結 夢叶う

 二日の間降り続き、都を真白に覆った雪が、淡い日差しを浴びてあっけなく姿を消した日、その知らせは突如義照の許にもたらされた。

 葛野かずらのへ戻るための荷もすっかり纏め終えたというのに、今から頭中将がやって来ると先触れが来たのだ。しかもそれは、右大臣みぎのおとどの名代としてだという。

 その頭中将こそは、かつて娘に通っていた男であり、位低い若輩者よと見下した相手でもあることを義照とて忘れたわけではなかったが、そもそも結子に対して特に愛情を持つわけでもなく、また、他人ひとの気持ちに関心を抱いたこともない彼が、娘の身に何が起こっているのか気づけようはずもない。

 いったい大臣おとどが今さら何用なのか、いずれにせよ向こうから訪ねてくるとは悪い気はせぬ、などと呑気に考えるばかりの義照は、気まずさは微塵も感じぬまま、いそいそと荷の中からお気に入りの衣を取り出して念入りに身支度をし、その訪れを待ったのだった。

 右大臣家による結子への正式な求婚はだから、義照にとってある意味青天の霹靂ではあったものの、彼を舞い上がらせこそすれ、特に反対する理由など見つかるはずもない。

 雅嗣に対するかつての仕打ちも、ほんの数日前に結子が元亘の求婚を断った時の苛立ちも綺麗さっぱり忘れ、ただ、目の前のこのように立派で美々しい、そして主上おかみの御覚えもめでたい男が、父にとってはさして魅力的とも思えぬ中の君の夫、つまりは己が婿となる幸運に酔いしれながら、義照は嬉々として承諾した。その時の様子を、ただ黙って見つめていた雅嗣の心のうちがどれほど冷ややかなものであったかなど、義照には一生分からぬであろう。

 それよりよほど内心穏やかでなかったのは、その場に居合わせた元亘の方だったに違いない。

 万里小路までのこうじの邸でを起こすはずが女房ふぜいに阻まれ、さて、どうしてくれようかと煮え立つ思いで思案していたところにその訪れである。あの雪の中、見かけた牛車くるまは確かに中将のものであったと今さら気づいても、いったい何ができるというのか。

 先触れの男が帰っていくその背を見送ったあと、元亘はくっと顎を上げると、美しい目を眇めて隣に座る叔父を冷ややかに一瞥し、そしてはっきりと理解した。

 この、のうのうと隣に座る愚かな男が、実はどれほど己の役に立たぬ者であったかを。

 あれほどまでに練り上げたはずの目論見が──名誉と邸と、初めて少しばかり興味を抱いた女、そのすべてを手に入れることのできるはずであったその計画が、頭中将のによってあえなくついえるだろうことを。

 それもこれもみな、己に相応しい官位がないばかりにこのようなことになった、と考えたのかどうか。

 穏やかならぬ心の中で、まだすべてを失ったわけではない、この愚かな男から奪い取る次の手段を、と思い巡らしつつも、元亘はその形よいくちびるを僅かに歪めたあでやかな笑みを浮かべ、葛野行きには必ずつき従うと義照と晴子に約して彼らの前を辞した。

 だがその出立の日、彼を待つ二人の前に、ついにその姿を見せることはなかった。つまり、最後の最後まで見事な態度で義照たちを騙し通し、そして再び裏切ったのだった。

 そしてもう一人、あれほどまで義照たちに媚を売り、すり寄っていたはずのすけの姫君も、義照出立の日の朝、父である東宮亮とうぐうのすけの邸から子を残したまま忽然と姿を消した。

 好奇に満ちた都人たちの間で、どうやら東宮亮が出仕もできぬほどに参っているそうだ、と面白おかしく噂が囁かれたのは、それからしばらく経ってからのこと。だがその噂も、あの堅物の頭中将がついに北の方を迎えたらしい、という新たな噂にかき消され、ひと月ほどのちにはもう、すっかり忘れ去られた。




