5 六月二十七日
六月二十七日。
雨が降った。線の細い雨ではあるが、大群で押し寄せる。庭を荒らす草花は雨という栄養を受けてより一層邪魔者として降臨する。いつかは、庭も業者を呼ばなくてはいけないか。朝、ベッドから体を起こし、窓から覗いてそう思った。
キッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだしてクチをつけた。朝は必ずミネラルウォーターを真っ先に飲むと決めている。その次に牛乳を飲み、一日の始まりに必要な栄養を整えて、朝食の準備に取りかかった。準備と言っても、朝はそれほど食うわけでもないので、パンを二枚トーストで焼いて、バターをつけて食べた。食後はコーヒーを飲んで気分を落ち着かせる。
今日は店に頼んだ家電製品がここにやって来る。まず、リビングルームに置く大型の液晶テレビ。そして書斎と僕の部屋にエアコンが二つ。そしてインターネットが出来るように書斎にケーブルを引くのもやってもらう。叔父はテレビもネットもしない男だったが、僕みたいな貧弱な現代人はそれがないと情報を入手出来ない。この館は周りを植物で囲まれているため、案外涼しかったりするが、念のためにエアコンを取り付けてもらうことにした。
家電が来るのは午後からなので、その間は書斎でレコードを聴いた。また適当に選んだら今度はクラシックだった。鼓膜に優しい演奏が室内に流れる。革製の椅子に座り、机に手を乗せていると妙な跡を発見する。見るとそれはひっかき傷のようなもので、ダイイングメッセージのように何か文字が書かれていた。英語のようだ。……can't、何々、日本語で『小説は嘘をつけない』だって?
叔父が弟子に残したメッセージだろうか。確かに、この言葉は納得する部分があるのだが、しかし、何で机の上にこんなことを書くのだろうか。この机だって、どうせ高級品なのだろう。それを子供じゃないんだから、落書きのようなものを残さなくてもいいじゃないか。
それから僕は気になり、机の中を調べた。引き出しには予備の原稿用紙と万年筆。無駄なものは極力省く主義のようだ。カラッポの引き出しがいくつかあった。最後の一つを開けると、大学ノートが入っていた。『館のこと』とマジックペンで書かれている。名前は村先類字。どうやら叔父が書いたもののようだ。僕はノートを開いた。
『私が住まわした弟子たち。
叔父が昔住まわした弟子たち全員の名前らしい。四人もいたのか。僕は過去に一人だけ弟子を見たことがある。確か、この有田清と言う男だ。柔らかな笑顔が特徴的だった。叔父の近くにいるのが不思議なくらい、人間味に溢れていた。叔父の家に来たというのに、僕は彼の周りをウロチョロしていたっけ。小説家が弟子を持つなんて、今ではあまり聞かない話だが、昔はそうでもなかったらしい。いや、それよりも他人に興味がないあの男が弟子を持つなんて、異常だ。何か裏があるとしか考えられない。僕はページをめくった。
『この館は、空想が起きる』
紙の無駄遣いを考慮せず、余白をたっぷり取ってど真ん中にどんと書かれていた。太文字で、堂々としている。
数分呆然としてみるが、どうしても叔父の言いたいことがよく分からない。このノートを見た者を怖がらせたいのだろうか。それにしては、新鮮味に欠ける内容だ。これならアメリカのホラー映画の方がよっぽど怖がらせてくれる。テキサスの食人一家や夢に出てくる亡霊のような――このときは、興味を失った僕はこれだけでノートを閉じた。
再びレコードを聴いていると、いつのまにか時間が過ぎて、業者がやって来た。テレビの配線を繋ぐのも、ネットの回線もすぐに終わり、一時間も経たないで業者は帰って行った。
昼食も簡単な食事で済ませて、本日やって来た大画面のテレビで早速映画を見ることにした。ブルーレイをプレイヤーに入れ、リモコンを操作して一人だけの上映会を始める。机の上にはビールとつまみのピーナッツも忘れない。映画の題名は『ショーシャンクの空に』だ。名作を聞いて買ってみた作品だが、期待を裏切らないどころか、面白すぎて色々な意味で予想を裏切られた。最後まで僕の思考の裏を行くストーリーで最後は感動して泣いた。今の日本映画では、逆立ちしても作れないと下手な人は言いそうだが、いや作れる人は作れるだろうが、でも少ない。作れたとしても、安易なお涙頂戴。人の死で感動させる映画かもしれない。人の死で涙を流させるのではなく、生きることで命の大切さを教え、そして泣かされた。失って初めて分かるのが人間だが、失わずに分かってもいいものだと思う。この映画を見てよかった。映画を見終わり、もう一度コーヒーを煎れて落ち着くと、書斎に行き、ここに来て初めての執筆に取り組んだ。打ち合わせで話した内容だと、また失恋ものの話を書いてくれとのことだ。前回は彼女を失って悲しむ主人公の物語だが、今回は前作の主人公に恋をするのだがフラれる女の話を書いてくれとのことだ。文学系のような話は僕にとって書きやすいようで、指はスラスラと進む。細かい動作も描写し、小さな心情も文字にした。僕は四時間あれば原稿用紙五十枚ほど書けるが、いつのまにか五十枚ほど執筆していたようだ。夕焼けを拝む暇もなく、いつのまにか外は夜になっていた。館の庭からか。それとも遠い所からか。虫の声がした。その音色を聴くと、自分が思っていたより疲れていたことに気が付く。筋肉の緊張が和らぎ、疲れの結び目が少しだけ解けた。
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