042 けつい
イスカが顔を上げると、目元から少しだけ涙が飛び散った。
流石の修二も驚いたが、それでも足は止めなかった。
彼女が泣いているとは思わなくて――それは修二が何度も味わった、殴りつけられるような衝撃だった。
『……ノックくらい、して頂かないと、困ります』
「ごめん」
『そんな無神経では、女性に嫌われますよ』
「そうだな」
イスカはソファに腰掛けて、ただただ泣いている。
ナノマシンは彼女の零した涙をつぶさに拾い上げては床に落としているけれど、それは溜まることなく七色に散ってしまっていた。
修二はその隣に腰を下ろした。旧式の送風式エアコンに当てられて冷えきった、さして座り心地も良くない合成皮のソファが、修二を硬く迎えた。
ウェアコンに触れ、部屋が防音であることだけは確かめた。イスカはいつものメイド服のままで、ヘッドドレスは、エアコンの風を受けて僅かに揺れていた。
『……申し訳、ありません』
修二はなんと言おうか考えて、慰めるのは似合わないな、と思った。
「初めて、裏切られた気分になった」
『……修二、様』
「だって、そうだろ。お互い、それだけは約束していたはずだ」
口には出さなくとも。
イスカと周囲の間には、元より多くの言葉は要らない。
『私は、……修二様を裏切りました』
イスカも分かっている。だから、彼女は泣いていた。
『貴方様に、私は己の罪を、黙って』
「そうじゃない」
だけど、そうじゃないんだ。
修二が悔しかったのは、そういうことじゃあなかった。
イスカが何を黙っていようと、それは修二にとって何の裏切りにもならない。修二はそれを受け入れただろう。
「あの時お前は、初めて……振り返らなかった」
『――わ、たしは』
「お前はあの時、俺から離れて事を成すことを選んだ……」
そうだ。それが悔しかった。
あの時の彼女はただただ冷酷で、それは修二の知るイスカではなくて。
まるで修二などいないものとしてイスカは振る舞った。それが悔しかった。そして怖かった。
「そんなに……俺は、弱かったかな」
イスカはついに声もなく、潰れた声で嗚咽を上げ始めた。
「いや、弱かったんだ。お前の腹を割るには、あまりに弱かった。現に俺だって、あの時お前から距離をとっていた」
修二が逃げ出した時のあの感情は、幼稚で独り善がりなものだ。
イスカは修二の殆どを知っていて、残る部分も朧気には掴んでいる。修二もそのつもりだった。
そのせいだ。信じていたのに裏切られたと、深く話をしようともしなかった自分が悪いのに、そう思い込んだだけだ。
「お互い様だ。互いに、互いを、裏切った」
その結果がこれだ。
イスカの思いを修二は知っている。
全てではない。雇用被雇用という関係の仮面の、その裏側に秘めた思いの丈は、修二にはどう頑張ってもその表面しか分からない。
けれど知っている。イスカの願いは、知っている。
あの日、いつ消えてもおかしくない自我を必死に繋ぎ止めながら、修二を見上げる彼女の表情。
それを複雑な顔で見返す自分。
二人の関係性は、いつもたった一つの言葉で言い表せた。
だから互いに、それを口にすることはなかった。
――『一緒にいるよ』。
胸に秘めた魔法の言葉だけを頼りに、二人は繋がれていた。
修二は、イスカがいなければ戦えない。
イスカは、修二がいなければ生きていけない。
それは事実とか状況の話ではなくて、心の話だ。
たった半年、それだけで、二人はかけがえのない関係性を築いてしまった。
だから、イスカは今泣いている。仮面でさえ隠しきれなくなって、イスカは泣いている。
修二がイスカを突き放したから、イスカが修二を裏切ってしまったから、イスカの立つ先に、修二がいなくなってしまったから。一緒にいられなくなってしまったから。
たったそれだけでみっともなく泣いてしまうくらいに、イスカは自分を想ってくれている。
修二はそれを強く噛み締めた。
「ごめん」
始めなければならない。
