二十五 苦しみと幸せ

 八年前、あの方と明るい陽の光のもとでお逢いしたことなど、一度もなかった。

 なのになぜその姿は、あの頃のことをこんなにも切なく思い出させるのだろう──




 一気にやわらかな光溢れた紀伊守邸の母屋もやの、そのひさしに座る雅嗣の顔は影になっている。まこと雅嗣の瞳がこちらを向いていたのか、咄嗟に扇を上げた結子には、もうすでに分からぬことだ。それでも、その瞬間感じた雅嗣の視線は、昔のものに似ている気がする。

 いやが上にも高まる鼓動に胸苦しさを覚えながら、結子は心のうちの動揺を追いやるように尋ねた。


「……初音の君と若菜の君はどちらに?」


 結子の方を振り返った前の播磨守の北の方は、困ったような笑みを浮かべて、それがね、とこぼす。


「……お池へ行かれた?」

「ええ、ようやく雨も上がりましたでしょう? 姉の方は婿君の邸に移るものですから、もう、姉妹一緒にこの邸で過ごせるのもあとわずか、と言って……」

「まさか、お舟にでも?」


 結子は思わず足を止め、池の方を見遣った。かつて若菜の君が落ちた、あの池を。


「まさか! それだけは、娘たちが望んでもわたしが許しませんよ。大丞たいじょうさまとてお許しにはなられぬはず。いえね、紅葉を見るのだと言って、婿君がたも、ともに釣殿のほうへ」


 鄙で自由気ままに育った闊達な姫君たちが、人のとして収まる前の最後の時を楽しんでいるのだろう。あの、目を閉じたまま横たわった若菜の君の心痛む姿を思えば、それはきっと喜ばしいことだ。

 そうなのですね、と笑みを浮かべた結子の、何気なく池から戻した視線の端をまた、雅嗣の姿がかすめた。

 見間違いではない、こちらを向いておられる。そう意識した瞬間、頬が強ばった。扇を隔てているにもかかわらず、向けられた視線が痛いほどに心を突き刺す。いきなり、苦しみに縁どられた幸せの中にでも放り込まれた気分だ。


「……お元気になられたのは何よりです」


 かすれた声でなんとかそれだけ言うと、北の方は結子の様子など気づいておらぬように続けた。


「あの出来事があってから娘もずいぶん変わりましたよ。大丞さまのお導きのお陰で、この頃は書など読んで過ごしておりますのよ、あの娘が……。皆、じきに戻ってくると思いますわ。それまで、絶対に二の姫さまを引き留めておいて、と言われておりますの。どうぞごゆっくりなさってね」


 図らずも、一度に二人の姫の婿君を迎えることとなった北の方はそう言って満足げに笑うと、立ち止まったままの結子の背をそっと押して廂へといざなう。ふわふわと地に足のつかぬような感覚のまま、結子はなんとか几帳で仕切られた茵についた。

 移菊うつろひぎく*の落ち着いた色目を身につけた内大臣の北の方 佳子は、そんな結子をじっと目で追い、腰を下ろしたのを見計らったように声をかけてきた。


「ご機嫌よう、中の君。宴以来ね。お会いしたかったわ、貴女とお話したいことが色々あるのよ」


 その思いやりに満ちた言葉に結子は微笑みを返し、ご機嫌よろしゅう、と深く頭を下げる。横では妹の任子が、葛野に行ってしまう前に父や姉に会いに行きたいと言って、護貞を困らせている最中だ。視線を上げれば、少し困ったような、でもその状況を楽しんでいるようにも見える佳子の瞳とぶつかった。佳子は結子に、悪戯っぽい瞳をくるんと動かし、肩をそびやかして見せた。


