58 七月六日
七月六日。
朝起きると、久々に漫画本が読みたくなったので適当にダンボールにしまっておいた中から数冊取り出す。
僕は漫画を読まないでフランスの哲学書を読みふけっていそうと言われたことがある。そのとき僕ははてなマークを浮かべて、首を傾げて、目を点にしたのだが、インターネットの評判もどうやら同意見らしい。僕はフランスの哲学書を読みふけって、コーヒーを飲んで、女性と語るときも滔々と衒学的なことを語ると思われているらしい。チーズフォンデュのように、フランスの哲学に浸した知識で、語る姿か。そんな鳥をもしかしたら誰かが描いてるかもしれないが、僕にその自覚はないし、あーそうですかと僕は言わざるをえない。だが、周りの意見はみんな同じだ。僕をそういう目で見ている。僕は、周りが描いたそのイメージから抜け出すことはできなそうである。一度、女性誌に哲学について語ってくれませんかと依頼されたことがあるが、まず僕は小説において哲学なんて語ったことはないし、語るほどくわしいわけでもない。多少なりとも哲学書を読んではいるが、それは小説家としては基本知識のようなもので、多分褒められるほどくわしいわけじゃないだろう。チーズフォンデュだったら、先っぽもチーズがつけられてない状態だ。
「………」
読んでる漫画は、岡崎玲子の『陰陽師』。原作は小説だが、ある意味で原作を越えた作品である。いや、原作ももちろんいいのだが、違った色合い、岡崎玲子しか描けない『陰陽師』を描いている。知識が水が流れるように、頭の中に染み込んでいき、いつのまにかこちらを幻想の世界に引っ張っていく感覚。
「……ふぅ」
僕はふと顔を上げた。
読んでいたのは、館のリビング。革張りのソファーに座って読んでいたら、目の前には傘頭の幻がいた。
相変わらず逆さにした鍋頭で僕を見つめている。
「………」
この男――いや、この幻覚といっしょにしていいのか分からないが、傘頭という小説家は僕なんかとは違い、すごい評価されている。叔父の弟子とはいえ、僕からしたら大先輩で大御所なので、当たり前なのだが、この人の場合は僕のように衒学的と言われることはない。気どったとこも、キザと言われることもない。フランスの哲学書をぺらぺらと語るような狂った鳥のように言われることもない。
むしろ、この人は自分の中にあるものをありのまま描いてる――それで、SFになるのだからすごい。彼は深い哲学を語る、だがそれでフランスの哲学書うんたらかんたらを言われることはないし、気取ってるとも言われない。むしろ、ボロ布をまとってブラブラしてるようなイメージすらある。これだけ大御所なのにだ。やることはデタラメなものばかりで、茶道の茶室で戦争を描く『千の0』や、立ちションした先でタイムスリップする『きみの彼方』、歴史上の革命家を集めてファンタジーの世界で革命させようという『2+2=2000』、彼の中ではまともに見えるロボットが宗教を作る『アノニマス』や、他にもブラック企業や日雇い労働者を題材にした『名前のない屍』、彼は僕と似たようなプロセスをいくつも通ってるはずなのに、僕とは決定的に違う。
小説を書くとは、雪山で一人になって全裸になるようなもの――か。
本当にそうなのだろうか。
僕は、小説を書けば書くほど、僕が買ったことのない服を着せられてる気がする。
いや、僕が感情の発露として書いた小説がその結果を生むのだから、僕が望んでいたことでもあるのかもしれない。でも、僕はそれを買った覚えはない。クレジットカードを不正利用された気分なのだが、僕は常に妙な服を着ている感覚だ。
こんなもの、僕は着るつもりはなかった。
それは制服のように窮屈なときもあれば、前衛すぎて変態にしか見えない服、逆に洗練されたものもあれば、シンプル過ぎて安い服にしか見えないもの。多種多様だが……どれも、手放しで喜べるものはなかったな。
「………」
この前、女性編集者との打ち合わせで、つい愚痴を吐いてしまったことがある。
僕の書く小説は偽善的ですかと。
たまに、そういう評判を聞くのだ。
あなたは、悪者になりたくないから正論をオブラートに包み込んで反対論者にも聞こえのよいように語ってる気がすると。
だから、聞いたのだ。
そのときの編集者は素直だったので、あっさりと答えてくれた。
「あー、女性を描く際もちょっと逃げながら書いてますよね」と。
女性に対してフェミニストでも、紳士でもないくせに、女性に対して真摯で優しいですよとアピールしてる……と、ネットでは書かれていたか。
「………」
その通りかもしれない。
僕は、ときおり髪をかきむしりたくなる。衝動で。
全ての毛根を抜いて、便器に入れて捨てたくなる。
「……じゃあ、どうすればいいんだ」
どう、描けばいいっていうんだ。
僕には分からなかった。
ありのままで描いてこれなのだ。僕は生来の嘘つき、気取り屋なのかもしれない。『人間失格』よりタチが悪い。しかもあの小説にはそうなる理由があったが、僕には理由なんてない。
理由は、ないのだ。
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