少女と僕と、魔女の微笑み

第30話 急転

 5月になって、体力テストがあった。

 体力テストは運動会に非ず。

 運動会は秋にあるらしい。


 握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、20メートルシャトルラン、50メートル走、立ち幅とび、ボール投げ。

 子どもたちの健康状態や運動能力を把握して、どういう教え方をすればいいか大人たちが考えるためなんだって。

 ちなみに去年までずっと家の中で過ごしていたルシィは、同世代の女の子と比べると、少し体力や筋力が低いようだ。


 僕はルシィが運動する時は更衣室で待機しているから、運動中のルシィを見たことがない。

 ただその後のルシィはよく凹んでいる。

 お家に帰った後曰く、


「あたし、ドンくさいってやつなのかも……」

『そ、そうなんだ?』

「男子が言ってたもん。運動が苦手な子はドンくさいって言うんだって」

『へえ』


 机にうつ伏せになりながら、ふてくされている。

 同情を買ってほしいのか、多少なり演技が入っているとは思うけど、気持ちは相当落ち込んでいるようだ。


「何もないところで転びそうになっちゃうし、走るのも遅いし、木登りなんてでできないし……」


 ぶうぶう、と止まらない小さな恨み節。

 あれ? けっこう深い悩みなのかな?


『体力なんて、成長すれば自然につく思うよ』

「……そうなの?」

『言っちゃ悪いけど、ルシィはまだまだ子どもだよ』

「……」

『ルシィはこれからどんどん大人になっていく。その時、少し頑張ればみんなよりも足が速くなるかもしれない』

「……ほんとに?」

『ルシィは頑張り屋さんだよね。遅れていた勉強はあっという間に追いついちゃった』

「うん、まあね。えへん」

『……だからその調子で毎日外で遊んで、走ったり、運動していればすぐに追いつくんじゃない?』

「……そっか。そうだよね……」


 機嫌を直して、僕を大事そうに胸に抱きしめるルシィ。

 子どもの胸だから今は男の子とそう変わらないけど、いずれこの胸も膨らんで、大人の女性になっていく。

 ルシィはどんな大人になるんだろうね。


『それにどれかひとつくらいは、いいところがあるんじゃない?』

「……たいぜんくつっていうのは得意かな」

『からだを曲げるやつ?』

「そうそう。ペターってなるよ」

『それはむしろ出来過ぎなくらいに上出来だと思うけど』

「そうかな、えへへ」


 ルシィも少しは自信を取り戻したところで、ニッコリ。

 いつもの笑顔も戻ってきた。

 ルシィがこの笑顔のままでいられるかは、僕次第なんだろうね。


 そんなことを思いながらルシィと僕は日常を重ねていく。


 ブアンドロセリの森、時計塔の紋章、地下水道。

 怖い思いをするようなところは避けながら過ごした。

 でも時々は、川の向こうから森をぼんやりと眺める日もある。


「妖精ってさあ」

『うん?』

「妖精ってなんだろうね? あたしの秘密に関係あるのかな?」

『どうだろうね。多分関係あると思うよ』

「だよね」

『っていうか、あの森自体がルシィに関係あるよね』

「だよね、だよね。ペントもやっぱりそう思うよね」

『……でも、行こうとは思わないよね?』

「うん……」


 今はそれで仕方ないよね。

 ルシィは1人ではまだ何もできないもの。


『大人になってさ、1人で何でもできるようになったら、あの黒い森に探検にいこうね』

「うん!」


 そう、これがきっと僕とルシィが歩む道なんだ。


「ペント! あたし、いいこと思いついちゃった!」

『なにさ』

「あたし、お父さんと同じ冒険家を目指すわ!」

『おー。そう来たか』


 子どもが語る夢は時として唐突で、なんの前振りもないけれど、こういう感じなのかなあ。


「あたしは世界を救わなくちゃいけないんでしょう?」

『らしいよね』

「だったらこの世界のことをもっともっと知らなくちゃいけないと思うの」

『……なるほど』

「ペントとこの世界中の端から、端まで、バーっと!」

『うんうん』

「どこまでもどこまでもどこまでも! ペントと、ずーっとどこまでも!」

『うん』

「どこまでも……。一緒に、いけたらいいよね……」

『うん、ずっと一緒だよ』


 もしこれがゲームなら、僕はこの日のことをセーブしたい、と思った。


 ルシィはなぜか泣いていたけれど、その理由は僕には分からなかった。

 でも夕暮れ時の土手の上、長く伸びる小さな影。

 僕はルシィのことがすっごく綺麗だなって思ったんだ。


 後になってから、何度もこの瞬間を思い出しながら、こんなことがあったよね、ってルシィと一緒に笑える気がした。

 僕はこの日常をずっと守っていけたらいいなって。


 でも6月に入ってから、そんな日常があまりにも乱暴で、残酷な現実に壊されてしまう。


 *

 *

 *


 授業中の教室に、バタバタと大人たちが入ってきて、イヴェット先生に耳打ちした。

 その瞬間に先生の顔色が変わり、厳しい表情になる。


「自習にします」


 先生の短い言葉で、教室がざわざわと騒がしくなる。

 少し耳を澄ませば、隣の2年生、4年生の教室も同じように騒がしい。


「ねえ、ソレニィ。何があったんだろう?」

「分からない。すごく変な様子だったよね」

「うん……」


 なんだろう、僕もすごく嫌な予感がするんだ。


 先生が戻ってきたのは、それからすぐのことだった。


「みなさん、少し大変なことになったので自宅待機になりました。今すぐ帰りましょう」

「ええ?」「えー?」


 ますます騒がしくなる教室。


『ルシィ、理由を聞いて欲しい』

「うん……。はい先生」

「なんですか。リュシルさん」

「その……なんで帰ることになったんですか?」


 ルシィの質問に先生が少し躊躇したように見えた。

 でも、次の言葉に僕も躊躇した理由を察した。


「私達の国が戦争に負けました。この街に、まもなく帝国の兵がやってきます」



 現実とはかくも残酷だ。

 何気ない日常も、子どもたちの夢も、大人たちの身勝手さがそれを全て台無しにする。

 ルシィには世界や人類を救うと言う大切な役目があるらしい。

 だけど、これも想定内の範囲なのだろうか。

 教えて、神様。


 *

 *

 *


『ルシィ、相談があるんだ』

「なあに?」


 神様は答えてくれなかったので、僕なりに出来ることをやっておくことにした。

 この相談も、そのうちの一つ。


『どうかな?』

「……分かった。ペントを信じるよ」

『ありがとう。じゃあ早速……』

「うん……」


 ごめんね、ルシィ。

 いっぱい泣かしちゃって。


 コガリア共和国敗戦の報せが届いてから3日。

 帝国の兵がダントンの街にやってきた。

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