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『一九●●年七月九日。

 先生と東京に出掛けた。二人とも、別々の出版社ではあるが行き帰りを同じにした。昼はそれぞれ違う出版社の担当と打ち合わせをし、夜は待ち合わせ場所で合流して街を観光した。先生は無駄口を叩かない人で、必要な口も開かないようでもある。無口だ。だが、それがかえって私には良い。私をしゃべらせて緊張させるよりも、温かな静寂があった方が幸せだ。

                                鈴野千香』

 なのに、彼女は叔父に失望することなく、恨むこともなく、愛していたようだった。

 男だからか。それとも叔父を嫌悪しているからなのか。僕には百年経っても理解不能なことで、口元を塞いで吐き気を我慢するほど気持ち悪くなった。

 日記を一旦置いて、風呂場に向かった。頭から足のつま先までネバネバした粘着性の高い泥を浴びたようだったからだ。あくまで感覚的なことだが、全身は耐えられない程にまで困っていた。鳥肌が見なくても分かるほど鮮明に浮き出ている。

 キッチンとは反対側にある風呂場に行き、風呂場前にある洗濯カゴに服を全て脱ぎ捨てる。洗面台にある鏡を見ると、やはり僕の体は鳥肌が物凄かった。

『先生……』

 ここでも、彼女が映っていた。僕の肉体が映る鏡、僕の後ろに彼女が背中を見せて立っている。長い髪を下に垂らして項垂れている。鏡から目を逸らし、振り向くと彼女はいなかった。誰も、ここにはいなかった。恐怖よりも、苛立ちが脳内に起きた。

 風呂場は海外のホテルのように、トイレが一緒になっているわけではない。そういえば、叔父がトイレと風呂を一緒にする外国人の神経が分からないと不満を口にしていたのを覚えている。(ちなみにトイレは一階と二階に一つずつある)二匹の鼠が料理を作る土鍋のような大きい浴槽。ここだけは最近改装したのか常時お湯を適温にする機能付きである。まずはシャワーを浴び、体を清めた。乱暴にシャンプーを髪に付着して、お湯で洗い流す。リンスを軽めに付けてまたお湯で流す。体はタオルにボディソープを付けて体を洗う。全身を泡で覆うとまたお湯で洗い流した。

 風呂場の真ん中にある小さな排水溝の穴に泡とお湯が注がれる。排水溝に落ちる音がまるで誰かの悲鳴のように聞こえた。

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