道川盛行

66 道川盛行

 夕方になり、小説を書くのを止めた。今書いているのは二つ出ている長編シリーズの最新作だ。長編は長い期間で書かなければいけないため、書きにくい。短いのは一気に初めから終わりまで駆けて行けるが、長編はそうもいかない。途中で必ず筆を止めなければならない。

 夕食はパスタを茹でて、トマトソースを大量に使いナポリタンにした。神保町にあるものよりおいしくはないが、まずくもない。胃袋を満タンにすると浴室に行って風呂に入る。また鈴野千香の幻があるが無視した。あの背中も何度も見れば飽きが来る。永遠の美しさなどないのだろう。ミロのヴィーナスだって見慣れればただの石で、小説も飽きられればただのインクの染み。

 風呂から上がった後はリビングでテレビを見た。好きなタレントはいなかったが、暇つぶしにはなった。

「きみがお笑い番組を見るのは意外だな。政治の討論番組とか、ニュースしか見なそう」

 なのに。と言い、男は笑った。ソファーの隣には、またあの男がいた。座っていた。

「不法侵入で訴えますよ」

「警察が来る頃には僕は消えてるさ。そして警察が去ると、また僕が現れる」

 違和感。

 彼は思念をめぐらせ、粘土をこねるように大事にする若者のように指をもじもじとさせていた。

「……僕?」

「ふふっ、小説家だね。一人称に厳しい。どうしたい。さっき僕が『俺』って言ってたから、僕って言うのは可笑しいのかな」

 彼の言う通り、小説家だからこそ気付いたのだろう。そして態度も変だった。さっきは大層な態度を取っていたのに今では繊細に見える仕草だ。ホストのようにも見える。前は大王で、今はホストか。

「あなたも幻ですか」

「人間がいきなり消えるはずないでしょ。小説じゃあるまいし」

 それもそうだ。

「あなたも……誰かの物語なんですか」

「そうとも言える。そうでないとも言える」

「中学生が好きですよね。そういうふうに、肯定したり、否定したり、するの」

「別に……実際にそうだから言っただけさ」

 失礼だな。と、彼は言った。

 僕への仕返しか彼は煙草に火を点けた。煙を吐いたが、それからは煙草特有の嫌なニオイが臭ってこなかった。

「きみは煙草が嫌いなんだっけ」

「嫌いって言ったら止めてくれますか」

「僕は好きだからいいの」

 中身は先ほどと変わっていない。身勝手な男だ。

 煙草をペンのようにペン回しをする。実物だったら灰が飛び散る迷惑行為。だが幻は気にしない。

 それに、どうせ臭って来ないでしょ。副流煙にだってならないよ。大丈夫、と男は言った。

「あなたは一体何なんですか。前と前々の幻にはこんなことありませんでしたよ」

 少なくても、話しかけてくるのはなかったと思う。

 ――それに近いことはあったが、しかし、ここまで積極的に語ってくるのはなかった。

「正確には、僕にも意志がちゃんとあるわけじゃないけどね。……そうだね。僕は、もう一人のあいつと言えばいいのかな」

「……もう一人のあいつ?」

 誰の。

 いや、答えは分かっているはずか。

「道川盛行」

 やっぱり。

「あいつは役者のように主人公にダイブするタイプでね。色々な性格、人種、国の、男や女、若い奴や老いた奴、やっていくうちにこんなふうになってしまった。僕は、いや僕らは彼の歩いた道筋の落とし物さ。彼が役に成りきろうとした結果から彼の一部でもあるし、彼の一部でもない。僕らはおかげで意志のようなものがあるけど、だからって自由なわけじゃない」

「どういうふうに不自由なんだ」

「今ここでしゃべっている僕は先ほどの僕とは違う僕ということ。きみの前に幻として現れる度に生まれたり、死んだりしているということさ。記憶はあるけどね。でも、まあ、生まれたり、死んだりは変か。そもそも、これはきみが勝手に見ている幻の可能性もあるよね。本来、僕なんていないけど、きみが勝手に勝手に見ちゃってたり」

「……僕が狂っているだけなら、とても助かるけど」

 でも、そうじゃないだろ。

 お前が、よく知ってるはずだろ。

「なあ……お前らは一体何なんだ。叔父が言っていた通りに、想像の零れカスなのか」

「幻にお前は何で幻なのって聞いてるのか。じゃあきみは何で人間なの。という問いに答えられるのかな。……まあいい、多分だけどね。僕らは小説家たちが見ている夢なんだと思うよ」

 夢。

 夢、夢。

 ――夢?

「僕は起きてるぞ」

「きみは目を覚ましているときに小説を書くだろ。だから、夢を現実で見るようになったのかな。きみらにとって……いや僕もか。ふふふっ、……僕らにとって小説は明晰夢さ。これは夢だと知覚し、自由自在に物語を変えられる」

 これは小説だと知覚し、自由自在に物語を変えられる。

「しかし、他人が見た夢を僕は見ているぞ」

「夢は誰だって見れるものさ。ほら、だって物語は誰の耳にも届くだろ?」

 言葉が通じれば。物語を認識する知能があれば。誰だって物語を聞ける。

 そうやって夢は分散し、感染し、増殖する。

「まあ、こんなのはただの言葉遊びだけど……でもね。もしくは、誰かの夢に紛れ込んだとも言える」

「ここはお菓子の家なのか」

「食べられないよ。それに、きみは誰もいないだろ」

 否定された。徹底的に。

 きみにはグレーテルなんていないのだと。

「小説家は夢を見る野心家さ。夢を見る。叶えるためには何でもする、ね。執筆して、物語を作る。夢を作る。見る。その夢は誰の目にも映る。そして夢は誰にも壊せない。作った本人で、さえだ」

「だが、鈴野千香はもう死んでいるぞ」

 彼女は自殺した。

「そこら辺は魂が生きてるから。とかじゃない? 言っておくけど、これは僕の仮説であって事実じゃないからね。どこかに欠点はあるはずさ。そこは目をつぶってくれよ。僕はただ言いたいだけなんだから」

 幻は消えた。

 会話の途中、まだ話は終わってないのに、話したいことがあっただろうに、彼は消えた。

 夢が覚めたのだろうか。夢を見る人物が、夢明かしをしてしまったから。



 それから二日後、ある人物から電話が掛かってきた。

「初めまして、道川盛行と言います」

 夢を見ている人物から電話がかかって来た。

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