「姫さま、お迎えの牛車くるまが参りました」


 茅野が、宮の方 逸子の許にいる主人にそう声をかけた時、結子は深々と頭を下げているところだった。


「……貴女のお幸せを、祈っていますよ」


 逸子の声は少しばかりうわずり、心なしか震えているようにも聞こえる。茅野は、上目遣いでそっとそちらの様子を窺った。

 薄い蘇芳すおうひとえ白御衣八しろのおんぞやつ、そこに葡萄染えびぞめの小袿を襲ねた結子が、逸子に手を取られて静かに立ち上がる。すでに酉の刻*の頃、夜闇に沈んだ対屋の中で燭に浮かぶ二人の姿は、まるで母娘そのものだ。

 あの雪が降った数日後、雅嗣は逸子の許を訪ね、結子を妻に迎え入れる許しを請うた。

 かつての出来ごとのすべてを知るわけではないけれど、それでも、逸子と雅嗣それぞれに複雑な心情があることくらいは理解しているつもりだ。その二人が対面して、恐らくは初めて言葉を交わすのだ。茅野は結子の傍に控え、ただ息をひそめて待った。その時間の、どれほど長く感じられたことか。

 ずいぶんと経った頃、ようやく結子がいる対屋のひさしに現れた雅嗣は、その目に涙さえ浮かべ、茅野の存在には目もくれずただ一心に結子だけを見つめていた。どのくらいそうして視線を交わし合っていたか、やがて静かに結子の許にひざまずいた雅嗣は、不安に揺れる結子の瞳にこれ以上ないほど甘やかに微笑みかけて、そっとその頬を両の手で包んだ。そして、言葉もないままに結子をその腕に抱き寄せたのだった。

 そんな二人の姿を見た茅野は、浮かんだ安堵の涙を隠して深く頭を下げると、静かにその場を離れた。この日のことは一生忘れぬだろう、と思いながら。

 二人の婚儀は、義照が葛野に帰ったのちに父不在のまま万里小路の邸で執り行われたが、それはさまざまな配慮もあって、露顕ところあらわし*もせぬ非常に慎ましやかなものだった。三日夜餅みかよのもち*を用意しながら、頭中将さまともあろうお方の婚儀ですのに、といくら不満げにこぼしても、わたくしたちらしいでしょう、と伏せた目許に微笑みを載せるばかりの結子を、これまで見た中で一番美しいと茅野は思った。

 そして今日、新しい年を迎える前には、という雅嗣の願いを聞き入れて、結子はこの万里小路の邸を出る。


「茅野?」


 じっと二人の姿を見ていた茅野は、結子に呼ばれて我に返る。慌てて頭を下げ二人のあとに続くと、中の君をお願いしますよ、と逸子に念を押すように言われた。

 逸子が愛おしそうにそっと結子の頬に触れ、しゅると衣擦れをさせて身を引いたのが別れの合図となり、静かに車宿くるまやどりへと向かう。

 若菜の君のことがあって紀伊の邸から移ってきて以来、結局半年近くとどまったこの邸を、結子はふと足を止めて感慨深げに見渡した。


「そんな悲しげなお顔をなさらずとも、またすぐにお目にかかれますよ」


 茅野はそう言うと、手にした脂燭しそくを高く掲げ、そっと主人に手を差し伸べた。瞳を覗き込みながらにこりと笑えば、結子もくちびるに微かな笑みを浮かべる。


「そうね」


 茅野に手を取られた結子は小さく息をつくと、もう一度名残惜しそうに視線を上げた。


「それでも、慣れ親しんだ場所を離れるのは寂しいことよ……いつだって」


 そう呟く結子の背をそっと押して、茅野は渡殿へと導く。もう、とうに陽は沈んですっかり闇に覆われた冷たい廊に、衣擦れの音だけが響いた。


「──そうそう、姫さま。先ほど聞いたのですけれど」


 そう言って茅野はそっと結子に顔を寄せ、ひそめた声で続けた。


「ようやく、亮の姫君の居場所が分かったそうですわ」


 ぴくりと眉を動かして茅野の方に視線を向けた結子に、茅野はしたり顔で頷く。


七条坊門しちじょうぼうもんの、東市ひがしのいちのすぐ近くだそうです。賑わいに紛れるように、小さな邸にお住まいでいらしたとか」

「七条……」

「しかも、そちらをお世話なさったのは右京大夫さまであったと伺いました」


 車宿へと曲がる角の前で、結子はまた足を止めた。ちょうどあの秋の日、元亘と最後に会った場所だ。

 義照と晴子が葛野へと旅立った日を境に行方をくらませた二人のことを、元亘はともかく亮の姫君は女の身、しかもお子を残してどこで何をしておられるのか、と結子も案じていたのを知っている。


