5.届かない気がした 叶わない気がした
窓の外はどこまでも澄み切ったスカイブルー。
弱い気持ちを奮い立たせる、勇気の青。
連日降り続いていた雨が上がった七月、実加は財布を握り締めて食堂の入り口に立っていた。
「それじゃあたしは先に席取っとくから、実加はちゃっちゃと買っておいでよねー」
お元気娘加奈子が自分のお弁当箱を手に学食の席取り合戦に参戦していくのを心細げに見ていた実加は、小さくため息をつくと目の前にある人だかりに視点を移す。
桜坂高校の学食は近隣住民の間でもおいしいと評判である。
そのため、お昼のランチタイムには注文をする学生と注文を受ける学食のおばさんとの間での激しい戦いが繰り広げられるのだ。
ちなみに一番人気は日替わり定食である。三百円という格安価格で主菜と副菜、ご飯に味噌汁まで付くので食べ盛りの男子高校生にはたまらないセットなのだ。
「あ……あのっ」
おしくら饅頭のような人ごみの中でおとなしく前の人たちの注文を待っていた実加が、ようやく注文できる場所に来れたと口を開いた、その瞬間。
「おばちゃん! カツ丼よろしくっ」
「あ、おれA定ね!」
すぐ後ろにいた男子学生が実加の注文に被せるように大きな声でカウンター越しに立っている注文を取るおばさんに声をかける。
「はいよー。カツ丼とA定ね。っと、定食、今日はもう売り切れだよっ」
「えぇー? マジかよーっ」
「定食は先に来て食券買ってもらわなきゃダメだって言ってるだろー? ほら次!」
おばさんに軽く文句を言いつつお金を払う為に前に出てきた男子学生に押し出されて、実加は再度注文の人だかりから弾き飛ばされる。
内気でおとなしい実加にとって、きちんとした列もなく、とにかく声を張り上げて注文を告げなければならない桜坂高校の学食の注文システムは非常に苦手である。
入学してすぐに一度、加奈子と一緒に学食に食べにきたときもなかなか注文が言えずに、最後には加奈子に頼んでもらってやっと食事をとることができたぐらいなのだ。
――どうしよう。
とりあえず人だかりの後ろに再度並びながら実加は思わず泣きそうになる。
――せっかく加奈ちゃんが席を取ってくれてるのに……。このままじゃお昼ご飯食べれないよ。
「おばちゃん。この子の注文を先にとってやんなよ」
うつむいた実加のすぐ隣で、凛とした声が人だかりの向こうにいる学食のおばさんに向けて発せられた。
「さっきからこの子、ずーっと並んでるみたいだし。あ! あんたらもちゃんと気づいてやりなよね」
右肩に乗せられたあったかい手のひら。
ふと隣を見上げると、長身で整った顔をした女子生徒が先ほど実加を抜かして注文していた男子たちに注意を促す。
「え? 俺たち?」
「そ。この子、あんたたちの前に並んでたのに、自分らの大声に注文かき消されちゃってたんだよ」
「え? マジで?! うっわー、それはごめんなー」
「ってか、日下部さんチェック厳しすぎ」
カツ丼とカレーが乗ったお盆をそれぞれ持っていた男子生徒は、実加の隣に立つ長身美人を見て小さく肩をすくめる。
「私じゃないわよ。見てたのは今日子」
「あー、園田さんね。納得」
「マジ、ごめんなー」
促されるままに注文を済ませた実加の顔を覗き込んで謝る男子生徒に、実加は控えめな笑顔で頭を下げる。
基本的に年齢にかかわらず男の子と話すことが苦手な実加にとって、知らない男の人に話しかけられるということは苦痛以外何者でもないのだ。
「さっさとカツ丼食べたら? 冷めるよ」
そんな実加の心情を察してか、隣の長身美人は一言そう言って実加から男子生徒たちを引き離す。
そして、実加の顔を覗き込んで小さく笑う。
「あんたも、次はもうちょっと大きな声で注文したほうがいいよ? うちの学食は弱肉強食だから」
「あ、ありがとうございます」
自分に向けられる優しい口調に、実加は緊張しつつもお礼の言葉を口にする。
「都ちゃぁんっ。なにやってんのぉ?」
ぺこりと頭を下げて注文したきつねうどんが乗ったトレイを手に加奈子のほうへと向かおうとした実加は、目の前に現れた女子生徒に思わず足を止める。
「ん? ちょっとね。って、あれ? 花恋はお昼いらないんじゃなかったっけ?」
「うん。ダイエットしようと思ったんだけどぉ。やっぱりおなかすいちゃったぁ」
ふふっと笑った甘ったるい声を出す人物は、イマドキ流行らないと思われるぶりっ子ポーズで実加に視線を移す。
「あれぇ。なんかお取り込み中だったぁ?」
「え? あー大丈夫」
興味津々という感じで実加を見ていたぶりっ子女子の追求を避けさせるように、長身美人はそっけなく言って実加を促す。
自分のこの性格に気付いてくれているその気遣いに感謝しつつ、実加は小さく会釈してその場を離れようとする。
