に、実加は静かに口を開く。

「せんぱいの、幼なじみさんに」

「……あー。橘せんぱいの例の幼なじみさんのこと?」

「うん」

 実加の言葉に加奈子は先日部活の先輩である上条桜から入手した情報を思い浮かべる。

「橘先輩の幼なじみさん」こと、園田今日子。

 幼なじみとは名ばかりで、桜含め周囲の人間にはすっかり後任となっている徹平の「付き合っていない彼女」。

 しかも今日子自身、決して目立つタイプではないけれども穏やかでしっかりしており、クラスのみんなからも慕われているという魅力的な女性らしい。

 メモを片手に敵情視察とばかりに真剣な雰囲気で話を聞いていた加奈子も、桜の口調から園田今日子がどれだけ同性から好かれているかを理解した。

 定期テストの順位一覧の時にあの二人の会話を聞いていた実加の様子がおかしいと感じた加奈子は、桜から聞いたこの情報は実加には伝えなかったのだが。

「す、ごくね、……いい人、だったの」

 実加のこの言葉に、加奈子はぎゅっと口を結ぶ。

 どうやら実加は直接今日子と会って、その人柄を見せ付けられたらしい。

「私、カウンターで注文取ることができなくてどうしようかと思ってたら、その幼なじみさんの友達の人が助けてくれて、なんか、私のことを心配してくれてたみたいで」

 ぼそりぼそりと小さな声で言葉を紡ぎながら、実加の瞳にゆっくりと涙がたまっていく。

「あんな、素敵な人が……橘せんぱいの近くにいるんだったら、もう絶対に、無理だよ……」

 実加が初めて恋を落とした相手は、天下無敵のモテ男である橘徹平だ。

 ルックス、頭脳、性格、そのすべてをとっても同じ高校生とは思えないぐらいデキる男。そんな徹平を好きになるだけでも無謀で手の届かないと思っているのに、その徹平のそばには実加がとても敵わないような素敵な女性である園田今日子がいる。

