57 七月五日

 七月五日。

 濃厚で激情をメイプルシロップのようにかけた小説を読むより、傘頭の方がある意味では刺激的だった。だがそれは、綿密に組み立てた回路に水を垂らされたかのような理不尽さだ。こっちが必死に読めば読むほど、あちらは無気力の体で僕をからかう。仙人か、悪い妖精にたぶらかされているかのようだった。一種のアルコールかもしれない。気がついたら、それに酔っていて足下はふらつき、彼の本を読み進めて――だが、結局は途中で顔を上げた。

 あの活字の海から、上がってしまったのだ。

 とくに後悔はしていない。

「………」

 起きた。

 今日も朝から暑い。最近は異常気象だ異常気象だと壊れたラジオのように言われるが、暑くはなっても寒くはならないらしい。夏のたまの一日ぐらいはロシアの気候と仲良くすればいいのに、天気というのは融通が利かない。僕が中学生だったら日本の外交官みたいだねと侮ったことを言うのだけれど、名門大学を首席で卒業してそうな面々がやって現状なのだから、それ以外がしたらどうなると思うと何も言えない。

 いや、こういう考えはよくないんだろうけどね。

 僕はキッチンに行き、冷蔵庫を開けて中を確かめる。

 一〇〇円の牛乳や、適当なお総菜、コロッケやら焼き鳥。他には、納豆、キムチなど――一人暮らしの男らしいものがちょこちょこ置いてあった。子供の勉強道具の方がまだ整理整頓され、必要なモノも取りそろえてあるだろう。

 僕は何か――何か――と、探すと、食パンを見つける。卵もあるし、牛乳もある。フレンチトーストでも作ろうかな。

 食材を全部出して、フライパンなどの器具も出して、調理を始めた。フレンチトーストで調理というと、ちゃんと料理を作る人には冷笑されるかもしれないが、僕のなんてこの程度のものだ。料理に興味がないんじゃなくて、食欲がいつも適当なんだ。学校に行く行かないを繰り返す駄目な子よりもタチが悪い。何だかさっきから、子供を連想した比喩ばかりだな。

 フレンチトーストを焼くと、白い陶器の皿に載せて箸で食べた。

 わざわざ料理の着物を上品にしてみたのに、箸で食べる辺りが僕が僕らしいと思う瞬間である。花火を打ち上げておいて、それを写メで撮り、肝心の眼はろくに見てないというようなオチだ。

「………」

 白い陶器は、どこかのデパートで買った。あまり高いものじゃない、むしろ値札は誰でも買えるような値段を提示していた。僕は迷わず買った。それぐらい楽勝さと自慢するわけじゃない。そして、あらかじめ言うが本当のことだ。僕は、それが本当に欲しかったのだ。

 この、白い陶器。

 ぶつぶつと、多少黒い点が浮き出ている。それが、とても自然らしく。どこか、食器でありながら妙な神秘さを感じさせる。その上にフレンチトーストを置くと、祭壇の供物みたいだ。それを箸で食べると神事か。

 僕は無音が気になり、ブライアンイーノの環境音楽をかけた。iPhoneから流れる、孤独な曲。耳につんざくロックではなく、心につんざく音。音楽ではなく、これは音であった。水の流れや、風の音を聴くような感覚。多分、楽器で流されてるのだろうが、それは自然の効果音のように何気なく僕の隣にいて、それでいて音楽のように熱狂させることはなく僕に現実を見せつける。

「……ここでは、現実より幻を見ることの方が多いかも」

 しれないけどね。

 傘頭の幻覚。

 そして、鈴野千香の幻覚がいた。

 傘頭は相変わらず鍋を逆さまにした頭で僕を見つめる。鈴野千香は、裸でテーブルの上に体育座りをしている。これだけだとホラーだが、彼女の悲しみを知っていると叙情詩に描かれた一枚絵にも見える。皮肉にも、僕はこれを美しいと感じてしまった。彼女の顔はひざにくっつけられて見えないのに、これが見えたらホラーかもしれないのに、僕は微笑を浮かべていた。趣味が悪いか、心が最悪なのか。

 僕は音楽があまりくわしくはない。叔父は人間としては最悪だったが、音楽の趣味はとてもよかった。音楽にあまりくわしくない僕が叔父を人間扱いしてない僕が、これほど言うのだから叔父の音楽の趣味だけは立派なものだろう。あと、小説家としての才能も。あの音楽は叔父が僕にとっては銀河系のように途方もない世界から選んできたものなんだろう。そんな大事なものをどうして叔父はここに放っておいたのか。いや、もしかしたら僕がすごく良いと思うだけで、叔父にとってはそうではなかったのだろうか。

「………」僕がブライアンイーノを聴いてるのはたまたまだ。

 たまたま、テレビで環境音楽を聴いてると言った芸能人がいて、そうか、環境音楽っていいのかと素直に受けとめたのだ。そして、調べてる内にブライアンイーノを知って、虜になってしまった。何が良いとか、そういう理屈ではない。水の流れや、風の音を好きか嫌いか、芸術性があるかどうか、で語ったとしたら馬鹿馬鹿しいだろ。僕にとって、ブライアンイーノの曲はそういうものであった。僕にとって、この孤独で心に来るような曲はそういうものであった。

 寂しい曲がキッチンの中でひびく。

 これが映画だったら、僕は猟奇的な殺人鬼で、だから鈴野千香や傘頭の幻を見るのだということになりそうだが、そうはならない。Jホラーのように理屈があるわけでもなく、アメリカのホラーのように暴力的でもない。怪談のように湿気のあるものでもない。むしろ、乾いている。いや、水っ気もあるのだ。それなのに、妙にここの館の幻は乾いている。まるで、池から這い上がった昆虫のような……その、行く末のような……。

 伝えたいのか、伝えたくないのか。

 何がしたいのか、したくないのか。

 コミュニケーションが下手な異星人と話してるかのようでもある。

「………」

 まるで僕のようだ。

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