47 七月三日へ

 渋谷に着くと、名曲喫茶ヒョウという店で少し落ち着いた。

 叔父が持ってそうなジャズが店内に流れていた。店内は会話禁止なので、注文するときも僕は発声をせず、口の動きだけでコーヒーを注文した。

 店員が持ってきたコーヒーを、ゆったりしたジャズを聴きながら静かに口元に流す。脳にまでコーヒーの刺激がきそうだ。ゆったりとしたジャズが後押ししたのだろうか。

 十五時からは、この店で毎回行われるジャズコンサートが行われたらしいが、残念ながら編集との打ち合わせは簡単に時計を走らせていた。時刻は十七時。冬なら夕方どころか。夜になってしまう時間帯である。

 僕は一時間ほど滞在し、店を出た。このまま家に帰るのも面倒だったので、今日は渋谷に泊まることにした。ただ、一人では孤独だったので誰かと寝てもらうことにした。

 渋谷の十字路。109が見える場所。そこの駅前辺りで人々の群れを観察する。

 ブサイクでもなければ、可愛くもない、普通な子。なおかつ、一人で来るような子を探した。出来れば、一人で買い物を済ませるために来たという子がいい。

 しばらくしてると、検索条件に選ばれた女性が前を通った。

 小柄で童顔。ブランドの袋を二つか三つ両手に持っているので、それなりにお金はある。成人か、もしくは大学生ぐらいではあると思う。しかし、顔が丸いから太っているようにも見える。おそらく、それで人生のいくつかはマイナスになってだろう。

「そのブランド好きなんですか?」

 気軽に声を掛けた。特に怖じ気づくことはなかった。

 やはりナンパされることに慣れていないのか。最初は動揺していたが、あちらに合わせた話題を振ると簡単に乗っかってきてくれた。もう十分だなと感じると「お茶でも一緒にしませんか?」と声を掛けた。残念ながら食事の時間とは微妙に違うので、お茶にした。近くの喫茶店に入り、二人ともコーヒーを注文し、二時間ほど雑談した。こちらが小説家ということを伝えると、あちらは余計に乗り気でしゃべってくれた。一般人から見たら、小説家は遠い人らしい。だから簡単に話せるのだろう。逆に。

 二時間ほどすれば夕食には丁度良かったので、食事にも誘ってみた。高いのご馳走しますよと言ったら、子犬のように喜んでついてきた。イタリアンワインに合わせた料理を出してくれる店で、女性の評判も良いし、酒も飲ませられる。誘いにはうってつけの店だった。

 そこで僕は鯛のカルパッチョを頼み、彼女はパスタを頼んだ。夕食にパスタを食べる神経が僕には不明だが、女性はおいしいおいしいと喜んで食べていた。

 酒に合った料理なので酒の量も進み、どうやら彼女は飲むタイプの女性だったらしく、二つの瓶を殻にしてしまった。(もちろん、僕も共犯ではあるが)

 アルコールが入った彼女はさらに気が乗り、ホテルに連れ込むのは容易だった。ホテルに着いて軽く雑談し、彼女がお酒でぼぉーとしたところで「キスしていい?」と聞いた。照れながら彼女は「いいよ」と言ってくれた。後はスムーズにセックスにまで持ち込んだ。どうやら僕が初めてではないらしく、血は出なかった。別に彼女に気があるわけじゃないが、彼女と初めてを交わした男が気になった。

 しかし、どうせ今夜限りなのだから意味がないと知り、それにセックスの経験を聞くのは野暮だと思い、その考えに蓋をした。

 彼女の中で二回ほど果てると気分はどうでも良くなった。目の前の子を無視してもいいし、今すぐここで金を盗られてもいいと思えた。だが体は彼女の唇を吸い続け、財布が入ってるデニムパンツを見続けていた。

 七月三日。朝になると、意外と性欲は湧かなかった。まだ経験が浅い子なのか。油断して枕元にヨダレを垂らしている。正直、こういうのを見ると男としては気合いが無くなる。

 ベッドから起き上がり、服に着替えると二万円を置いて部屋を出て、ホテルも出た。

 渋谷だと言うのに活気が少ない。僕が昨日見た光景はそこまで再現されていなかった。

 腕時計を見ると時刻は朝の六時となっていた。なるほど、女性がヨダレを垂らすほどウトウトする時間か。渋谷の街は透明な空気に包まれていて、早朝から仕事のある会社員の足音を鮮明に鳴らす。

 渋谷にあるコンビニでおにぎりを三個買い、電車に乗っているときに食べた。食べてからは意外と睡眠欲が残っていたのか、大宮まで眠ってしまった。大宮で眠りから覚めたのは運が良かった。あのまま、川越の向こうまで揺られたらどうなっていたことか。

 大宮から高崎線に乗り換え、高崎まで行き、またさらにそこから群馬鉄道に乗り換える。館の最寄り駅の駐車場に止めた車に乗り、笑えるほどの金額になった駐車場の料金を払う。

 朝の六時に起きたが、館に戻れたのは十時頃になってしまった。僕は一日の中で午前が一番好きだ。始まりの始まり。まだまだ一日が始まってもないぞと認識出来る。午後は嫌いだ。もうすぐで一日が終わる。終わってしまうと認識してしまう。夕日の光景が好きだと言う奴がいるが、僕にはそれが全く理解出来ない。僕にとって夕焼けは残酷な光景でしかない。一日が終わると嘲笑されてるような。そんな気分にしかなれない。

 朝の十時。あと三時間で、午後が始まってしまう。せっかく一日で一番幸福な時間を移動だけで費やしてしまった。館に着くと、やっと辿り着いたのに心に来たのは絶望感でいっぱいだった。

 若干、汗をかいた気がする。駅から車で来たときだろうか。シャツと肌の間に汗がこびりつき、多大な嫌悪感を漂わせる。

 玄関の鍵を開けて中に入り、寝室に行って着替えを取ると浴室へと向かった。冷たいシャワーを浴びる。肌から汗が落ちると、次はバスタブの中に微温湯を溜めて中に漬かった。体中の細胞から水を摂取してるようだった。一時間ほど、そうしてたと思う。

 浴室から上がると、早めの昼食で果物を食べ、寝室に戻って少し寝た。起きたのは十四時頃だった。大きめのチャイムの音で目が覚めた。最初は意識が呆然として、この音がどういう音で何の意味を持つのか不明だったが、数秒経ち意識が回復すると脳が即座に理解した。

 珍しい。

 下界から閉ざされたこの異界に誰かがやって来るなんて、奇跡に近い。慌てて玄関に行き、扉を開けた。

「――お久しぶり、幸広くん。いや、今はもう村先剣吾くんかな?」

 数年ぶりの有田清がいた。

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