4.気付かないで こんな醜い気持ちに
やわらかい日差しが降り注ぐ五月が終わると、見上げた空にどんよりと雨雲が居座る六月がやってくる。
肌にまとわり付く空気もじっとりとしていて、毎日のように降り続く雨に、どうしてもストレスが溜まりがちになる。
そんな時に、実加たちが通う桜坂高校の中間テストの結果発表は貼り出される。
上位十名の名前が大々的に発表されるのだ。
「実加っ! ちょっとちょっと!」
教室から見上げる空は今日もどんよりと曇っていて、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
教室内は、じめじめとした湿気が広がっていて、クラスメイトの表情もなんとなく暗い。
そんななかに、クラスでもムードメーカーとなっている加奈子の声が響き渡る。
「あ、加奈ちゃん。おはよ」
「おはよ。じゃないわよ! ほら、行くよっ」
自分の席でカバンから教科書を取り出していた実加は、腕を掴んで引っ張る加奈子の慌てように驚く。
「え? な、なに?!」
「いいからっ! ほら早くっ」
加奈子に引きずられるままに教室を出た実加は、二階の渡り廊下へとたどり着いた。
いつもは閑散としているはずのそこは、なぜか人だかりとなっていた。
「あれ? みんなどうしちゃったの?」
「成績発表だよっ。この前の中間テストの結果発表が張り出されてるんだって!」
今月の初めから衣替えが実施されて、男女ともに上着を脱いで軽やかな格好となっている。
桜坂高校の校則はさほど厳しくないため、男女ともにシャツではなくTシャツやポロシャツを自由に着崩している。
そんなポロシャツ群に圧倒されている実加の手をぐいっと引っ張って、加奈子はずんずんと二年生の掲示板へと向かう。
「加奈ちゃん。私たち、一年だよ」
「違うんだってっ! うちの学年のことはどーでもいいんだよっ。そうじゃなくって、ほらほらっ! 見てみなよ、二年生のところ!」
「え? あ……」
学年ごとに中間テストの合計点の上位十人までをフルネームにて発表するその掲示板の前で、実加は思わず目を見開く。
「ね。びっくりでしょ? これは絶対に実加に教えなきゃって思ったんだ」
言葉を失ったまま張り出された紙を呆然と見つめる実加の隣で、加奈子が得意気に胸を張る。
そんな加奈子の言葉に、実加は小さくうなずく。
目の前の張り紙には、実加の脳内にインプットされた名前が載っていた。
五位 橘 徹平
漢字を目にするのは初めてだが、間違いなくあの字は「たちばな てっぺい」と読めるのだろう。
とすれば、体育館で出逢ったあの笑顔の彼ということになる。
「橘せんぱいって、すっごく頭いいんだ……」
学年で五位ということは、クラス内ではおそらく一位だろう。
優しげに微笑むあの表情からは、そんなのイメージはなかったのだが。
「桜せんぱい曰く、運動もバリバリ出来るらしいよー。で、しかも優しいんだって。なんかもう、すっごいカッコイイ人だよね」
ボソリと呟いた実加の言葉に続くように、桜は徹平に対する誉め言葉を口にする。
「うん……。ほんと、なんか全然手の届かない人、だなぁ」
ぼんやりと徹平の名前を見つめつつ、実加は小さな声でそう呟く。
勉強も運動もあんまり得意じゃない上に、加奈子のように社交的で誰とでも明るく喋るコトもできない自分が、ひどくちっぽけに思えてくる。
おとなしくて、ろくに自分の言いたいことも言えない。
見た目だって十人並みで、暗いイメージがぬぐえない。
そんな自分自身のことを考え、実加は深くため息をついた。
――その時。
「あれぇ? 今日子サンってば今回の中間も欠点?」
耳に馴染む、やわらかい声。
良く通る色っぽいその声の主は、間違いなく今実加の脳裏に浮かんでいた人物だ。
その声音は、以前聞いたときよりも数段楽しそうに弾んで聴こえる。
「うるさいなーっ! あんたが出来すぎるんでしょーがっ! 何よっ。この厭味な順位は!」
「え? 別に俺、ふっつーに勉強しただけだけど? っていうか、今日子サンの点数のほうがある意味スゴイよね。二年のしょっぱなからコレだと、後がしんどくなるんじゃない?」
「なっ……。大丈夫よ! 一年の時だって最終的にはどうにかなったんだから」
「そっかなー。俺、勉強教えてあげようか? 数学とか得意だし」
「ばっ、なっ! 結構ですっ!」
「はいはーい。ほんっと相変わらず今日子サンってばツレナイなぁ」
明らかに楽しんでいるその口調。
相手の女の子とのやりとりが楽しくて仕方がないという空気が伝わってくる。
「あっ! 実加実加っ。あれってば橘せんぱいじゃんっ」
「う、うん」
「一緒にいる人って、もしかして桜せんぱいが言ってた噂の幼なじみさんかなぁ?」
「……かな」
加奈子の言葉にポツリポツリと相槌を打ちつつ、実加は徹平と今日子サンと呼ばれている幼なじみとのやりとりを見つめる。
からかいつつもきちんと優しく手を差し伸べている徹平に対して、その幼なじみはその手を冷たく拒否している。
余裕の表情で笑っている徹平だが、幼なじみの拒絶に小さく傷ついているように見える。
「……私なら、あんなこと絶対に言わないのに」
「え?」
徹平に対するあまりにも冷たい態度に、実加の中で何かがぐつぐつと沸き起こる。
橘せんぱいの隣にいるのが私なら。
あんな、口が悪くて気が強い人じゃなくって、私なら。
きっと、あんな冷たい言い方はしない。
絶対に、橘せんぱいの言葉をきちんと受け止める。
なぜ、あの人なんだろう。
橘せんぱいにとって一番近い存在である人が、あの人なんだろう。
イヤだ。
あの人が橘せんぱいの幼なじみだなんて、イヤだ。
「実加?」
「え?」
ぎゅぅっと握り締めた右手を胸の前に持ってきて徹平の隣にいる幼なじみの今日子を睨んでいた実加は、加奈子の言葉にふと視線を戻す。
「なに? どーしたのよ。なんか、すっごい形相で橘せんぱいたちを見てたけど」
「う、ううんっ。なんでもないっ! あ! 加奈ちゃんっ。そろそろ教室戻らないと先生来るんじゃないかな」
自分の中に沸き起こった、醜い感情に無理やり蓋をして、実加は加奈子に笑いかける。
今の気持ちはなんだったんだろう。
自分は橘せんぱいのことを何も知らないのに。
橘せんぱいの幼なじみさんのことなんて、もっと何も知らないのに。
なぜ、あんな感情が沸き起こったんだろう。
イヤだ。
こんな気持ちを持つのはイヤだ。
自分の中に、こんなどす黒い感情があるだなんて、知らなかった。
「あ、ちょっと晴れてきたみたい」
ぐるぐると回り続ける感情の波に飲み込まれそうになっていた実加は、加奈子のその言葉にふと廊下から窓の外に目を向けた。
そこには、曇天の間から差し込む、強い日差し。
隙間からのぞく、真夏の太陽。
自分の中のどす黒い気持ちを出来るだけ頭の隅に追いやって、実加は雲の合間から見える、優しく強い夏の空をしっかりと見つめていた。
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