「そう。見つかって……ご無事でよかった」


 結子はだけど、何の感慨も籠らぬ声でそう呟いただけだった。

 心許ない脂燭の光だけでは、その表情までは窺い知れぬけれども、元亘の存在がなんとも後味の悪いものであることだけは確かだ。この場所で、諦めぬ、と結子の背に向け言っていたあの男は、まだ不埒な企みを胸に抱き続けているのだろうか。不安の火種は未だ燻り続けたままなのであろうか。

 そんなことを考えていると、その話はいったいどなたから? と結子が尋ねた。

 茅野は視線を落として答える。


「康清……殿の従者からです。その者が、殿の命を受けて調べたようにございます」


 茅野は言いながら、心にある不安を振り払うように考えた。そうだ、殿がいらっしゃるではないか。殿がおられる限り、他の男が姫さまに近づけようはずはない。茅野が、自分を納得させるかのようにそう心に念じていると、ふわりと遠くを見るような目で、結子が呟くのが聞こえた。


「……葛野はもう、雪深いことでしょうね」


 その万感の思い込められた言葉に茅野ははっと視線を上げたのだけれど、結子はどこか寂しげに笑うばかりでそれ以上は何も語らず、それきりもう、後ろを振り返ることもなかった。

 小式部を始めとした万里小路の女房たちに別れを告げた結子が牛車くるまに乗り込んだ時には、酉の刻も半ばを過ぎていた。殿がお待ちだ、急げ、という康清の声がして、やがて車はゆるりと邸を離れた。




 ぎぎ、と牛車が軋んで幾度めかの角を曲がると、元より緩やかな牛車の動きがより緩慢になり、やがて停まった。付き従ってきた者たち以外の人の気配もざわめくように届いて、結子はつと顔を上げる。

 僅かに差し込む明かり以外にほとんど光もない囲われた空間で、小さな掛け声とともに牛の外されたらしい揺れに襲われて、結子は思わず手をついた。何やら、ひそめた話し声が聞こえる。その一瞬一瞬がひどく冗長に感じられて、結子は一度深い息を吐き出した。

 万里小路や楊梅やまもも小路の邸とは違って、多くの者たちが控えているらしいその気配に、手にした衵扇あこめおうぎを開いて前に翳す。それと同時に、姫さま、と外で茅野が小さく呼びかけてきた。

 あれほど望んだ場所。夢にまで見た、邸。そこに今また、主として立ち入ることを許されるとは思ってもみなかった。

 静かに御簾が巻き上げられ、その瞬間、母の記憶を呼び覚ます邸の空気が車のうちにまで流れ込んできた。扇の陰からちらと向けた視線の先には見慣れた、だけどひどく懐かしい柱も見え、結子は思わず、あ……と声を零し、僅かに眉をひそめる。


「どうして……」

「姫さま?」

「どうして、東の対ここに?」


 そこは二条堀川邸の車宿ではなく、東の対の妻戸の前だった。じかに対屋へ入れるように車が寄せられていたのだ。


「ああ……それは、殿のお言いつけでございますゆえ」


 そのことですかと微笑みながら差し出された茅野の手に、殿が? と訝しげに呟き、ほんの少し躊躇ってから自分の手を重ねた。静かに車から身を滑り出させれば、見知った顔も含めて幾人かの女房が待ち構えているのもちらと見えた。

