55 抽象的な想像の欠片(Ⅱ)
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博士と呼ばれる男は平野に家を建てた。
二階建ての木造住宅。家から最も近い交通手段は市民バスで、最寄り駅まで五十分ほど掛かる。辺りにはコンビニもないし、スーパーもない。ゲームセンターもなければ、服屋もないし、カラオケもないが、近くには大きな湖があり、たまにそこで釣りをする。若い頃に青春を謳歌した彼は、もうゲームセンターもカラオケも必要なかった。生きるために欲しい物はネットで頼んでいる。生きる上で必要のないものだけは、自分で歩いて購入する。
木造住宅は家の耐久制度をクリアしていなかったが、老人は自分が生きている間でならと思い、危ないのも承知で住んでいる。日本の地震は回数が重なり、今では日本全土を襲う大地震が、と危惧されているが、時間が残り少ない老人にとっては、そうなったらそうなった。今更、異国に行ってまで――なんてことには興味がない。老人は日本で生まれ、日本で育った。このまま、日本で暮らし、日本で歳を取ったのだから、日本で死のうと、そう考えていた。
家の近くには小さな畑があり、そこで老人は気ままに野菜を育てている。周りには他の民家はいない。この壮大な平野、いや平野の向こうに見えるあの山の奥さえも、老人が莫大な資金で土地を買い取っているからである。
しかし、老人は広い場所に豪邸を建てることもなく、ごく普通の一軒家。二階建て。しかも木造住宅を作った。僅かな贅沢と言えば、老人が管理出来るほどの小さな農園と番犬としては役に立たない柴犬二匹。畑の近くには倉庫のような小屋があり、そこを柴犬二匹が贅沢に使っている。二匹は兄弟だ。母親は友人が飼っていて大分前に亡くなった。友人はとある事情でもう犬を飼えなくなったから、老人は二匹を飼うことにした。悪くはなかった。
小屋は雨よけ、寝床の条件を満たす。それ以外は鎖に繋がれることもなく、自由奔放に平野を駆けている。
彼らが老人から消えることはない。なったとしてもロボットであるマコルが追いかけるだろうし、何より、彼らも老人が好きなのだ。
朝。老人は六時に起きると顔を洗う。意識が冷水で覚めると朝食をとる。朝食と言っても、トーストを一枚、コップに牛乳を注ぐぐらいである。それよりも、犬たちにやるドッグフードの方がまだ豪勢に見える。
朝食を食べ終わると歯を磨き、汚れてもいい作業着を着て畑に向かう。畑を荒らす動物は辺りに一匹もいないし、来たとしても老人が開発したセキュリティシステムで、即座にマコルに知らせて対処する。畑には、野菜――にんじん、かぼちゃ、じゃがいも、きゅうり。しかないが、それでも老人にとっては宝物だ。
昼になると畑仕事を止める。作業着をマコルに渡し、洗ってもらう。その間、自分は風呂に入る。マコルは洗濯はするが、料理はしない。これは老人が料理だけは人の手ということで、譲らないらしい。本来ならマコルは、料理が可能である。
ただ、その料理がおいしいかどうかは不明だ。これは試したことがないので博士も知らないし、マコル自身も想像がつかない。
昼食も朝と変わらないほどの軽食。この前、畑で収穫したばかりの野菜でサラダを作った。にんじんをきゅうりを細かく切り、その上にかもちゃとじゃがいもを磨り潰したものを乗っけた。雑誌に載っていた簡単なものだったが、意外とおいしかった。その他には、豆腐とわかめのみそ汁がある。老人は父親がドイツ人で、母親が日本人。髪と目は母親の美しいものをもらい、顔立ちは父親の凛々しいものをもらった。黒髪で黄色い肌の鼻が高い自分がが洋館のような場所でみそ汁を啜っている。老人は笑う。どうでもいいか。日本は高齢化が進み、若い層が劇的に減った。結婚して子供を産む人間が限りなく少ない。それ故に、海外からの来客は嬉しい限りだった。その結果、日本は米国のように様々な人種が集う国となった。
「日本と戦った米国と、まさか同じことになろうとはな」
老人は皮肉だと思ったが、彼はみそ汁の味を、日本文化を愛していたので、嘲笑いはしなかった。この味が家によって異なろうと、それはみそ汁であることに変わりはない。みそで作ったからみそ汁なのではなく、みそ汁を作ろうという意志が、みそ汁をみそ汁たらしめるのである。
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