二十四 移ろいゆく時

 それからの数日間、結子は逸子の邸で穏やかな時を過ごした。

 それはとても脆い、表面的な穏やかさだったのかもしれないけれど、とにかく、あの時以来逸子は元亘について話すのをやめてくれたし、物忌みゆえか本人も姿を見せぬままだった。

 紀伊の姫君たちに贈る衣を逸子とともに選んで裁縫の得意な女房に仕立て直させたり、少しずつ身の回りの整理などしたりしながら、ふと気づけば、壺に漂う朝晩の空気はしんと冷たく、秋の気配が深まりつつあった。

 楓や桜がその葉の色を徐々に変え、時にはらりと手放す。

 開いた半蔀はじとみから舞い落ちた、色づきそびれた一枚の楓の葉をつまみ上げ、結子は残された時の儚さを知る。冬になってしまえば、葛野かずらのに閉じ込められるも同然の日々となるだろう。やがてはまた春も訪れよう、でも……その時に己がどうなっているか、予想もつかない。

 結子は物憂げに外を見遣った。色づき始めた楓の葉陰から、秋の陽差しがちらちらと優しく揺れている。

 手にした楓の軸を無意識にくるくると回しながら、二条堀川の東の対にある桜も色づき始めたろうか、などと感傷的な思いに耽っていた結子は、ふと思い立って、先ほど届いたばかりの任子からの文を文箱から取り出した。


『──お母さまの遺された衣を義妹たちに譲るというのは、あまり賛成できません。もう充分にたくさんの衣を準備していますもの。でも、お姉さまのものなのですから、どうなさろうとわたくしが口を挟めることではないわね。

 ところでわたくし、いつか元亘さまとお目にかかることができるのかしら? わたくしだけ、まだ一度もお会いしていないのよ。殿が五日前、元亘さまの牛車くるまと偶然すれ違ったそうなのだけど、何やら派手な赤朽葉あかくちば*の衣が見えて、どなたか女君とご一緒だったと仰るのよ。元亘さまは、お姉さまの婿君になられるのではなかったの?──』


 いかにも任子らしい、浅はかで無遠慮な文から目を上げて、結子はひとつ、深い息をつく。

 五日前、そして、赤朽葉の衣──そこに記された言葉に、驚きはなかった。

 亮の姫君が、晴子の衣を逸子の邸に届けに来たのがちょうどその頃。あの時、確かに朽葉の袿を纏っていた。咄嗟に誤魔化した亮の姫君の言葉は、やはりあの朝に元亘と逢瀬を持っていた証でもあろう。

 傍にある脇息を引き寄せて深々と凭れかかった結子は、静かに目を閉じた。

 もういい、考えるのはよそう。考えたとて、最善の答えなど見つかるはずもない。

 あと二日……もう一度だけ、恋しいあの方に逢える。結子は、一日千秋の思いでただその日を待っている。

 黄の袿の裾に広がった豊かな髪に、また一枚、楓の葉が落ちた。




 紀伊守の邸に行く日は、前夜からしとしとと降り続いた秋雨が木々を濡らす、冷たい日だった。

 このような雨では道もずいぶんとぬかるんでいるだろう。結子は想いを込めて選んでおいた、祝いの色でもある紅の薄様*を纏い、衣を入れた筺を持つ茅野を従え、車寄に続く廊を急いでいた。

 最後の角を曲がった時、ちょうどその角から突然人影が現れた。結子は翳した扇を取り落としそうになって、思わず声をあげる。物忌みが明けた元亘の訪れだった。


「……これは、中の君」


 その声はいつにも増して低い。嫌なところで会った、と結子は扇を深くした。亮の姫君に託した蝙蝠かわほりはもう、とうに届いているはずだ。

 無言でいる主人に変わって、背後の茅野が言った。


「右京大夫さま、申し訳ございませぬが、姫さまは大変お急ぎにて──」

「そんなに急いで、どちらへ? 雨で道もよくありません、もうじき止みそうですから、それまでお待ちになられては?」


 元亘は茅野の言葉も最後まで聞かずそう言うと、じっと結子を見つめ、胸元から蝙蝠を取り出して口許に当てた。その意味を悟った結子は、一瞬の間を置いて元亘に向き直り、口を開く。