 うつむきがちにしじに立ち、それから妻戸の方へ一歩を踏み出そうとしたその時。

 わたしが、と間近で声がして、茅野のものよりもっと大きな、力強い手に包まれた。


「ようやく、まことのあるじを迎えることができて、邸も喜んでいますよ」


 そんな雅嗣の声とともに腕を引かれ、結子の身体がふわりと浮かぶ。まわりの女房たちから、羨望の滲んだどよめきが湧き起こった。


「……殿!」


 あまりのことに、今、まわりの人々に己の姿がどう見えているのか考えたくもない。羞恥のあまり、それ以上は何も言えなくなった結子にだけ聞こえる声で、雅嗣が言った。


「逢いたかった」


 その瞬間、翳した扇の陰で顔を真っ赤に染めた結子は、雅嗣に抱えられたその腕の中で必死に非難の声をあげる。


「……まわりの者が見ております」

「構いませんよ」

「恥ずかしゅうございます……わたくしは、姫宮さまでもございませぬゆえに」


 雅嗣は結子の言葉も意にも介さぬように飄々ときざはしを上って、東の対の妻戸をくぐる。それから、扇の中を覗き込むようにして、そっと囁いた。


「わたしは、宮さまよりもっと得難いお方を得たのですから」


 その言葉が雅嗣の吐息とともに耳に入り、結子はその耳朶まで真っ赤にして身をよじる。恥ずかしくて恥ずかしくて、もう、どうにかなってしまいそうだ。


「……殿、お願いですから……どうか、お離しくださいませ」


 あまりに結子が嫌がるので、雅嗣は仕方なくそっと結子を床に下ろし、つまらなさそうな声でこぼした。


「残念だな。そんなにお嫌でしたか?」

「嫌というのでは──」


 そう言いかけて、視線を上げた結子は雅嗣の腕に扇を持つ手をかけたまま、言葉を呑み込んだ。

 二条堀川邸、東の対。

 大殿油おおとなぶらの灯に浮かび上がるそのすべてが、結子の記憶に残る姿のままに在った。

 残していった調度も、再び運び込まれた持ちものも、その何もかもが、かつて結子の暮らしていた頃と同じように設えられている。

 それもこれも、雅嗣が義照の抱える借金をすべて肩代わりしてくれたお陰だ。結果、この二条堀川の邸は義照ではなく雅嗣と結子のものとなった。そしてまた、二人のために邸を空けてくれた内大臣 有恒とその北の方 佳子──雅嗣の姉の好意があることも、結子は言葉にできぬほどの感謝と申し訳のなさを感じている。

 呆然と言葉を失ったままふらりと雅嗣から離れて、置かれた古い二階棚にそっと触れた。螺鈿の細工も美しい、母ゆかりのその棚は、この邸にこそふさわしいと残していったものだ。ひんやりとした感触に指を置いたまま、対屋の中を見まわしてみる。どちらを見ても、まるでずっと結子がそこに暮らしていたかのように、几帳も文机も鏡筥かがみばこ*も、すべてのものがあるべき場所に収まっていた。


「お気に召しましたか?」


 静かな声でそう尋ねられて振り返ると、やわらかな笑みを浮かべた雅嗣が、包みこむようなまなざしでじっと結子のことを見ていた。

 再び心が通い合ってからもう幾度、この瞳に包まれ、溶かされたことだろう。

 結子の目に、じわりと涙が浮かぶ。


「もちろん……」

「この場所におられる貴女を見れば、まるで時が戻ったように感じますね。貴女も、あの頃とまったく変わっておられぬ」

「そんな……ことは、ございませぬ」


 そう言いながら、いつだったか、すっかり変わってしまったと言われて傷ついたこともあったと思い出して、結子は微かに笑みを浮かべた。けれど、それも昔の話と目の前にいる雅嗣の姿を見れば、こらえた涙が溢れ出してしまう。それを見た雅嗣は、困ったように笑いながら結子の肩を抱いた。


「わたしは変わってしまったかな? だが、わたしだって八年前のことは何ひとつ、忘れることなどできなかった」


 そう呟くように言った雅嗣に手を引かれ、これで間違いはないかな、と尋ねられて対屋の中をぐるりと見てまわった。いつの間にか人払いがされ、女房たちの姿はない。雅嗣は結子の手を強く握りしめ、いくつかの灯が点された中を、未だ開いている半蔀のところまで結子をいざなった。そこから見えるのは二人を繋いだ、あの桜だ。

