11 六月三十日
六月三十日。
この日は朝から夕方までずっと小説を書き続けていた。八時間ほど使用した執筆作業は短編二つを終わらせ、長編の原稿を五十枚ほど増やした。自分で言うのも何だがよく書けた。昨日、幽霊のようなものを見たばかりとは考えられない。僕の心は、意外と冷静だった。
書斎の窓から見える空は茜。セミが太陽が沈んだのを嘆くかのように鳴いている。カラスは阿呆、阿呆と空を呪っている。
ノックがした。
僕しかいないはずの館、書斎のドアを、誰かがノックした。
鼓動は平静だった。まるで当たり前のように心は落ち着いている。そろそろ、何かが起こるのだと、予想なんてしてない。なのに、心は全く乱れていない。
ドアの向こうは返事もしていないのに、ノックした人物はドアノブを捻った。昨日現れた女だった。女は、僕を見てまた涙を流していた。
「私よりも、小説が大事なの?」
僕は、つまらないB級映画を見るように彼女を見届けた。
彼女は、またテレビのように一瞬にして消えた。何の残像もなく、最初からいなかったかのように消えた。僕の心は、ただ落ち着いていた。ヒビさえ入らなかったのが、無機質すぎると笑えた。
椅子から立ち上がり、書斎から彼女の部屋へと移動した。彼女が現れたのは、あの手紙を見てからだ。六月二十九日。あれから、何かがおかしくなったのだ。部屋のドアを開けると、幽霊のような彼女がまた立っていた。今度は泣いていない。それどころか、僕さえも見ていない。黙々と、ノートにペンを走らせている。
瞬きすると、いつのまにか彼女は消えていた。空気のよどみさえ感じられない。
僕は彼女が書いていたノートを見る。机の引き出しを開き、二冊のノートを取り出す。
一つは彼女の日記で、もう一つは彼女の小説が書かれたノート。
僕はまず、彼女の日記から見てみた。
『一九●●年三月三日。
私は館にやって来た。館は先生が住む場所で、私は弟子としてここに招かれた。
光栄だった。憧れだった村先先生の弟子として認められたのもあったが、何より、先生と一つ屋根の下になれたことが嬉しかった。
鈴野千香』
最初のページは、この館に来てのことが書かれていた。あまり事細かく書くほど、日記に没頭しているわけじゃなかったらしい。その日に起きた一番重要なことと、それについてどう思ったかが書かれただけだった。
二枚目も三枚目も特筆すべきことはなく、淡々と日常が過ぎていた。性急になり、僕はページをいくつも飛ばす。
『一九●●年七月八日。
先生に抱かれた。一人の女性として愛されたかは分からない。もしかしたら、ただ性欲の処理として手短に済まされたのかもしれない。最初は、紳士のように誘われた。二人でウイスキーを飲みながら、大人な会話をして、しばらくするとベッドに行った。
その後は獣のようだった。今も、先生に揉まれた胸が痛い。乱暴に掴まれ、吸われ、神経が痛んだ。体中を唾液で汚され、顔を精液で汚された
鈴野千香』
驚きよりも先に、失望が到来した。
最低だった。他人に興味がないのではなく、自分に甘いだけだった。自分の弟子を襲うなんて、小説家としてではなく、人として最低だ。
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