50
夕方、編集の人から電話があった。受賞した長編作品の二巻目が非常に好調な売れ行きらしく、早くも三巻目を書かせてくれるようとのだった。そのため、また打ち合わせのために出張をしそうになるが、止めた。
僕は僕らしく、あっさりと考えを否定した。いや、以前はわざわざ東京にまで行って打ち合わせしたのに、今度は生まれてこの方そんなめんどうなことはしませんと否定して、どういうつもりだと思われるかもしれない。そういう、優柔不断な態度こそが僕らしいというつもりはないが、何となく――電話かメールでいいじゃないかと思えたのだ。
僕は、電話やメールで簡単に済ませた
夜になるとシャワーで体を洗い、浴槽にお湯を溜めて身を清める。しばらく入っていると、また鈴野千香の幻覚が現れた。また、脆弱な背中を僕に見せつける。思わず抱きしめたくなるが、手を伸ばす段階でいつのまにか消えていた。
どうやら、小説を読み終えたことに幻覚の有無は関係ないようだ。それもそうだ。これはゲームではない。小説でもないんだ。そう簡単に物事が終わってたまるか。
……僕がまたノートを探したのは、単なる好奇心に過ぎない。
僕は自分の主張を簡単にひっくり返す男だ。人間ほど裏表がクルクル回る生き物はいない。だから、これは当然だと思う。むしろ悪くないとさえ考える。これを政治的に例えると、と危険な表現はやめることにした。いつ、どこで、過激派が狙ってるか分かったものではない。そんな、中学二年生のような戯れ言を考えたりもする。
傘頭の部屋を探していると、偶然にも有田清の部屋に辿り着いた。運命の悪戯と、平凡な表現をすればいいのか。
有田清の部屋は殺風景な部屋だった。必要最低限の家具しか置かれていない。彼が部屋を去ってからは、ただの客室として使われているのか。もしかしたら、彼がいたときはもっと人間味溢れる場所だったのかもしれない。ここが有田清の部屋だと分かったのは、机の引き出しにノートがあったからだ。それまでは、ここが有田清の部屋だとは――いや、実は思っていた。心のどこかで、ここは有田清の部屋なんだなと。どこかで、納得していた。A4サイズの大学ノートで、黒いマジックペンで有田清と書かれていた。中を見ると、どうやら日記のようだ。そういえば、彼は卒業作品である小説を燃やしたと言っていたっけ。
『●●年三月五日
先生にお前は傘頭に劣ってると言われた。
理由が分からず、俺は先生に問い返したが、
先生は興味を無くしたかのように、一言もなかった。
』
開いたページには憎しみがあった。恨んだんだろう。叔父は奇怪な人だ。それ故に、あのような一般人に近い有田清は耐えにくいはずだ。
ページを捲った。
『●●年六月六日
鈴野千香の幻覚を見た。
傘頭にも聞いてみたが、どうやら俺だけの幻覚ではないらしい。
先生にも聞いてみた。
先生も同じようだ。それどころか、先生は彼女のことを知っていた。
いや、そりゃそうか。鈴野千香は、先生の弟子だったのだから。
先生が言うには、優れた小説家が残した思いが暴走したのだろうと言う。
人は小説を書くときに頭の中で、外見だけじゃ分からないほどの葛藤、暴走、
破壊を繰り返している。脳細胞に油をかけて燃やし、命を削って書いている。
先生は大袈裟に言う。
ときとしてその思い、想い、
小説を書いているときの脳の中身が外に零れ、残滓として彷徨うのではないか。
と、先生は言っていた。
非科学的なことは信じない俺ではあったが、三人も同じものを見ているとなる
と、否定しにくい。
傘頭はどう考えるかと聞いてみたら、どうでもいいと答えやがった。
あの野郎、オカルトを信じないとかそういう問題ではなく、
興味がないというフォルダに入れて無視しやがる。 』
有田清の日記は荒々しい。これが彼の本当の口調か。『僕』しか会っていない僕としては、悲しいものがあった。そうか。あのとき会った有田清は、外交用の有田清だったのか。
……それなのに、彼の文章はどことなく行儀正しい。
それが、余計に悲しかった。
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