「紀伊の姫君がたへ、言祝ことほぎに参るところです。お目にかかれるのも久方ぶりゆえ、心いておりまして」


 ここで元亘との間にこれ以上の波風を立てることは得策ではない。扇から覗かせる瞳に笑みすら浮かべて、やわらかに元亘に頭を下げる。

 一瞬の不意打ちを食らったような顔をした元亘は、微かに眉根を寄せて声をひそめた。


「……蝙蝠を受け取りましたよ」

「お預かりしたものはお返しせねばと思いまして」

「お預かりしたもの……」


 元亘はそう繰り返すと一瞬言い淀み、やがて、ふ、と意味ありげに笑った。


「なぜ、亮の姫などのような者に?」

「他によい方も見つかりませんでしたゆえに」


 結子の背後では、茅野が筺を抱えたまま二人の応酬をはらはらと見守っている。


「思いのほか、気丈でいらっしゃる」

「ここまで独り身でおりましたもの。己を貫く大切さは存じておりますわ」


 貴方の思いどおりになどならぬ。結子は、確固たる意思をもってそう伝えたつもりだった。

 だが、それを聞いた元亘は意外にも、結子ですら見惚れてしまうほどの笑みをふわりと浮かべた。それから、いつかのように一歩、結子との距離を縮めた。


「わたしはずっと以前から貴女のことを存じ上げていた、と言いましたね」


 結子はちら、と視線を揺らした。


「いかに貴女が素晴らしい女人か、ということをずっと耳にしていた。それが──」

「伊予で、でございましょう?」


 結子が呟くと、元亘はまた驚いたように口を噤んだ。それから、堪えきれぬようにくつくつと笑い出したかと思うと、ふと真顔に戻ってこう言った。


「亡き伊予介の北の方は貴女の乳母子めのとごだとか。お聞きになられたのですね」

「ええ、伊予でのこともすべて」


 そう伝えても、元亘は動揺もせず微笑んだままだ。


「なんら、恥ずべきことはしておりませんよ。わたしは己の信念に従うたまで」

「存じております」


 結子はきっぱりとそう言ってから、少し首を傾げて考え、言葉を続けた。


「──それがたとえ、わたくしの信念とは相容れぬものであったとしても、それはまた別のお話だということも。蝙蝠をお返ししたのは、ただ、わたくしの心の問題なのです」


 求婚を断るのはあくまでも結子自身の都合ゆえ、と言われて、じっと結子の言葉を聞いていた元亘が、一瞬真顔に戻る。それから、小さく感嘆の吐息を洩らした。


「貴女は賢い方だ。何もかも、父君や姉君とは大違いです」

「……」

「ですから、貴女ならばと思うたのですよ」


 元亘の視線を、結子は負けじと見返した。


「ありがたいお申し出でございますわ。でもわたくしはもう、心は手放さぬと決めているのです。たとえ、邸も名誉も失うことになったとしても……」


 謎めいた言葉を呟く結子を、元亘は瞳を眇めてじっと見る。追い詰められ、他に選択の余地もないはずの目の前の女は、いつまでこうも手こずらせるつもりなのか、とでも言いたげな目で。思惑に反する、ままならぬ状況に、元亘の顔からいつもの笑みが消えた。

 ちちち、と、どこか遠くで鳥の声がする。茅野がおろおろとか細い声で、姫さま、と呼ばったのをきっかけに、結子は元亘に向けていた視線を逸らし、深々と扇を翳して頭を下げた。


「……雨も上がったようです。先を急ぎますので、失礼いたします」


 静かに横を通り過ぎていく結子の背に、諦めませんよ、と元亘は言った。心のうちにあるふつふつとした思いを隠し、あくまでも冷静に、取り戻した微笑みを浮かべて。

 袿の裾を引く音だけが、嫌に大きく響いた。




 案の定、ぬかるんだ道に牛が足を取られ、牛車は遅々として進まず、すっかり約束の刻を過ぎた頃、結子はようやく紀伊守邸に到着した。

 車が停められるのももどかしく、茅野を伴って母屋に足を踏み入れた結子を真っ先に出迎えたのは、紀伊の姫君たちの母である、さきの播磨守の北の方だ。かつてのように、若菜の君が駆け出して迎えてくれないことに一抹の寂しさを覚えたけれど、その朴訥とした笑顔に、先ほどの元亘との遣り取りで強張っていた結子の気持ちも、ようやくほぐれたような心地だった。


