2.気づいたときにはもう手遅れで

 少しずつ空から降ってくる日差しが強くなる五月。

 いつものように朝の通学路を歩いていた実加は、視界の中に飛び込んできた見覚えのある後姿に思わず息を止めた。

 すらりと伸びた身長。

 広い肩幅。

 頭に響くのは鈴のような音色。

 体育館の床に響く、ボールの音。

 浮かび上がった記憶の中には、ボールにぶつかりそうになった実加をかばってくれた大きな手のひらに優しい笑顔。


 ――あの人だ。


 大きなスポーツバッグを肩に担いで眠そうに歩いているその姿すらかっこよくて。

 後姿を見つけただけで、実加は自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 ドキドキドキドキ。

 わけのわからない嬉しさがこみ上げてくる。

 なんだろう。

 このキモチはなんだろう。

 あの人の後姿が見れただけで、なぜ自分はこんなにも嬉しいのだろう。

 このキモチがなんだかわからないけれど、それでも瞳は彼を追い続ける。

 人ごみにまぎれそうになりながら、時折見せる少しやんちゃ風の笑顔。

 その笑顔に、胸の鼓動がさらに早くなるのを実加は確かに感じていた。






「え? 男バス所属で広い背中と優しい笑顔の人? 何よそれ」

 実加が体育館で笑顔が優しい彼と出会ってから一週間。

 意を決して中学時代からの友人である女子バレー部所属の加奈子に彼のことを聞いてみると、間髪入れずに冷たい返事が返ってきた。

「何って……加奈ちゃん知らない? 男子バスケ部と練習よく一緒になるんでしょ?」

「知らないわよ。イチイチ横でやってる別の部員の顔なんて見てないもの」

 実加が一年分の勇気を振り絞って聞いた質問に、加奈子は興味なさそうに返す。

 おとなしくて内気な実加にとって、大雑把で思い込みの激しい加奈子に落ち着いて話を聞いてもらうのは至難の業である。

「何よ、その男バスの人に用でもあんの?」

「……べつに、そうじゃないけど」

 加奈子の言葉にもごもごと語尾を濁して実加はうつむく。

 そんな実加の様子を見ていた加奈子は、ふと思い出したように手を叩いた。

「あー! さては実加ってば!」

「えっ?」

 にやりと笑って大声を出す加奈子に実加は思わず慌てて止めようとする。

 折りしも場所は二人の所属している一年二組の教室内。

 ホームルームも終えて下校している生徒もいるとはいえ、まだクラスメイトの大半は教室に残っている。

「私の好きな人を探ろうとしてるでしょーっ」

「……ち、違うよ」

 加奈子の言葉に思いっきりがっくりと肩を落とす。

 相変わらず見事なボケっぷりである。

「加奈ちゃんの好きな相手ならバレバレじゃない。一組の佐々木くんでしょ? 入学した時から聞いてるのになんで今更その話題なのよ」

 実加の言葉に出てくる『一組の佐々木くん』とは一年生でありながらすでにバスケ部のエースとして活躍している運動神経抜群の男子である。ただし、頭のほうはからっきしだが。

「なーんだ。じゃぁなんなのよ」

「なんなのよって言われると困るんだけど……」

 あっけらかんとした加奈子の言葉に実加はもごもごと口ごもる。

 せっかく引っ張り出した勇気がしょぼしょぼとしぼんでゆく。

 基本的に自分から人に気持ちを打ち明けるのが苦手なタイプなのだ。

「はっはーん」

 もごもごと下を向いて口を閉ざすおとなしい内気な友人の様子にようやく気づいた加奈子が、にやりと少しいやらしい笑い方をして言葉を続ける。

「もしかして、一目惚れしちゃった、とか? その男バスの男子に」

「……」

 加奈子のその言葉に、実加の中でふわふわとしていた気持ちがストンッと定位置に落ち着く。

 一目惚れ。

 それは、たった一瞬の姿に心を囚われること。

 何気ない仕草が、優しい笑顔が、まぶたの裏に焼きついてはなれないこと。

 そんな状況を一目惚れというのなら、確かに実加はあの瞬間一目惚れをしたのだろう。

 名前も知らない、あの人に。

「なるほどなぁ。そっかぁ。あの実加がとうとうねぇ」

 自分から視線をそらして黙り込んだ友人をニヤニヤと見ていた加奈子は、ふぅん、という表情で言葉を続ける。

「で? その男バスの奴って誰なのよ?」

「それを聞いてるんだってばっ」

 実加のツッコミに加奈子は小さく「あ、そっか」と応える。

「うーん。背中だの笑顔だの言われてもピンっとこないなぁ」

 そう言って、加奈子は考え込む。

 内気な友人のはじめての恋なのだ。どうにかして応援してあげたい。

「あ! そうだっ」

「え? 何?」

 むむむ、と考えていた加奈子は、ポンッと手を叩いてにやりと笑う。

「今日は体育館使用が男バスと一緒だから、これから実加も一緒に行こうよっ」

「えっ?」

「私が知らなくてもうちの先輩なら知ってる人かもしれないし、やっぱり現物見なくちゃ話にならないでしょ?」

 そう言って加奈子はにやり、と笑う。

 実加の初恋の君のことを『現物』扱いなのもどうかと思うが、これも加奈子なりの応援なのだろう。

「でも、なんか恥ずかしいよ」

「何言ってんのよっ! 実加ってばどこの誰かもわかんない人をずぅーっと好きでいる気? いーじゃんっ。もしかしたらお近づきになれるかもよ?」

「そうかもしれないけど……。部員じゃないのに体育館に行くのも」

「何いってんのよっ! この前、そのなんだっけ? 笑顔の君? と出逢った時には覗いてたじゃん」

「そりゃそうだけど」

 もごもごと言い訳をする実加の腕を引っ張って、加奈子はどんっと自らの胸を叩く。

「この加奈子さんにまかせなさいってっ。ちゃーんとそのスマイルくんを見つけ出してあげるからっ」

 ……スマイルくんって誰よ。

 実加は心の中で呟きながら、なぜか楽しそうにうきうきしている友人をちらりとみて大きくため息をついた。



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