と、その瞬間。
「都。結局何食べんの?」
実加の耳に飛び込んできた、聞いたことのあるアルト。
低音で、でもよく通るその声は、少し前確かに聞いたことのあるものだ。
それは中間テストの成績発表の場で耳にした、実加にとっては忘れたくても忘れられない声。
と、同時に思い出す、優しい笑顔とやわらかい声音。
そして、自分の中に芽生えた、ドス黒い感情。
「あれぇ? きょんちゃんはお弁当組じゃなかったっけぇ?」
「うん。都に付き合って学食でお弁当広げようかなって思って……って、花恋、なんであんたここにいるのよ」
「え? 花恋も学食でランチしよっかなぁーっておもってぇ」
「あっそ」
低く、でも耳に聞き取りやすいしっかりとした声。そっけない口調。
トレイを持ったまま、実加は思わず後ろの三人組の会話に耳を傾けつづける。
その声の持ち主は、実加の記憶に間違いがなければ、橘徹平の幼なじみ、ということになる。
――園田、今日子さん……だっけ。
先日、加奈子に教えてもらった名前を頭の中で繰り返す。
加奈子が部活の先輩に教えてもらったという、名前。
実加にとって、初めての恋の相手の、一番近くにいる人。
その人が、今実加の後ろにいる。
会話の流れ的に、どうやら実加を助けてくれた長身美人とあのちょっと変わったぶりっ子女子とは友達らしい。
「あ、そうそう。あの子ちゃんと注文できてたよ」
ぶりっ子女子の会話に受け応えしていた今日子に向かって、長身美人がまるで報告するかのように実加のことを口にする。
自分の話が出たことに驚いて、思わず振り返った実加は、長身美人とぶりっ子女子にはさまれた状態となっていた「彼女」を見る。
平均より少し高めの身長に、形の良い優しげな瞳。
肩に下ろした髪は少し茶色がかったストレートヘアーで、首をかしげて笑うたびにその髪がさらさらと揺れる。
やわらかい春の日差しのような雰囲気をもつ「彼女」とばっちり目があった実加は思わず言葉を失う。
「大丈夫だった? うちの学食、注文取るの大変だから、見ててちょっと心配になってたんだ」
そんな実加を気遣ってか、今日子は優しく微笑んで話し掛ける。
以前、徹平との会話で感じた冷たさは、そこにはまったく感じない。
心のそこから実加のことを思いやっているような、そんな印象を受ける笑顔だ。
「あ……大丈夫、です」
「あんたのこと、今日子が最初に見つけたんだよ。で、心配そうに見てるから私が代わりにあいつらに注意したんだ」
今日子にぺこりと頭を下げた実加に、長身美人こと都が注釈を付け加える。
「たぶん、ああいうところで大声出すの、苦手なタイプかなって思ってね。余計なお世話じゃなくってよかった」
そう言って微笑むその笑顔は、女の実加が見てもとてもかわいらしくて。
実加は先日のどす黒い感情がどこかに消えていくのを確かに感じた。
「あ、早く食べなきゃうどんのびるんじゃない?」
ぼんやりとしている実加のトレイの中をのぞきこんで、今日子は笑顔でそう言って、じゃあね、と手を振る。
「あっ、ありがとうございましたっ」
都たちと楽しげにしゃべりつつ注文カウンターへ向かう今日子に再度お礼を言って、実加はそのまま加奈子が待つテーブルへと向かう。
――かなわない。
今日子の笑顔を思い出して、実加は自分のこの恋が決して実らないことを感じた。
――あんなにいい人だっただなんて。
以前感じた、あの感情が急速にしぼんでいく。
かなうはずがない。
あんなにも優しくてかわいらしくって、しかもあんなに素敵な友達がいる人に、私が敵うはずがない。
あんな人が、橘せんぱいの幼なじみだなんて。
絶対に叶わない。
この恋は、届くはずがないんだ。
「実加? どーしたのよ。遅かったじゃん?」
ぼんやりとしたまま加奈子が取ってくれたテーブルにたどり着いた実加は、そのまま崩れ落ちるように椅子に座る。
「え? 実加? どーしたの?!」
ゆっくりと、目の前の視界がゆがむ。
苦しい感情が、実加の心を支配する。
ぽたり。とのびきったうどんの中に、瞳からこぼれた涙が落ちる。
なぜなんだろう。
なぜこんなにも手が届かない人を好きになってしまったんだろう。
どうして、初めて恋が、この気持ちのベクトルが、あの人に向いてしまったんだろう。
「え? 注文するときに誰かに何か言われたの?!」
まるで見当違いな心配をする加奈子の言葉を聞きながら、実加は泣き出しそうな切ない気持ちを一生懸命抱きしめていた。
窓の外にはどこまでも広がるスカイブルー。
力強い日差しが、窓を通して学食のテーブルを強く照らしていた。
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