3.その一言が嬉しかったあの日
「か……加奈ちゃっ」
放課後。加奈子に引っ張られるように体育館の前へとやってきた実加は、今から部活に行くのであろう体育会系の男子の間に埋もれそうになっていた。
「実加? 何やってんのよー。ほらほら、ちゃっちゃとおいでって」
体育館の入り口でぐずぐずとしている実加の手を引っ張って上履きを脱いだ加奈子は、あ! と声を出してその場に立ち止まる。
「あれ? 加奈ちゃん、もしかして新入部員連れてきてくれたのーっ?」
加奈子の向こうから聞こえてくるかわいらしい声に顔をのぞかせた実加は、目の前に立つ小柄な女性に思わず見とれた。
はつらつとした雰囲気を持つその女性は、大きな瞳をくりくりと動かしつつ実加に目をやる。
「桜せんぱいっ! おはようございますっ」
実加の手を引っ張っていた加奈子は、その女性に向かって体育会系の挨拶をする。
「おはよーっ。今日は男バスと一緒だから、むっさいわよー」
「あははっ。そうですよねーっ。男子とはあんまり一緒に使いたくないですよねー。体育館」
カラカラと笑う隣の友人と目の前の人物を見比べて、実加は思わず目を丸くする。
加奈子が敬語を使っているということは、どうやら目の前のこの女性は実加たちよりも年上ということになる。
……とてもそうは見えないあどけなさだが。
「で? こちらはなにちゃん?」
小さな顔に配置よく並んだ目を細めて、人懐っこい笑顔で少女は実加を見つめる。
「この子は同じクラスの相田実加で」
同じ視線の高さにあるあどけない微笑みに緊張して言葉を失う実加の変わりに、加奈子が屈託のない感じで言葉を続ける。
「ちょっと今、人を探してるんですよー」
「人探し? だれだれーっ?」
その言葉に興味津々といった感じの桜に対して、加奈子が矛先を向ける。
「あ、桜先輩もしかして心当たりあったりするかも。えーとなんだっけ? 笑顔が優しい男の人だっけ? 実加」
「え? あ、うん」
加奈子と実加が桜に問いかけようとしたその瞬間。
「ちょっと通してもらっていい?」
優しく響く、声。
男性にしては遠くまでよく通りそうな、聞き取りやすい声。
そして、実加の斜め後ろに感じる、やわらかな気配。
「あっ……すみませんっ!」
体育館の入り口をふさいでいることに気付いた実加は後ろの男の声に慌てて道を空けようとした。
その瞬間――。
「あれ? 見慣れない子だねー。もしかして、男バスのマネージャー希望者、とか?」
横を通り過ぎようとした男が、制服姿の実加の顔を覗き込んでやわらかい笑顔を作る。
その笑顔は、あの日と同じ。
実加が恋に落ちた、あの瞬間と同じもの。
「……っ」
「橘くん。その子は違う違う」
目の前に迫る整った顔の男に、実加が思わず酸欠になりそうなぐらい口をぱくぱくさせていると、向かい側にいた桜が脱力した感じで口を開く。
「おー。上條さんじゃん。久しぶりー。あー、違うんだ。残念」
橘くんと呼ばれた男は、桜の言葉に小さく肩をすくめてから、手に持っていた大きなスポーツバックを肩に担いで実加と加奈子に向かって魅力的な笑顔を作る。
「ま、また気が向いたら男バスも見に来てねー。女子マネ随時募集中だから」
そう言ってひらひらと手を振って去っていく後姿を見ていた実加は、思い出したように深呼吸をする。
しばらく、息をするのも忘れていたかのような、そんな気がした。
心臓が、痛い。
胸が、苦しい。
顔が火照って、見開いていた目が乾いている。
このキモチはなんだろう。
自分の体がいうことをきかなくなる。
体が、呼吸の仕方を忘れる。
目が、彼を追っていく。
もう、彼しか見えない。
彼しか、目に入らない――。
「今の人、桜先輩のお知り合いですか?」
ぼんやりと彼の後姿を目で追う実加の隣で、加奈子はほぅ、とため息をついて桜に話しかける。
「うん。一年の時のクラスメイト」
「なーんか、すっごくカッコイイ人ですねー」
「そうだねー。橘くんは確かに入学した時からすっごいモテてたよ」
「今の人、たちばな先輩っていうんですか?」
加奈子の問いかけにうんうん、とうなずく仕草で返事を返す桜に対して、急に実加がぼんやりと話しかける。