 ああ、と声にならぬ思いが結子のくちびるから零れ落ちた。隣に立つ雅嗣の胸に、ことり、と頭を凭せかける。


「ありがとう、存じます……殿」


 しんと冷えた夜闇の中で、ますます立派になった枝が、邸からこぼれる明かりにぼんやりと浮かび上がる。

 今はまだ花も葉もないけれど、春になればまた、あの美しい姿を見られるだろう。帰ってきたのだ、と、結子が心の奥底から実感した瞬間だった。


「わたくしは、どうやってお礼を……? それに、内大臣さまと北の方さまにも」


 そう呟いた結子を、雅嗣もまた桜を見つめながらしっかりと抱いた。


「姉上にはまた、近々会えるでしょう。たいそう喜んでおられますよ。いつも、貴女のことばかり気にかけておいでだ」

「もったいないこと……」

「今これからは、貴女がこの邸の主。そして、わたしの戻る場所もここです。これからはいつも一緒ですよ。一生……」


 雅嗣がそう言いながら、ふと視線を動かした。

 あの日、雨の中を飛び出していった廂は、今はしっかりと蔀戸を閉じてある。


「……もう、二度とわたしを拒まないで」


 それを聞いた結子は雅嗣の腕の中で、はっと小さく息を呑んだ。

 結子にとっての懐かしい邸は、雅嗣にとって辛い記憶の場所でもあったのだと、今改めて気づかされる。


「ごめんなさい……本当に」


 結子のか細い呟きに、雅嗣の手がその背を撫でてくる。


「あの時は貴方さまを守ろうと必死で……幼いわたくしには、ああすることしか思いつかなかったのです。それが間違いだったということは、すぐに気づいたけれど……だからといって、あの時のわたくしには……」


 大切なひとを傷つけたと自分自身を責め続けた己に何ができただろう、という言葉を呑み込んだ結子の背を、雅嗣の手が、分かっている、とでもいうようにぽんぽんと叩く。


「どうか、お許しいただけますならば……」


 消え入るような声でそう言って雅嗣の胸に深く顔をうずめると、すっかり慣れ親しんだ薫りが結子を包み込んだ。

 雅嗣はもう、それ以上そのことを話そうとはしなかった。たとえどのような時を経たにせよ、今こうして二人でともにいる。二人とも、もう充分に苦しんだ。それを知る今はもう、これ以上囚われて時を費やすべきではないと分かっているつもりだ。

 愛しいひとを抱く腕を雅嗣はそっと緩め、結子の頬に手を添えて上を向かせた。

 夢見ることすら許さぬと己を戒めた憧れが叶った今も、喜びを素直に受け止めることさえ慣れていない結子に、雅嗣は優しく問いかける。


「ほかに、お望みは?」


 その言葉に、結子はまじまじと雅嗣の顔を見返した。


「望み?」

「そう。貴女にして差し上げられることは、ほかにあるかな? 露顕もしておらぬ分、しばらくは貴女に無理をさせることもあるでしょうから……その代わり、望みごとがあれば何でも聞きますよ」


 そう言いながらどこか楽しそうな瞳で見つめてくる雅嗣に、結子は何かを言おうとして口を開いたまま、しばらく言葉を探すように瞬きを繰り返した。それから、小さく首を傾げて言った。


「では、ひとつだけ。……乳母めのとが、もうずいぶん長いこと、病に臥せっているのです」

「右京どのが?」


 雅嗣も覚えているのか、笑みを収めて少し驚いたような声をあげた。


「ええ。今は、荒れた家に寂しく住もうております。それで……もしお許しいただけるのでしたら、ともに暮らす乳母子めのとごの弥生ともども、この邸に引き取りたいのですが」

「……もちろん。あの頃、わたしはどれほど右京どのに助けられたか」


 それを聞くと、結子は安心したように笑みを浮かべた。


「右京たちもきっと、喜びますわ」

「ほかには?」


 雅嗣が尋ねれば、結子はまだ? と言わんばかりの思案顔をして、しばらく考え込む。その時吹き込んだ、鬢枇びんそぎを揺らす冷たい冬の風に、ふと葛野にいる父と姉のことを思い出した。


「……今すぐとは申しませんが、いつか、お父さまとお姉さまを──」

「貴女の望みは、どれもこれも人のためばかりだ。貴女自身の望みはないの?」


 雅嗣は呆れたように投げやりな風を装った声でそう言いながら、結子を見る。


「だって……」

「で、あの義父上と義姉上をこの邸に、と?」


 雅嗣はくうを見上げ、まっぴらごめんだ、と心の中でだけ本気で呟いて嘆息した。そんな雅嗣の様子を、結子は上目遣いでじっと窺っている。その視線に気づいて、雅嗣はもう一度ため息をつくと肩をそびやかした。


