第35話 35 はれときどき慶太

 数年ぶりに味わった、くらいの切羽詰せっぱつまった気分でもって、晃は外の空気を肺に溜める。

 そして、各種マイナス感情も一緒に洗い流したい気分で、深々と息を吐いた。

 病院周囲を覆っている夜気は、真夏だとは思えないほどに涼やかだ。

 だが、精神状態に由来しての汗は止まってくれそうもなかった。

 優希とダイスケの表情にも、絶体絶命のピンチを脱した達成感は見えない。

 月明かりは二人の、後悔と焦心と苦悩を綯い交ぜにした渋面を照らしている。


「外、だよ……」

「外だな」


 ダイスケの呟いた言葉に、晃は振り向きもせずに返す。

 自分が間抜けなことを言ってると気付いてか、ダイスケは誤魔化すように咳払いを二つ続ける。

 窮地から解放されて気が抜けているのは晃も同じだし、優希もきっと似たようなものだろう。

 しかし、ここでボケッと突っ立っているワケにもいかない。

 正門へとつながる前庭を目指して、晃は足早に歩き出した。


 数分と経たず、三人は病院の正面入口付近へと到達する。

 行きには随分と不気味に思えた光景も、今となっては特に何も感じない。

 命の危険はない幽霊や怪現象なんかより、死に直結した狂人と暴力の方が比較にならない恐ろしさである、というのを思い知らされた今となっては。

 そんなことを考えつつ晃が病院の建物を見上げると、それを待っていたかのように男の声がした。


「遅かったじゃねぇか。あんな目に遭っときながらダラダラと残業たぁ、アレだ。ぐう畜ってだけじゃなくて社畜の素質もあんよ、おめぇらってばよぉおおお」


 無駄に通りのいいのがまた腹立たしいこの声は、クロのものだ。

 こちらからは姿が見えない――向こうからは見えているようだが、暗視スコープみたいな道具でも使っているのだろうか。

 晃はミニライトを上に向けて改めて凝視してみるが、絶望的な光量不足もあって人影らしいものも見つからない。


 何はともあれ、関わってもロクなことにならないのは確実だ。

 この場に留まれば、絶対に、確実に、不愉快な目に遭わされる。

 それは予感や予測ではなく、ほぼ予定と言って差し支えないだろう。

 なので、クロの声を無視して立ち去ろうとした晃だったが、そんな心の動きを知ってか知らずか、相手は聞き捨てならない感じの話を始める。


「テメェらの仲間にもな、キチンとお別れさせてやろうかと思ったんだが……こう暗くちゃ手を振られてもわかんねぇだろ? だからな、手をふらせてやることにしたわ、逆に」

「……ハァ?」


 クロの言っている意味が、サッパリ分からない。

 晃は声が発せられている辺りを睨み、優希は訝しげに首を傾げ、ダイスケは疑問の声を漏らす。

 そんなリアクションを見せた三人の背後に、何かが落下してきた。

 どちゃっ――と音を立てた、重量感と水分を感じさせる塊。

 見ない方がいい、と頭では理解していながらも、晃はライトを向けてしまう。


「ん……うぅうう? ばっ、うぇあああああああおぉん!」

「えっ? うそっ、やだっ、ふぁあ、あああああああああああっ!」


 ダイスケと優希が、疑問から驚愕に至る流れで同時に叫声を上げる。

 波打った石畳の上に転がったそれは、肘の辺りで切断された人の腕だった。

 晃が声をあげずに冷静でいられたのは、現実感に欠けたイベントの連続に慣れすぎたというのもあるが、先に落下物を目にした二人の反応から心の準備ができてしまった、というのもある。


「手を振る、じゃなくて手を降らせる、かよ……」

 

 ギャグにもなってない悪ふざけへの不快さに血圧を急上昇させつつ、晃は投げ落とされた腕に近付いて詳細に観察してみる。

 小指と薬指に石のない銀色の指輪をめた、体毛の薄い男の左腕だ。

 桃色の肉を晒した切り口は鋭い――が、骨までは刃物で断ち切れなかったのか、関節の辺りで強引にもぎ取った印象だ。

 