人見知りが激しく、初対面の人とはなかなか上手く話せない実加の性格を考えると、信じられないほどの積極さだ。
「そうそう。橘徹平くん。私と同じ二年生」
今までおとなしかった実加が突然口を開いたことには特に気にしない様子の桜は、そう言ってにっこりと笑う。
「たちばな……てっぺい、さん」
桜が口にした名前をゆっくりと繰り返して、実加はもう一度徹平が向かった男子バスケ部のほうへと目をやる。
そこでは、ジャージ姿に着替えた徹平が黒縁眼鏡の真面目そうな男と柔軟運動をしていた。
「あーっ!!」
ぼんやりと徹平の姿を目で追っていた実加を不思議そうに見ていた加奈子は、突然大きな声を出してにやり、と笑う。
その表情は、何か楽しいことを見つけたときの笑みだ。
「わかったっ! 実加のスマイル君って、今の先輩のことなんだっ!」
「わわわっ! 加奈ちゃんっ!!」
「スマイル君?」
「実加がこの前恋に落ちた相手なんですよーっ」
加奈子の暴走を慌てて止めようとした実加だが、時すでに遅し。加奈子は持ち前の大きな声で不思議そうに首をかしげている桜に実加の気持ちを公表する。
「恋?」
「そっ。恋ですよっ。こいっ! ラブなんですよーっ!」
「加奈ちゃんっ!」
人差し指をちっちっと動かして楽しそうに笑う加奈子の口を慌てて両手で抑えて、実加は桜を振り返る。
「あ、あのっ! ちがうんですっ。そうじゃなくって……」
「ぷっ……ぷははっ!」
口を抑えられてもがもがと苦しそうにしている加奈子と顔を真っ赤にして口をパクパクさせている実加を見比べて、桜は思わず吹き出す。
「そんなに焦らなくてもいいよぉ。橘くんに一目ぼれしちゃう女の子ってすっごい多いから。あ、でも――」
ふふふ、と笑いつつ実加を安心させようと優しい言葉をかけていた桜は、そこで口を閉ざす。
「ふがっ! はぁはぁっ。もー、実加ってば相変わらず力強いんだからー。え? 桜せんぱい、どうかしたんですか?」
実加の手から逃れた加奈子は、ちょっと困ったような顔をしている桜に向かって無邪気に問い掛ける。
加奈子のその言葉に、桜は何かを言いかけてもう一度口を閉ざす。
「え? もしかしてあの先輩、もうすでに彼女さんとかいらっしゃったりしちゃうんですか?」
「加奈ちゃんっ。もういいよ」
彼女、という言葉に、実加の心臓がドクンッと動く。
広い背中。優しい笑顔。
特別な人が、いて当然なぐらい、あの人の空気は果てしなくやさしい。
むしろ、守るべき人がいるからこそ、優しくなれるのかもしれない。
「うーん。彼女……じゃないんだけどね。果てしなく彼女っぽい単なる幼なじみがいるんだよねぇ」
加奈子のその言葉に、桜は言おうかどうしようか悩んでいた言葉を口にする。
「幼なじみ?」
「そ。その子がすっごい意地っ張りだからねー。私たちから見れば、付き合っちゃえばいいのにーっていうぐらいの距離なのに、なかなか上手くいかないみたいよ」
桜の言葉が、実加の脳を通過していく。
彼女のような距離にいる、幼なじみ。
あの人のあのやさしい笑顔は、その幼なじみに一番たくさん向けられているのだろうか。
「そうなんですかー……。あ! でもっ! まだ彼女さんってわけじゃないんだから、実加が入り込む隙だってあるはずですよねっ!」
桜の言葉にまるで自分のことのようにしょぼんっとしていた加奈子は、つと顔を上げて、拳を握り締めて力説する。
「加奈ちゃん……」
「うんっ! がんばろうよ実加! せっかくスマイリィーくんの正体がわかったんだから。ここであきらめたら駄目だよっ」
実加の恋を、まるで自分のことのように応援する加奈子。
そんな加奈子の言葉に励まされるように、実加は小さく微笑みつつ頷いた。
優しい微笑み。広い背中。
実加をかばう大きな手のひらに少し高めのやわらかい声音。
やっと見つけた大切な存在。諦めるにはまだ早すぎる。
たちばなてっぺい、さん
桜が教えてくれた名前を、実加はしっかりと胸に抱きしめた。
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