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現実の世界にもどってくる。
鈴野千香のときと比べたら、サイズの合わない穴から抜け出すような窮屈さは感じられなかった。むしろ、案外すんなりと現実世界にもどれて、僕はこの小説はやはりこんなものだったのかなと――思った瞬間、ズシッと何かに引っ張られる感覚が襲う。
糸。
クモの巣に引っかかり、獲物は逃がさないぜと引っ張られるような感覚が一瞬だけ感じられた。幻覚か現実か、この頃区別がつかなくなった僕にとっては命に関わるほどの恐怖で周りに誰かいたらのちに赤面してしまうほどの絶叫をしてしまう。
沈黙……。
しばらくしてようやく、僕は完全に現実にもどる。
意識が――感覚が――自分が、呼吸しているんだと気づき、「はぁっ……はぁっ……」そして自分の身体のあちこちをさわる。恐怖が突如現れ心臓を抉ってきたので、目尻には涙も浮かんでいた。
「……は?」
おそらく、傘頭の小説を読んだときの、僕の感想はこの一言にまとめることができる。
は? なのだ。
正直、読んでいて全く意味が分からなかった。確かに会話は多少おもしろかったが、だからといって知的好奇心が過剰に刺激されるかといえばそうではないし、じゃあ他に何があるのかといえば老人が気ままな老後生活を楽しんでいるようにしか見えない。女子高生の青春生活を楽しむ昨今、あまりにも場違い……いや、時代が違うし、求める客層も違うんだろうけど、しかしあまりにも僕には難易度が高すぎる小説だった。
「……ごめん、つまらなかったよ」
もう、めんどくさいので意味が分からないをつまらないに変換した。
そばには傘頭の幻覚――鍋を逆さまにしたようなロボットが、立っていた。
感想、どう?
と聞くように見上げてくる。
「いや、だから……正直、よく分からなかったよ」
つまらなかった、を訂正したのが我ながら女々しい。
それでも傘頭はこちらを見上げ続ける。幻覚とコミュニケーションを取ること自体が無謀だったのか、ナイフを歯でくわえて滑り台するようなものだ。僕はしばし手を額にやったあと、部屋から抜け出た。
傘頭の幻覚はまだ見続けている――気がした。
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