 慶太も玲次も、こんな指輪はしていなかったはずだし、腕回りも二人より細い。

 それにしても、人間の腕だけが地面にゴロリと投げ出されている、という絵面の非日常指数は、相当な高みに到達している感がある。

 リアリティがありすぎるのかなさすぎるのか、人体の一部というより最早『肉』として脳が認識してしまう。


 どむんっ――と、再びの落下音。

 土の上に落ちたらしく、さっきより低めの音を響かせていた。

 前回は左腕だから、今回は右腕だったりするのか。

 そんな醒めた精神状態でもって、落ちてきたものの正体を晃は確認する。

 予想通り、右腕だった。

 小指と薬指を切断された、少し日に焼けた肌色の筋肉質の右腕。


「ケイ……ちゃん?」


 ここにあるが、ここにいない人間の名を小声で呼ぶ晃。

 当然ながら、返事はあるはずもない。

 異変に気付いたダイスケと優希が寄って来て、硬直した晃が手にしたライトが照らしている先に目を遣る。

 ダイスケは吐き気を堪えるように右手で胸を押さえ、優希は怯えに潰されまいと両肘を抱え込むように手を組んでいた。


「くうっ、また腕かっ!」

「ヒィッ、うっ、あ? えっ! あの、晃くん、これって……」


 目の前にあるものが何なのか気付いたらしく、忙しく表情と顔色を変えながら訊いてくる優希に、晃は黙って頷き返す。

 これは間違いなく、慶太の体から断ち切られた右腕だ。 

 衝撃的な絵面が連続して許容量キャパシティを超えてしまったのか、優希は虚ろな目で大学の先輩の腕を見つめるばかりで、もう悲鳴も上げなくなっている。

 

「ぐっ! このゆっ、この指輪って……これ、翔騎んだ」

「あぁ……」


 晃と優希が話している間に、一回目に落ちてきた腕を視認してきたダイスケが、息継ぎのタイミングを見失いながら持ち主の名前を告げてくる。

 翔騎が腕を切断されたのは死んだ後だ――だが、慶太はどうなのだろう。

 既に殺されているのか、それとも生きたまま腕を斬られたのか。

 麻酔もせず生きたままで可能なのか、との疑念が一瞬チラついたが、リョウがあの規格外な怪力を駆使したら、大抵のことはどうにかしそうな気もする。

 妙にフラットな気分で晃がそんな想像をしていると、クロの品のない笑い声が虫の声を掻き分けて地表まで届いた。


「ぱっひゃっひゃっひゃっひゃ……せめてものリーダー的存在の思い出に、そのゴミ持って帰れや、な! ただし生ものだからよぉ、冷蔵庫に入れるのを忘れんなよ」


 糞みたいなアドバイスを告げたクロは、また楽しげに不快な笑い声を上げる。

 その声がフェードアウトした後、晃とダイスケは顔を見合わせる。

 互いの目に、数分前まで色濃かった怯えとは別物の色合いが宿っていた。


「どうする?」

「俺に……考えがある」


 ダイスケの口ぶりは、確かに何らかの腹案がある様子だった。

 それを信用することにした晃は、翔騎の左腕と慶太の右腕を回収し、小走りに正門へと向かうダイスケを追う。

 優希は虚ろな雰囲気のまま、それでも意外にシッカリとした足取りで、遅れながらも二人について行く。


 曲がりくねった道を駆け足で戻り、閉じたままの正門を乗り越え、着いた先は正門脇の駐車スペースに一台だけ停められたワゴンRの前、だった。

 呼吸を整えながら、晃はダイスケに訊ねる。


「それで――考え、ってのは」

「そいつは、こうだ」


 やはり息を切らせているダイスケは、その辺に落ちていた拳大の石を拾うと、それを助手席側のドアウィンドウへと叩き込む。

 思ったより小さな破砕音を残し、ガラスの半分ほどが粉々になって割れた。

 意図が分からず晃と優希は戸惑うばかりだったが、振り向いたダイスケの表情はどこまでも真顔だ。

 それから、不敵な笑みになり損なったとでも呼ぶべき、強張った微笑を無理矢理に形作って宣言する。


「あいつらに、反撃開始だ」

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