「……分かった、分かりました。いずれはね。でも、今しばらくは、難儀な暮らしを続けていただいてもいいのではないかな。そのうち、どこかに邸でも見つけますよ」


 雅嗣の言いたいことも分かる。結子だって、決してあの父や姉と一緒にいたいわけではない。ただ、見捨てることはできぬと思うだけだ。

 結子は、どう答えていいのか分からぬまま曖昧な笑みを浮かべつつ、それでも小さく頷いた。


「はい」

「で、ほかには?」


 少し意地悪な笑顔で結子の視線に己の視線を合わせ、雅嗣はまた尋ねる。

 結子は困り果てて必死に考えたけれど、もう何も思いつかなかった。じっと見つめてくる雅嗣のまっすぐなまなざしに、結子は乙女のように頬を朱に染め、視線を泳がせる。そして小さな声で精一杯の願いを伝えた。


「……どうぞ、わたくしを一生、殿のおそばに……」


 それを聞いた雅嗣がどんな表情をしたか、それはもう結子には見えなかった。なぜならその瞬間、息が止まりそうなほどに強く、雅嗣に抱きしめられたから。

 その白い袖のうちで、小さく呟く雅嗣の声を聞いた。


「なんとまあ、欲のない北の方であられることよ」


 その、言葉とは裏腹な優しい声の響きと、北の方、という呼び名に、結子は嬉しさと気恥ずかしさを隠して雅嗣の胸にそっと頬を寄せた。そうして静かに目を閉じると、衣に伝わる彼の鼓動を感じる。

 なんてあたたかなのだろう。心が、あたたかい。結子は、己の鼓動も早くなったのを感じながら、うっとりと呟いた。


「だって……幸せですもの。夢は叶ったのですもの」


 それを言い終えるより早く、雅嗣が結子の額に長い口づけを落とした。ゆっくりと顔を上げた結子のまぶたに、こめかみに、そして頬にも、同じように雅嗣のくちびるが触れていく。くすぐったいと思わず微笑んだ結子は、くちびるに雅嗣の口づけを受け止めると、その優しさにすべてを委ねた。


 ***


 そうして、時は流れて。

 静かな夜の気配が忍び寄る春の宵、二条堀川邸の車宿に、逸子の乗った牛車が静かに入った。

 降り立った逸子を、弥生と茅野が迎え入れる。二人の姿を見て、落ち着いた紫の薄様を纏う逸子は、静かに微笑んだ。


「ようこそおいでくださいました。殿も北の方さまも、今か今かとお待ちにございます」


 弥生が言うと、二人を代わるがわる見ていた逸子が問うた。


「お久しぶりね。もう、他の方はいらしていて?」

「はい、内大臣さまと北の方さま、それに、大丞さまと北の方さまも。右衛門佐さまはまだ……」


 茅野が答えるのを聞いて、逸子は思い出したように尋ねた。


「大丞どのの北の方は身重でいらっしゃるのだとか?」

「はい、でも、とてもお元気そうでいらっしゃいますよ」


 楽しげに話す茅野の言葉に、そう、と逸子は頷いて、静かに邸に足を踏み入れた。

 結子がこの邸に戻って初めての春だ。美しく磨き上げられた廊の板の黒光りする美しさも、かつてと変わらない。その上を逸子の衣と、そのあとに続く二人の衣の擦れる音が滑っていく。


「弥生、右京の調子は?」

「相変わらずでございます。でも、今宵は気分もよさそうで、厚かましくも殿の後ろに控えております……どうかお許しを」


 もちろんよ、と逸子はまた頷いて、ゆっくりと東の対に向かう。十六夜いざよいの今宵、美しく咲いた桜を愛でようと、ささやかな集いがあるのだ。

 東の対が見える透渡殿すきわたどのまで来ると、この邸で一番美しい桜の樹が今を盛りと花をつけているのが見えた。下に焚かれた篝火の明かりを受けて、まるで幻のように美しく浮かび上がっている。

 思わず見惚れて足を止めたその時、対屋から箏の琴が聴こえてきた。逸子が我が娘とも思っていつくしんでいる中の君の音色は、頭中将の北の方となって以来、ますます豊かに美しくなっているようだ。

