Ⅲ
65 七月九日 ……誰?
七月九日。晴れた。
昨日は雨がひどかったから、今日は酸素が水を吸って光の通り道にフィルターを掛けている。窓から零れる陽射しが、どこか散漫としている。
湿気がある中で太陽が輝いているからか。空気が沸騰しているような気がする。朝から暑く、目が覚めたときには体は気持ち悪い汗をかいていた。半身を起こし、運動不足の足をほぐしてから足を床に着けた。
浴室に向かい、シャワーを浴びる。汗を流しきった後は林檎の皮を剥き、テレビのニュースを見ながら食べた。有名な歌手が死んだようで、生前のライブ映像が映っていた。僕は音楽に詳しくないが、そんな僕でも名前は知っている人だった。
知っても、知らなくても。
人は死ぬ。
林檎は囓ると水分が弾けた。甘みが含まれていて頭の栄養になりそうだった。視線があった。それは、傘頭が書いた小説に出てくるロボットで、僕のことをずっと見ていた。何だろうなと思っていたら、いつのまにか消えた。ここの幻は勝手だ。
二個ほど林檎を食すと書斎に行った。一日のほとんどはここで過ごしている。また名前の知らないレコードをターンテーブルにセットし、鳴らした。聴いたことのあるような曲だった。確かバッハだったか。叔父は演奏者のことも気にしていたので、同じ曲でも何枚も持っている。音楽に疎い僕にはどれも似たように思うが、叔父はそうではなかったらしい。
書斎にあるコーヒーメイカーでコーヒーを煎れる。机の引き出しにはいくつか買っておいたチョコレートがある。それを食べながらコーヒーを飲む。鈴野千香の影響か。僕は執筆を始める前に、チョコレートを食べる習慣を身に付けた。僕は人に影響されやすい人間だ。性格もそうだし、行動もそう。僕の小説だって、今はどうにか個性という武器を手に入れたが、昔はひどかった。色々な作家の文体に影響を受けていた。川上未映子の長すぎるソバのような文体は彼女しか使いこなせないもので、僕には無理だった。しかし、ああいう才能の塊との出会いは無駄ではなく、僕にとって何かしらの良い影響はあるはずだ。村上春樹は勉強にもなったが、呪縛でもあった。書き始めたばかりの頃は、彼の文体から逃れるために、たくさん小説を書いた。しかし、書けば書くほど村上春樹の偽物で、劣悪品で、ブサイクだった。自分だけの小説を会得するために、どれだけ書いただろう。どれだけ読んだだろう。いや、正直言うと未だに抜けだせてはいないのだが……。
叔父が同じ曲でも違う演奏者で違いを見つけたように、僕も小数点をつけることで読者に違いを提示することができた。それは僕に足りないものばかりだったが、どうにか個性と呼べるものだった。
あらゆる小説を読んだ。川上未映子や大江健三郎のような純文学や、アガサ・クリスティーやジェフリー・ディーヴァーのようなミステリー、神林長平や筒井康隆のようなSF。名作と呼ばれる小説は手当たり次第読んだ。海外文学も関係ない。どの国だろうとひたすら呼んだ。いや、僕ごときの若造の読書量と思われるかもしれない。だが、それでも僕なりに読んできたんだ。イタリア文学のイタロ・カルヴィーノだって読んだことあるし、スペイン文学も『黄色い雨』は好きだ。世界傑作文学一○○にも選ばれたし、ノーベル文学賞も取った偉大なる作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの本も読んだ。
しかし、このような努力をするのは僕だけじゃない。むしろ、僕の努力が努力にならないほど、もっと努力をしている人もいる。だけど、小説家になれない人もいる。
何故、そのような人は小説家になれないか。僕がその人よりも先に、小説家になれたのか。それは才能と言う言葉で片付けてしまっていいのだろうか。
僕は、違うと思う。
しかし、同じ努力の質でも努力によって得られる〝力〟というものは、人によって違うだろう。それは、才能なのか?
いや、そんなもの比べて何になる。例えば僕に百回スポーツ観戦しろとなっても、それで僕以上に効果が出る人はいるだろう。僕にとっては何の効果も出なそうだが……才能なんて、才能って……一体何なんだ? まるで、洗って洗っても落ちない汚れのような。
呪縛?
ふざけるな。長い髪の毛のようにずっとまとわりついてきて、お風呂に浸かっても、走っても、ずっと体に巻き付いてくる。嫌だ。本当に呪いみたいじゃないか。そんな、わけの分からぬものでずっと見定められるのか?
観測されなきゃいけないのか?
ふざけるなっ。
小説家になって、僕は両親にも報告したし、友人たちにも……数人には話した。必要以上に話したりはしない。友人に話したとき、三人目でようやく気付いた。勘違いな嫉妬ほど、苛々するものはない。よかったねと褒められるのは嬉しい。けど、いいなあと羨ましがられるのは心外だった。
僕はその結果を無料で得たわけじゃない。それなりの代償。
努力。
それをしたつもりだ。他人から自分の努力の報酬を『いいなあ』と羨ましがられるのは、僕の努力を否定されたと同じことだ。同じだ。まるで僕が、何もしてないのに空から金が落ちてそれを拾ったかのような、そんな顔をする。
努力が無駄になるほど悲しいものはないが、……努力が実って結果を生み出しても、誰もその努力を知らないなら、……それもまた、努力が無駄になったと言えるのだろうか。
「悩んでる。悩んでるなあ、青年」
男がいた。僕は動揺することなく、人間が呼吸するのと同じくらいの日常だと認識していた。どうせ、幻。ただの映像。幻覚。
僕は無視した。
彼は僕と同じように椅子に座っていた。僕は叔父が使っていた革製の椅子だが、彼はパイプ椅子に座っていた。そんな椅子じゃ長時間座ると痛いだろうに、しかし男は満足そうに座っていた。
右足は左足の上に、かけていた。背中は背もたれにどっしりと乗せて、僕よりも我が家の主という顔をしている。
髪はくしゃくしゃで、一本一本があらゆる方向に流れている。なのに、顔は清潔感漂う綺麗な肌で、鼻筋も高く、僕よりも女性を口説くのが上手そうだ。
「お前だよ。お前。お前のことだよ、青年」
着ている服は黒のジャケットに、黒のパンツ。インナーは白いシャツで、暑ければ上着を脱げばいいのに、首元のボタンは開かれていた。
「よう、紫剣吾」
男は、僕の名前を口にした。
今までと違う幻。僕と対話をしようとする。……本当に、幽霊が現れたのだろうか。動揺をしてこなかった僕はどうすればいいか分からず、ただ彼を見つめていた。
「どうしたよ。俺がそんなに珍しいか。他にも幻は見てきただろうに」
「……話が可能な幻は幻と言えますか?」
「言えるさ。だって、俺には実体がない」
そして姿を消した。
パイプ椅子も、男も、一瞬の気配もなく消えてしまった。慌てて男がいた床の上を探るが、パイプ椅子の跡も見受けられない。
「今度は……誰だ」
初めての事態に困惑する。いや、幻が現れることも確かに驚くべきものだったが、しかし、これは異例中の異例だ。そもそも、あれは幻か?
幽霊。初めてオカルトのような言葉を信じた。今までは妄想や幻覚で、まだ。――まだ、解決出来る範囲だったはずだが、いやきっとそうだ。今回はどうなる。どうなるのだろう。前だって幻覚じゃ片付けられない部分があったが、どうなる。今回は、どう自分に言い訳すればいい。
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