「──ねえ、殿、いいでしょう? 次はいつ会えるか、分からないのですもの。それに、元亘もとのぶさま……右京大夫さまにも未だ、お目にかかっていないのよ」


 任子がむきになって言っている。護貞はふん、と鼻を鳴らした。


「右京大夫どの?」

「ええ、そうよ。今はただ、あの方を頼りにするしかないの。それは殿もお分かりでしょう? わたくしも、早くお目にかかっておかなければ」


 話の流れが見えてきて、結子の顔から笑みが消えた。ひそめた声で喋ってはいても、隠しようもない声音に思わずうつむく。几帳の向こうにはあの方がいらっしゃるのだ。何も、このような場で話さずともよいものを。

 雅嗣は、何やら頼彬と話し込んでいる様子で、任子の話は聞いてはおらぬらしい。そのことだけが救いだと考えたその時、苛立ちを隠せぬ護貞がちらりと結子の方を見てから、語気を強めて任子に言い放った。


「おかしなことを言う、貴女はこの邸で何不自由なく暮らしているではないか。右京大夫どの? いけ好かないね、あの男は」


 しん、と嫌な沈黙が落ちる。雅嗣と頼彬もさすがに今の護貞の声は聞いたようで、話すのをやめた。

 あの賀茂祭の日のこと以来、護貞が元亘を好意的に思っていないのは知っていた。任子はといえば、まあ! と呟くなり絶句して、ぎりぎりと夫を睨みつけており、それがまた不穏な空気を煽っている。

 結子は思わず嘆息し、ぎゅっと目を瞑った。つい今しがたまでの高揚した気持ちは、一瞬で萎れてしまった。


「……ねえ」


 やがて、任子が懲りずに口を開く。


「本当に許してくださらないの? 殿? 殿──」

「お父さまもお姉さまも葛野へ移る前は色々とお忙しいでしょうから……ね、お文だけで充分よ」


 お願いだからこんな話はやめて、という姉の思いにも気づかず、任子はさらに声高く言い募った。


「お姉さまはいいわよ。だってもう、元亘さまとなさっておいでなのでしょう?」

「……三の君!」


 妹のあまりの言い草にひそめた声で強く呼ばわった結子は、思わず雅嗣のいる方に視線を馳せた。

 折しも、光を孕んだ風がそよいで、几帳の帷がふわりと揺らいだ。きらと閃いた陽差しを背に、横を向いていた雅嗣が、わずかに振り向いて結子を一瞥するのが見えた。その視線は、先ほどと違ってあまりに冷ややかに感じられ、結子は慌てて目を逸らす。

 情けなさに泣きそうになりながら、結子は焦りを滲ませて任子の袖を引いた。その時、じっと様子を窺っていたらしい佳子が唐突にぱちん、と音を立てて扇を閉じ、北の方、と呼んだ。


「一度にお二人の姫君のご準備とは、さぞや大変なことでしょう」


 その場にいる皆の視線が佳子の方を向く。その助け舟に、結子もまた縋る思いで佳子の方を向いた。


「それでも、慶ばしいことですもの、苦にはなりますまい。紀伊の方もそうではございませぬか?」


 にこやかに微笑みながら、佳子は明るくそう尋ねた。話を振られた任子は一瞬口ごもり、それから、ええ、と薄い笑いを浮かべて頷くと、それきり黙り込む。

 佳子が機転をきかしてくれたお陰で、元亘の話はそこで断ち切られた。場の空気が再び和やかになったのをきっかけに、結子はそっと佳子に頭を下げる。

 北の方は、二人の婚儀の準備を一度にすることがいかに大変か、と嬉しそうに愚痴をこぼし始めた。結子もその会話に加わろうと試みたけれど、一旦かき乱された心は収まりそうにもなかった。身のうちに滾る感情に翻弄され、ざわざわと落ち着かぬまま、ただその場にいるだけで精一杯だ。

 北の方のお喋りのはざまにぽつりぽつりと耳に届く声から、どうやら雅嗣は今宵、宮中で宿直とのいを仰せつかっているらしいと知る。ならば、刻が来れば去ってしまわれるのだろう。北の方の話に頷き、時に微笑むふりをしつつ、実はまったくのうわの空で扇を弄りながら、結子は焦燥感に苛まれ、几帳の向こうの気配を探り耳をそばだてた。