 昨年の秋、積年のわだかまりを胸のうちに収め、逸子の許を訪ねてきた頭中将の態度に、結子への揺るぎない想いを見た。二人の婚姻を認めることは、彼らの想いを否定したかつての自分自身を過ちであったと認めるも同然だったけれど、もはや逸子にそれを拒む理由は見つからなかった。

 若干の苦い思いとともに結子が奏でる音色に耳を傾けていた逸子は、その時鳴り出した澄んだ笛の音が箏の音にぴったりと寄り添うのを聴いて、はっと視線を上げた。

 高く低く、まるで春の空を戯れ飛ぶ仲睦まじい二羽の鳥の如く、軽やかに響き合うその音色の冴え渡るさまは、邸と花の美事な光景と相まって、この世のものとも思えぬ美しさだ。不意に逸子のまなじりに涙が浮かぶ。

 しばらくじっと聴いていた逸子は、心のうちで貴女、と呼びかけた。結子たち三人の娘の母である友を呼ぶ時、逸子はいつもそう呼んでいたのだった。

 聴こえるかしら、と心に囁き、ほ、と吐息を零した刹那、その吐息に誘われたかのような一抹の春の夜風が吹き、夢幻の桜が一片ひとひら、また一片と逸子の傍らを流されて、吸いこまれるように夕闇の中へと消えていった。

 空を見上げてその儚い花の行く末を見送った逸子は、袖で涙をそっと押さえると、その口許に穏やかな笑みをたたえ、結子たちの待つ東の対へと静かに裾を捌いたのだった。





──────────


酉の刻

現在の午後七時の前後二時間。


露顕

男君が女君の許へ三日続けて通ったのち、その婚姻を広く知らしめるために行われたもので、この時正式に婿と舅が対面し、人々を招いて宴も催されました。今の披露宴の前身。


三日夜餅

三日目の夜の訪れも滞りなく済むと、女君の家で用意された銀盤に盛られた餅を夫婦ともに食す儀式がありました。それぞれ3個ずつ、男君は噛まずに飲み込まねばならなかったとか?


鏡筥

室礼のひとつ。鏡の形に合わせた円形、または八稜はちりょう形(八つの花びらの花形)の、蒔絵や螺鈿で趣向を凝らした筥で、鷺足の台の上に載せました。中には、鏡だけでなく、鏡を掛けるための羅紐らひも、鏡を包む入帷いりかたびらまもり汗手拭あせたなごい領布ひれ、枕など身の回りの品を納めるのに使いました。



──これにて完結です。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。



 ***


── 参考文献 ──


《書籍》

Austen, Jane (1818). Persuasion. Mineola, New York: Dover Publications, Inc.

オースティン、ジェイン(1818)『説得』(中野康司訳)筑摩書房(ちくま文庫)

オースティン、ジェーン(1818)『説得』(大島一彦訳)キネマ旬報社

オースティン=リー、J. E.(2011)『ジェイン・オースティンの思い出』(中野康司訳)みすず書房

五島邦治/風俗博物館(2005)『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』光村推古書院

長崎盛輝(1996)『かさねの色目 ─平安の配彩美─』京都書院

『新版 古今和歌集』(高田祐彦訳注)角川学芸出版(角川ソフィア文庫)

池田亀鑑(1964/2012)『平安朝の生活と文学』筑摩書房(ちくま学芸文庫)

土田直鎮(1973/1998)『日本の歴史 5 ──王朝の貴族』中央公論新社(中公文庫)

山口博(1994)『王朝貴族物語』講談社(講談社現代新書)


《論文》

宇野千代子(2002)「冷泉為恭筆「年中行事図」について」『待兼山論叢 美学篇』36. pp.27-51. 大阪大学


《ウェブサイト》

倉田実「絵巻で見る 平安時代の暮らし」三省堂ワードワイズ・ウェブ

 http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/table_of_contents/倉田-実さん:絵巻で見る%E3%80%80平安時代の暮らし/

「源氏物語─光源氏 六条院の考証復元」(玉上琢彌監修/大林組プロジェクトチーム復元)季刊大林

 http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/genji/p01.html

(2015年6月現在)


── おまけ ──


《音楽》

M. ブルッフ『スコットランド幻想曲』作品46

ヴァイオリン:五嶋みどり

指揮:ズービン・メータ

演奏:イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

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説得 夕月 櫻 @yufuzuki_sakura

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