59 七月七日・七月八日

七月七日。

 この日はとくに何か記憶はない。仕事をしたような気もするし、ただ寝ていただけのようにも思える。とくにない。

 七月八日。

 朝、目が覚めるとトーストを食べて、書斎に行くとレコードをかけて執筆しはじめる。

 今日聴いたのは吉田秀和が本の中で賞賛していたものだったか。僕は何か創作物をかじるときに誰かの声を聞くことが多い。誰かの評論を聞くことが多いのだ。その方が手っ取り早く、案内役として最適だからだ。

 しかしそれは、本当に良い行為かは分からない。

 何も知らない素人からすれば、案内役を見てから判断してもいいとは思う。

 だが――だが僕は、小説家ではないか。

 どこがどうなってるか分からぬ密林をさまよう楽しみを、僕自身が与えるべきじゃないのか。読者に教えるべきじゃないのか。そうでないと、消えてしまう名前はいくつもあるんじゃないか。それを僕が体験しないで、誰が体験するというのか。

「………」

 ある程度執筆してると、煮詰まった。今回は調子が悪そうだ。

 電波が届きにくいラジコンを目にするより、うまく小説が書けない僕はみじめに見えるかもしれない。鏡で見たら何て顔をするだろう。ショックか、それともざまーみろか。自分に言うかもしれない。

「……何だよ」

 また、傘頭の幻が見えた。

 相変わらず、鍋を逆さまにしたような幻。

 何で、こいつは僕が会いたくないときに限って現れるんだ。

 見たくないときに限って、こいつは出てくるんだ。

「いいよ、分かったよ」

 ちゃんと、お前と向き合わなきゃいけないんだろ。

 僕は唇を噛みしめる。

「最後まで読めばいいんだろ」

 本当に相手がそういう意志を込めたのかは不明だ。

 だが、今の僕にはこれが絶対的な真理のように思えてしょうがなかった。

 仕方がないのだ。

「………」

 僕は、再び傘頭の部屋に言ってあの小説を読むことにした。

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