Ⅰ
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壱
叔父の影響がなかったとは言い切れない。叔父の影響下から抜け出すには、手首を切って全身の血を抜き出すしか手はないように思う。叔父は小説家だった。一つのジャンルに拘る作家ではなく、服屋にある服を端から端まで買うような節操のない作家だった。彼はどんなジャンルにも手を出した。SF、ファンタジー、ミステリー、歴史物、恋愛物、文学。最近では興味半分でweb小説や、ライトノベルにまで手を出している。叔父にとって、小説のジャンルは彼の価値観の女性と一緒なのだろうか。読者は、彼の性交を見届けるための観客だとでも思っていたのだろうか。それとも、自分の器用さを自慢したいだけか。
叔父の名前。
偉大なる親戚でもあり、畏怖すべき怪物でもある。
叔父に会うのはいつも怖かった。恐かった。
子供の頃でも叔父の異常さは理解していて、人間と対峙しているような気分なんて一度もない。叔父と目が合うとき、僕の心臓は毎回冷たい感触を味わったが、叔父はそれを知っていただろうか。いや知らないだろう。あの男ほど、他人に興味を持たない奴はいない。彼は眼球で他人を捉えても、人類は自分一人しかいないと疑わないはずだ。彼はいつも常人のような言動をしていたが、目はどう見ても人に興味を示していなかった。僕が嫌々、両親に連れられて遊びに来たとき、叔父がどれほど死んだ魚のような目で「よく来たね」と言ったことか。
住んでいた家から車を走らせ二時間半。叔父が住んでいた場所に辿り着いた。
両親と暮らしていた家から持ち出したものは、自家用車だけで運べた。所有しているものが生きていた証なら、僕の証は少なかったことになる。引っ越しが楽になったというのに、何故か僕は自嘲をしてしまう。自分が嫌いなのだろう。
都会から大分離れた田舎町。一階建ての建物が並び、最高でも三階までが限度だ。その多くは家族が住む住宅であり、その他は生活必需品を提供するような店や一軒だけのコンビニ、もしくは小さな銀行やら町の役所やら、その程度しかない。余計なカラオケやゲームセンターなどは存在しなかった。ある意味、真面目な子供を育成するための町にも見える。ようするに、娯楽を知らない廃墟だということだ。だが、耳に入る音は清々しいものだった。空気が澄んでいるからだろうか。体に受ける風も気持ちいいし、ここに住む人々の鳴らす声や足音も汚らしいものじゃない。
鉄の門の前で、一旦車を止める。叔父から渡されたリモコンを手に取り、ボタンを押す。地獄に道が続くような門は解錠された。
町から少し離れた場所に、大きな敷地を有した館が建っていた。西洋風の建物で、上野で一般に公開されている洋館に似ている気がする。二階建てなのはこの町に合わしているわけじゃないだろう。横に幅は広く、端から端まで走れば短距離走ではなく長距離走になる。白く塗られた建物だったのだろうが、所々、時間の虐めが見える。人の血管のような、色彩の割れ目が外壁の至る所にあった。何年も誰も住んでいなかったのか。それとも館の主が興味を示さなかったのか。庭には緑豊かな雑草が自由奔放に生い茂っていた。大小様々、名称不明の謎の植物が、館の庭で野放しにされている。そればかりか、これらを餌に気持ち悪い虫も集まっているようだ。植物の蔓を見ると、赤い斑点のような小さな虫が身動きしている。
門の近くは白い石を敷き詰めた砂利道で、左の方にも車庫に続く道で砂利道が伸びていた。車庫と言っても屋根があるだけの寂しいもので、叔父はどうやら人間だけじゃなく車庫に関しても存外らしい。小説家として出世したら、いつかはここも立派にしてみようと無駄な決意をした。
折りたたんで車に乗せた荷台を出して、その上にダンボール箱を二つ積み重ねる。これが僕の今までの証だと思うと、皮肉なものだ。しかし、これさえも僕は両手で持てないということは、それなりに人生が詰まっているのだろうか。僕の悪い癖は物事を深く考えるすぎること。荷台を押して、玄関まで着くのに無駄に脳細胞を働かせてしまった気がする。
錆びた鉄の鍵を扉の鍵穴に差し込み、回す。玄関の扉を開けて、荷台と僕の体を屋敷の中に進ませた。ホコリが掛かった赤い絨毯が一直線に敷かれている。絨毯の先にあるのは幅の広い階段で、ふきぬけになった二階に真ん中から左右に分け目を作っていた。これはもはや住宅ではなく、立派な屋敷だということを、叔父が莫大な財産を持っていたことを、僕は改めて思い知る。両手を伸ばして、その両手がキリンの首より長くなっても両端の壁には届かない。壮大な空間。
床は大理石をチェス盤のように敷き詰めている。天井には金の装飾が付いたシャンデリラが二個。蝋燭はなく、あれでは怪人が女優を殺すだけのものにしか見えない。叔父は何年もこの家を留守にし、しかも業者を呼んで清掃させなかったのだろう。館の中は見えない汚れが漂っていて、煙草を吸うよりも肺を汚しそうだ。電話をして明日業者に来てもらおう。このままでは、水の中でもないのに窒息死してしまう。
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