それら全ては修二の責任だ。修二が、修二の手で、越えていかなければならないものだ。
覚悟は、決まっている。
修二は立ち上がらなければならなかった。
急かされるように、残酷な現実にせっつかれながら、歯を食いしばって。
その現実目掛けて叫ばなければならなかった。
ずっと昔から、そうだったのだ。
「イスカ」
代わりに、修二は名前を呼んだ。
「だから俺は、強くなる」
そして、彼女を頼ることにした。
「お前の主になれるくらいに、強くなろうと思う」
『……そ、な……こと』
イスカはぐっと涙を拭って、どうにか声を繕って、気丈なふりをした。
彼女の体は仮想のものだ。だからこそこの仕草は、彼女の心の機微そのもの。
彼女は返事をするのもつらいくらいに苦しめられていて、それでも、己の職務に十全であろうとしている。
『そのようなこと、口頭でなら……誰でも言えます』
「あぁ。だから、お前の力を貸してくれ」
修二はそこまで言って、イスカの仮想の手に手を重ねた。
その掌のぬくもりは、一方通行のものだけれど……それでも修二は、息遣いくらいはちゃんと交換できていた。
「お前の力が必要なんだ。誰よりも強いオートマトンの力が。俺が、強くなるために」
それを始めるために、まず修二にはイスカが必要だった。
修二は目元を拭って、言葉を続けた。
自分でも何を話しているのかわからなくなって、胸の内をただただ伝えようとした。
「俺はこんなに弱くて、馬鹿だから、お前の力がなきゃちゃんと決別出来ないんだ。――甘ったれのクソガキをぶん殴って、ちゃんと立って、空を飛ぶには、お前がいなきゃダメなんだ」
どこまでいっても所詮はこの程度。
腹をくくって得たのはこんなに泥臭い力でしかなくて、主人公たちのように華々しく分かりやすい力ではなかったけれど。
「分かったんだ。分かっていたんだ。それに向き合うのが怖くて、飽きたって言い訳して、ずっと逃げてたんだ。才能の差に打ち負かされてきた」
弱い。鷲崎修二は弱いのだ。
だから強くならなくちゃいけない。
そのための力は、みんなが少しずつくれていた。
「
一度だってしなかった。
心折れるまではあれほど大事にしてきたものに、修二は敗北してから一度だって、しがみつこうとしなかった。
「いつだって、そうだったんだ。あの日、財布を空にした時も。あの日、シューズをゴミ箱に押し込めた時も……」
負けて、それで、終わりにしてきた。
何も言わずに敗北をただ受け入れてきた。
打ちのめされ、地に伏して、力尽きた後。
修二は一度だって立ち上がろうとはしなかった。
「だから、もう一度」
そう、もう一度。
修二はその言葉を使わないで生きてきた。
楽な方へ、楽な方へと、流れていた。
――勝ちたいから、彼女といたい。
――彼女に任せて勝つばかりでは、格好悪くて嫌だ。
――それでも、彼女が好きというから、離れられない。
――そんな自分が惨めで、許せない。
――けれど、努力をするのは嫌だ――。
必要なのは覚悟だった。
修二の前に立ちはだかるのはどうしようもなく高い壁で、修二はそれに比べて小さすぎた。
そんなのは当たり前だ。
夏希だって、夏希の前に横たわる深い暗い影と比べれば、ずっと小さくて微かな光でしかない。
それでも、夏希は諦めない。
「もう一度、言わなきゃいけないんだ」
勝利を求めることを、もう一度。
たとえ負けても立ち上がることを、しなくてはならない。
無数に積み重ねる敗北の結果、屍山血河を築き上げたとしても、その頂点に勝利の旗を突き立てなくてはならない。
現実は無情で、だから際限なく続いていく。
終わりにするのはいつだって自分だ。
修二はもう、終わらせない。
何百回負けようが。どれだけ高い壁にぶち当たろうが。
「だからどうした――って言ってやる」
心の中で、修二は自分をぶん殴って、蹴り飛ばして、マウントを取って、殴って、殴って、殴りまくった。
彼を打ち据えるはずだった無数の現実の代行者として、甘えた自分を殴り続けた。