「遅くなってしまって……」

「お待ちしておりましたのよ、二の姫さま。まあ……お美しい衣だこと。さ、どうぞこちらへ」


 そう言って示された先に見えたのは、紅葉した樹々を見るため開け放たれた広廂ひろびさしにいる任子や紀伊守 護貞もりさだ、そして少し奥まった几帳の陰で相変わらず朗らかな笑みを浮かべる内大臣の北の方 佳子の姿。

 だが、その場に初音の君と若菜の君の姿はなかった。不思議に思って尋ねようと北の方を振り返ろうとしたその時、佳子の前に置かれた几帳の向こう側に雅嗣の姿を見つけた。あの女御の宴で、頑なな背を見せ去っていったあの時以来の雅嗣の姿にそのまま目を奪われて、どれほど彼の方を見ていただろうか。はたと無防備で不躾な己の視線に気づき、慌てて扇で顔を隠して視線を逸らした。雅嗣が結子に気づいたのかどうかも分からぬまま、ざわめき立つ心を必死でなだめる。

 落ち着かねばと深く息をして、それでももう一度、と雅嗣の方を窺った。他より一段暗い場所にいるというのに、色づいた秋の庭を背に、身につけた紫苑*の直衣が浮き立つように見えて、結子はその眩しさに思わず目を細める。何ごとかを話している雅嗣の横では、右衛門佐 頼彬よりあきが、さりげなく簀子に近い場所へと座を移しているのが見えた。


「今日は皆さまお越し下さって。ほら、中将さまも……」


 結子の視線に気づいたのか、北の方は満面の笑みでそう言った。例の、思いもよらぬ出来事にも断ち切れることのなかった都に名高い公達との縁は、図らずも一時いちどきに二人の婿君を迎えることになった慶びと相まって、北の方を饒舌にしていた。


「ね、相変わらず、ご立派なお姿ですこと。若宮さまが春宮にお立ちになれば、ますます輝かしいご身分となられることでしょうね」


 他意のないその言葉に、結子は密かに息を呑む。

 ああ、そうなのだ。片や、今上きんじょうの御覚えもめでたい、都に名を馳せる頭中将。片や、邸も財も失って鄙に追いやられようとしている、落ちぶれた女。


「さあさ、あちらへ……」


 今さらながらにその現実を思い知らされて、結子は北の方に促されてもしばらく竦んだように動くことができなかった。

 きっと、今日が限りとなるのだろう。

 もう二度とはお目にかかれぬやもしれぬ、そう考えるだけで身を切られるように辛い。その現実に直面せねばならぬくらいならいっそ逃げ出してしまいたい、というような気分にもなる。その反面、雅嗣の心のうちを知ることなく離れてしまうのは、もっと恐ろしいことだと思った。だけど……彼の想いがどこにあるのかを知るのもまた、ひどく怖いことだ。

 結局のところ、結子は今とても混乱していた。ここに来るまでは、あれほどまでにお逢いしたいと、ただそれだけを切に切に願っていたのに。あの方の心が戻ってきたのではないかと、仄かな喜びすら覚えていたというのに。

 元亘の前ではあれほど気丈に振る舞えるものを、なぜ、雅嗣の前ではこんなにも臆病になってしまうのだろう?


「二の姫さま?」


 立ち止まったままの結子を、北の方が怪訝な表情で振り返る。結子は何とか微笑みを浮かべると、心を奮い立たせて広廂の方へと裾を捌いた。

 雨が上がってようやく切れた雲間から、母屋の中に穏やかな秋の光が差し込む。

 さっと明るさが増した視界に思わず視線を揺らした結子は、その瞬間、光を背負い、ただまっすぐに結子だけを見る雅嗣の瞳に囚われた。



──────────


赤朽葉

朽葉色とは、枯れ落ちた葉を模した色で、赤みの強い赤朽葉、黄みの強い黄朽葉、青みを残した葉を表した青朽葉など、多くのバリエーションがありました。いずれも、梔子くちなしの黄色と紅花の赤色を使って染め、色味によってその配合を変えました。


紅の薄様

紅〜薄紅〜白のグラデーションの襲。祝いごとの時に着る色目。

(紅匂いて三。白き二。白きひとへ。──『満佐須計装束抄』より)


紫苑の色目

表は紫、裏は蘇芳。

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