 その二人は、何も知らない実加が見たってお似合いだと思えるほど素敵な二人で。

 今日子の登場で、実加は、自分のこの恋が絶対に叶わないことを実感したのだ。

「実加……」

「加奈ちゃん、私、もうやだよ。こんな気持ち、もう嫌だよ」

 胸に抱えた苦しい気持ちを吐き出すように、実加はうつむいて口を開く。

 ぽたり、とテーブルの上に雫が落ちてくる。

 絶対に叶わないと思っているのに、それでもその姿を探してしまう。

 もう諦めようって思っているのに、先輩の背中を見つけたらそれだけで幸せになってしまう。

 姿が見たい。

 声が聞きたい。

 優しいあの笑顔を、もっともっと近くで見たい。

 諦めようと思えば思うほど、恋する気持ちはどんどん貪欲になっていく。

「つらいよ。諦めたいのに、どんどん気持ちが膨らんでいくんだよ」

 自分でも止められない恋する気持ち。それは、あの瞬間から動き出したもの。

 ゆっくりと、でも確実に実加の中で育ってきた大切な想い。

「……」

 こぼれだした自分の気持ちを必死に押しとどめようとしている親友の姿に、加奈子は思わず口にすべき言葉を失う。

 生まれて初めての恋を見つけた実加。

 その恋は果てしなく無謀な恋だけれども。

 それでも実加の心に生まれたその気持ちは限りない本物であって。

 簡単になくしていいものでは決してなくて。

 けれども。

 この気持ちを胸に抱えることはとてもつらいことで。

 どこまでも真剣だからこそ、手が届かないことを知るたびに苦しくて。

「でも……あきらめる」

 伝えるべき言葉を捜していた加奈子の耳に、はっきりと決意した声が聞こえてくる。

 その声に顔を上げると、そこには先ほどまで瞳にたまっていた涙をぬぐった実加がいた。

「実加?」

「私、諦めるよ。もう、ちゃんと諦める」

 ぐっと膝の上に置いていた両手で制服のスカートを握り締めて、実加は静かに決意する。

 諦める、と。

 この恋を。この想いをやめる、と。

 それは、見ていて悲しくなるほどの、精一杯のつよがり。

 見ている加奈子の胸まで痛くなるほどの、苦しい決意。

「実加……」

「だって、絶対に無理だもん。これ以上好きでいたって、この恋が叶うことは決してないんだもん。だったら、もうやめる。こんな気持ち、もういらない」

 つらいだけの気持ちなんて、もういらないよ。

 一気にそう言い切ると、実加は唇をかみ締めてうつむく。

 そんな実加の気持ちを受け止めて、加奈子は今自分がいえる精一杯の言葉を口にする。

「……本当に、いいの?」

「……」

「実加が今感じている苦しい気持ちの裏側には、あったかい気持ちやドキドキする気持ちがちゃんとあるんだよ? それも一緒に失っちゃっていいの?」

 恋する気持ちには表と裏がある。

 好きな人を思うだけで幸せになれたり心がぽかぽかになったり。

 そんなプラスの気持ちだって、ちゃんとあるはずなのだ。

 実加の中に芽生えた恋心は、実加にたくさんのドキドキと幸せとあたたかさを降り注いでくれたのだから。

「でもっ」

「とにかく!」

 小さく反論しようとした実加の言葉をさえぎって、加奈子は真夏のひまわりのような笑顔を向ける。

「これでも食べなって」

 そういいながら、先ほど買ってきたクリームパンの封を開けて実加に手渡す。

 おいしそうに焼けた、卵形のクリームパン。

 それは実加の大好物だ。

「人間食べるもの食べなきゃ駄目だからね。実加ってばひどい顔だよ? 最近まともにご飯も食べてないんでしょ」

「……そっ、そんなこと……ない、もん」

「やっぱりそうだ。ただでさえちびっこいんだから、ちゃんと食べなくちゃだめじゃんっ。ほらほら、あたしのフルーツ牛乳もあげるからっ」

 世話焼きでせっかちなお元気娘加奈子。その加奈子の明るさに救われたように、実加は小さく笑みを浮かべる。

 苦しい気持ちが、ほんの少しだけ紛れる。

「ねっ」

 加奈子に促されて、実加は手の中にあるクリームパンを一口ほおばる。

 ふわふわのパン生地の間から、ほんのり甘いカスタードクリームの味が口の中に広がる。

 それは、優しい味。

 ほっと一息つける、懐かしい味だ。

「おいしい?」

「……うん」

 ニコニコ笑顔で顔を覗き込んでくる親友に、実加はぎこちない笑顔を作る。

 苦しくて悲しくて行き場のなかった気持ちが、少しずつ溶けていくような気がする。

「あたしには実加の気持ちはわかんないけど」

 クリームパンをほおばる実加の様子を安心した顔で見ていた加奈子は、そのまま言葉を続ける。

「え?」

「せっかく実加の中で生まれた気持ちなんだから、諦めることないと思うよ?」

 実加の中で生まれた気持ち。

 それは、生まれて初めて感じた、恋する気持ち。

「加奈ちゃん」

「実加は実加。幼なじみさんは幼なじみさんだよ。気にすることないじゃんっ。実加は実加の恋をすればいいんだから」

 たとえ、その先にあるものがハッピーエンドではないのだとしても。

 この恋に誇りが持てるように。

「……うん」

 精一杯自分のことを考えてアドバイスをしてくれている親友の優しさを感じながら、実加はこくり、と頷いた。



 その先にある未来がハッピーエンドじゃなくても。

 どうか、どうかこの恋が永遠の宝物となるように。



 加奈子の言葉をしっかりと胸に抱きしめて、実加は手の中に残っているクリームパンを口の中に放り込んだ。



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