一発一発がカーペットに落とした瞳の涙であり、消えていったイスカの涙であり、きっといつか泣かせた夏希の涙だった。
かつてこぼしてきた鷲崎修二の涙だった。
素手で自分を殴る痛みが、修二の全身を引き裂くようだった。
怒りの炎で熱された愚かな自分へ、鉄槌の代わりに拳を落とした。その度に拳が羞恥で火傷を負った。
刀鍛冶のように、黙々と。弱い自分を隅々まで検分して。叩くべき所を打ち据えた。
全ては反撃の刃を研ぎ澄ますために。
その拳の一振り一振りが、自分を愛してくれた人々の涙だった。
初めから分かっていたことだった。甘えて、普通だからと言い訳していられる時間は、もうとっくに過ぎていた。
覚悟を。
努力をする覚悟を。
苦しめられる覚悟を。
甘えた自分と見つめ合い、その醜さに絶望する覚悟を。
その先にある勝利のために、命を賭ける覚悟を。
夏希の運命は余りに重い。
イスカの過去は残酷だ。
だからどうした。
修二は弱い。
テロリストにも、病気にも、勝てるわけがない。
だからどうした。
そんな凡百の意見など、百一回目で乗り越える。
俺が勝つ。
これから先、修二の目の前に立ち塞がるありとあらゆる障害を、問答無用で越えていく。
まだ負けてないと叫ぶこと。
それがどうしたと吼えること。
それこそが強者の本質。
雛森夏希が抱くもの。
どんな困難があろうとも、自分は勝つと言い続ける覚悟――。
何百もの戦いに、一度の敗北を残さないこと。
それが、才能に溢れた雛森夏希の覚悟の結果だ。
ならば鷲崎修二の覚悟とは。
力ない、現実に打ちのめされる少年の覚悟とは。
――何百回の敗北と、何千回の挫折の果てに、立ち上がること。
そうだ。それだけが全てだ。
その果てにあるものが勝利なのだ。
だから夏希は強かった。
だから修二は弱かった。
「だから――」
その先を、イスカは無言で押し留めた。
『かしこまりました』
その一言に、どれだけの意味がこもっていたか、修二は知らない。
イスカが何を思ってヘッドドレスを外したのか、修二にはもう分からなかった。
『貴方様に、勝利を』
跪き、毅然とした声で誓う彼女は、騎士のようでもあり。
あるいは、謝罪する侍女のようでもあった。
『この仮初めの命をもって、その覚悟に、勝利を捧げます』
それでも、溢れる涙が修二には見えていた。
表情はぐしゃぐしゃ。イスカらしくもない、見るに耐えない泣き顔で、イスカはそれでも誓いを立てた。
『全てを、我が主の御心のままに――』
修二は、笑って彼女に手を差し伸べた。
さぁ仕切りなおそう。鷲崎修二よ、もうこの薄暗いスタート地点には戻れない。
差し伸べた手を取る少女の姿は、ある雨の日の焼き直しだ。
「似合わないよ、そういうのは。毒を吐いてるくらいがちょうどいい」
イスカは何事かを呟いて、それから、その手を取って立ち上がった。
いつもより少しだけ柔らかな顔で。いつも通りの鋭い口調で。
涙を拭った後にはもう、苦しむ少女はいなかった。
『――修二様こそ、そんな気取った台詞は似合いません』
さぁ勝負を始めよう。もう世界は待ってはくれない。
鷲崎修二よ、お前の行く先は暗く重い暗雲が立ち込めている。
「それでいい。さぁ、立ってくれ。傍にいてくれ。やるべきことをしなきゃいけない」
だからどうした。
蝋の翼が飛んで行くのは、その雲の向こう側。
ならば修二も行かなければならない。
さぁ、決別を済ませよう。
弱くて卑屈で、身勝手に全てを終わらせてきた鷲崎修二を終わりにするためには、儀式が必要だ。
「いっしょに、行こう」
あの日勝利に焦がれた、ゲームセンターの小さな子供に。
あの日勝利を求めた、コートの中で飛び上がる少年に。
今一度立ち戻るために必要なものを、取り返そう。
向かうはいつもの交差点。
そこで彼女は待っている。
やるべきことは、とっくの昔に決まっていた。
「勝ちに――行くぞ」
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