041 なみだ
修二はどうにか事態を飲み込むと、ふらつく頭を抑えた。
夏希を取り巻く運命は、修二を打ちのめしてなお重い。
イスカの連れた宿業は、修二を突き放してなお深い。
ともすれば世界中全てが彼女の敵になるかもしれなくて。
修二みたいな極普通の一般人が立ち入れる隙間は、やっぱりない。
それでも、覚悟は決まっている。
大丈夫。今なら言える。行かねばならない。
「姉さんは知ってて、黙ってたのか」
「そうです。余計なことを知る必要はないし、隠蔽すべき事柄だからって」
「夏希も狙われる立場なのか」
「今はまだ。姉さんと僕と瞳さんと、数名の偉い人しか知りません。当の本人が目指すは世界とか言ってますから、いつかはバレるでしょう」
「それでいいのか?」
「隔離病棟にいる姉さんを見ているよりは、百万倍マシです」
真冬は静かに断言した。
彼も同じだ。夏希や、セレネや、瞳と同じく、ちゃんと言える人間だ。
「たとえ何があろうと関係ありません。僕と瞳さんで、姉さんを守る。――まぁ、姉さんを守るなんてのも烏滸がましい話ですが」
「……それを、俺に話してどうするんだ?」
「どうもしません。けれど巻き込まれてしまった修二さんは、知らなければいけないことです」
それと、と真冬は言った。
「イスカさんは登録上はただのオートマトンですから、電熱放射を私的に使わなければ、公的権力に寄ってどうこうとはなりません」
「……V.E.S.S.は?」
「忘れられがちですけど、V.E.S.S.は分類上国が主導する軍事分野の範疇です。勿論、軍事兵器の使用も問題ありません……ヒトに向けなければ」
アリーナは遥か上空。イスカが何をしようと、それが観客を傷つけることはない。
事実上、好きに使えと言われたようなものだ。
「軍用を表すタグは丁寧に削除してありますし、ナノマシン圧縮式の電熱放射兵装はイスカさんのオーナーである貴方を守るために、許可を得て与えられています。だから、あまり細かいことは気にせずに、好きに突っ走って下さい」
そこまで言って、彼は立ち上がった。
「――さて、そろそろ時間です」
「は?」
修二はそんな彼を呆然と見上げていた。
「もう分かってるんでしょう、しなきゃいけないことは」
「……ああ」
「じゃ、長話に時間を使うのも野暮でしょう」
そう言いながら、真冬は修二の背中をぐいぐいと押して行く。
小柄な体に反して存外に強い膂力に、気が付くと修二はエレベーターの中に押し込まれていた。
「ちょ、まっ」
「二階の行き当たりの扉をあけてください。ノックはせず、静かに入ること。それじゃあ、頑張ってくださいね?」
語尾に音符だか星だかを散らしながら、真冬は厭味ったらしく、それでいてコケティッシュに手を振ってエレベーターの向こう側に消えた。
その仕草はどう見ても瞳と夏希からモロに影響を受けていて、加えて言えば男のやる仕草ではなかった。
似合っているのが恐ろしい。彼もまた修二とは遠い世界にいるようだ。
……いや、それは冗談ではない。
雛森真冬もまた、類まれなるマルチタスク能力を持った凄腕のサイバーエンジニアだ。
彼は謙遜していたようだけど、イスカの
なるほど、だからこそ七篠なんて電子産業の大御所に籍を置けているわけか、と納得した。
不思議と劣等感はなかった。彼の持つ雰囲気だろうか。
降り積もったばかりの雪のように透明で、柔らかく受け入れつつも押せば固まる。彼の一番の才能はその人となりだ。
嫌に凝り固まっていた自分を自覚させられて、苦笑する。
今までは冷静ではなかった。頭が冷えた。
狭い箱の中を、ゆっくりと歩いて回る。
地上までそれほど距離はないはずなのに、嫌に時間がかかっている気がした。
一歩ずつ歩く度に、百歩前の自分を反省する。
馬鹿らしい。分かっている。
下らない。分かっている。
惨めだ。分かっている――。
一歩踏み出して、修二は大きく息を吸った。
もう戻れない。
色んな事を知りすぎたし、元々からして戻れる場所などなかったのだ。
甘えていただけだ。与えられた普通の光景に。
エレベーターの開く先を真っ直ぐ進む。シンプルなカーペットの敷き詰められた廊下。目指すべき応接室のドアには、立ち入り禁止のタグが投影されていた。
そしてそのドアの前には、腕を組んで佇む彼の姉がいた。
「姉さん」
声をかけると、瞳は少しだけ目を見開いて、淡く微笑んだ。
「お帰り、というのはおかしいかな。……もういいのかい、修二」
「……あぁ。姉さんこそ、大丈夫かよ」
瞳はぺろりとシャツを捲ってみせた。その肌はさわさわと波打ち、傷は何処にもなかった。
「この通りさ」
「……よかった」
「まぁまだ入院してなきゃいけないんだけど、ぶっちゃけタルいし脱走してきた」
「……あのさぁ」
気にすることはない、と首を振る瞳の目の前に、修二はきちんと立って向かい合った。
瞳も、壁から背を離した。
「キツい話を聞かされたと思うけど」
「うん。大丈夫だ」
「黙っていたことについては、謝る」
「どっちも、いいよ。心配かけたくなかったんだろうし、イスカとの関係も気にしてくれたんだろ。それに、イスカのことを周りから隠してくれてたんだから」
修二の言葉に、瞳は目を丸くして、肩の荷が下りたというように脱力した。
考えてみれば当たり前だった。イスカと修二は結構な頻度でアリーナに出ていたのだから、気付かれてもおかしくはない。
今まで平穏にいられたのは、姉のおかげなのだ。
全部そうだ。
鷲崎修二という個人は、いつだって誰かに助けられてここまで来た。
「……なんだか、懐かしいなぁ」
「何が?」
「昔の修二はさ、私の考えをなんでもぽんぽん見透かして……姉の立場がなくてさ。それでなんだぞ、私が心理学とか哲学とかに手を出したのは」
「だったら、あんまり変わってないよ。姉さんは考えてることが顔に出るからな」
瞳は目を丸くして、それからくすくすと笑った。
「そうみたいだ。けれど修二は変わったね。いや、戻ったのかな……」
「さぁ。でも、やるって決めたよ」
「そうか。……私は、先に帰るよ」
瞳は頷いた。修二も頷いた。
瞳は修二の脇を抜け、振り返らずに歩き出した。
修二も、振り返らずに声をかけた。
「姉さんは、姉さんだよ」
止まりそうになる足を必死に動かして、瞳は歩き続けた。
「だから、泣かないでくれ」
漏れそうになる声を必死に抑えて、瞳は歩き続けた。ポタポタと、小さな足跡をその瞳から溢しながら、歩き続けた。
エレベーターのドアが閉じる音を聞いて、修二は呟いた。
その涙の理由は、修二には分からなかったけれど――彼女の願いは知っている。
鷲崎瞳はいつだって、弟の
「その願い、今度はちゃんと叶えるから」
そして修二は、応接室のドアを押し開けた。
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