 けれど、少し時間はかかるかもしれぬが、とか、麗景殿の女房に、などと聞こえる会話の断片に、今さらながら雅嗣の生きる世界は他にもあるということを思い知らされ、余計に気持ちが重くなる。過去の記憶と現在いまの想いにのみ振り回され、追い詰められている己とは違うのだ、そう思い至ると、嗤うような吐息が零れた。

 愚かしいこと、と結子はいつかのように心のうちで呟く。

 再び想いが通じ合ったというのはやはり、思い上がりであったのやもしれぬ。無駄に張りつめた心も微かな期待も、すべてがほろほろと崩れていく心地がした。そんな結子をからかうように、時折吹き込む風に乗ってふわり、かさりと紅の葉が舞い落ちてくる。

 突然、何ごとかを護貞が言ってその場にどっと笑いが溢れた。ようやくはっと我に返ると、ひとしきり笑った佳子が、それにしても、と話を続けていた。


「あの一件があってから若菜の君の婚儀まで、ずいぶんと早くお話が進んだのですね」


 北の方は大きく頷きながら、扇を開く。


「若い二人が心を決めたならば、何を待つことがありましょう? 長く時を費やしたとて、いいことなど何ひとつございませんよ。たとえ今は充分なろくを持っておらずともいずれはと見込めるのであらば、そこは親が助ければよいこと」


 その言葉で、笑いに溢れるその場の雰囲気にほんの微かな動揺が走った。恐らくは、その動揺は限られた者たちの中にだけあるものだったけれど、結子もまた、ぎくりと心を竦ませた一人だった。

 北の方の言葉はまるで、かつての雅嗣と結子のことのようでもあり──また、納得のいく官位を得られるまで、という亨を待ち続けて世を去った頼彬の妹姫のことのようでもあり。

 結子はにこにこと何も気づかずに笑っている、悪気のかけらすらない北の方を遠い瞳で見つめた。助ける気もない父しかいなかった己の境遇が嫌でも思い出されて、とどめを刺されたような心地だった。

 その時、雅嗣が近くにいる女房を呼んで何かを指図している声がした。その声に打たれたように無意識に身体を揺らした結子は、のろのろと視線を動かしてそっと向こう側を窺い見る。

 ほどなくして、二人の女房が文机を運んできた。そこに嵌め込まれた螺鈿の細工が光を受けてきらきらと輝いている。くちびるを引き結び、厳しい眼差しで目前に硯や紙が整えられていくさまを見つめていた雅嗣は、頼彬に何ごとかを耳打ちされて、ふ、と目元を緩ませた。そして、静かな仕草で筆を取ると、僅かに微笑みながら頼彬を見返した。

 垣間見たその表情、その動作のすべてが結子の心をちりちりと刺し、思わず袖口で口許を覆う。

 こんなにも慕わしい。その横顔もその笑みも、その指先すら、すべてが涙が出そうなほどに。なのに己はすべもなく、ただ、いたずらに時が過ぎていくのを待つだけなのか。

 やわらかな風に乗って、楓葉がまた一枚、結子の許に舞い落ちた。それを見つめ、ふと考える。そういえばあの方と、秋をともに過ごしたことすらなかった、と。


「──中の君……中の君」


 几帳の陰から、控えめな声が結子を呼んでいることに気づいて、結子はじっと見つめていた楓から視線を外した。頼彬の声だった。


「よろしければ少し、お話しませんか?」



──────────


移菊の襲

表着に青(今の緑)、紫、赤の単の晩秋の色目。

菊が霜にあたって花弁の端から色を変えた姿を表しました。

(おもて中紫。うら青し。紅のひとへ。松重ねのうはぎ。あをき小袿。──『満佐須計装束抄』より)

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