二十三 涙

 右京の家を訪ねた夜、結子は御帳台みちょうだいの褥の中でまんじりともできぬまま、やるかたない心細さを必死になだめていた。

 時折、秋虫さえ黙り込むほどに強い風ががたんと蔀戸を揺らす。そのたびに結子はびくりと瞳を開き、怯えたように闇の中を見回した。

 万里小路までのこうじの邸はすでに寝静まっていて、暁もまだ遠い。暗闇に、憂鬱なため息がまたひとつ消えていく。

 ただ深更の今だけでも、昼間に聞いた話など忘れてしまいたいと眠りを求めて目を瞑れば、抑え難い感情やさまざまな情景が、それが夢なのかどうかも分からぬままに結子を攫い、翻弄する。

 元亘に対する腹立たしさと、そのような人間にうかうかとしてやられている父や姉へのもどかしさと。

 はらはらと流れ落ちた右京の涙や、諦めに懇願を交えた弥生の視線や、扇に隠れるかんに障るような姉の嗤いや。

 媚びへつらう亮の姫君のくちびるの紅と、軟障ぜじょうのうちで髪に口づけた元亘の上目遣いと、そして、立ち去って行く雅嗣の背も。

 幻のような、そんな夢現ゆめうつつの光景に揺蕩たゆたっていると、いきなりの強い風に現世うつしよへと否応なく引き戻され、浅い眠りから目覚めさせられる。そんなことを幾度となく繰り返して、そのたびに寝返りを打ち、そしてふと思う、風の音が怖いだなんてまるで童のようだ、と。

 どれほど気丈に振舞ってはいても、いくら聡くあろうとも、所詮結子は無力なでしかなく、そのような女が独り強く生きていくことは容易なことではない。明るい日差しの中では、心にあの方への想いさえあればと思えても、ひとり闇と沈黙の中に身を置けば、突きつけられる不安に押し潰されてしまいそうだ。

 もし、このまま葛野かずらのへ行ったとしたら、己はどうなってしまうのだろう。

 もはや父とともに葛野へ行くしかないと半ば覚悟を決めてはいたけれど、それはまだ元亘の良識を信じていたからこそ。目的のためには手段を選ばぬという元亘の姿を知らされた今はただ、彼のことが恐ろしい──葛野へ行き、守ってくれるはずもない父たちと暮らしたとして、いつ元亘が強硬な手段を取るとも分からぬから。父は求婚されれば大手を振って許すであろうし、これまでの元亘の振舞いを思うと、無体なことはしないといううわべだけの言葉も白々しく思えてしまう。もはや誰も守ってはくれぬところで元亘を拒み続けることなどできようか。結子はぶるりと身震いして、思わずふすまを引き上げた。

 それでも、これ以上都にい続けることを望むのも無理があった。いつまでも宮の方に甘えることは許されぬ。では、右京のところ? 否、これ以上苦労をかけることなどできようはずもない。

 せめて、独り暮らすに足る小さな家でもあれば──もし、父が二条堀川を手放すようなことがなければ、例えば結子だけが葛野に移って、独り隠れ住むこともできたやもしれぬのに。

 そんなことをとりとめもなく考えているとまた、地鳴りのような風の音がして、がたりと蔀が鳴った。同時に反対側の妻戸も揺れる。決して休ませまいとするようなそれらの音に、結子はとうとう観念して身を起こした。そっと御帳台のとばりを分けると、僅かな隙から風がひゅうとか細い音を立てて吹き込み、芯を切った弱々しい灯を容赦なく揺らしているのが見える。

 また、かたかたと妻戸が震えた。結子ははっとそちらを振り返る。かつて、雅嗣のおとなう嬉しい知らせだったその音が、今は結子の不安をますます煽る。

 孤独だった。

 今初めて、独りであることがこれほどまでに辛いと知った。

 だけど、意に染まぬえにしを結ばねばならぬやもしれぬ、という恐れは、孤独の恐怖よりなお酷い。心に違う面影を抱く身であれば、なおさら──

 いても立ってもいられぬほどに心がざわめいて、結子は衾の上に掛けられた袿を羽織り、御帳台を出て妻戸に寄った。まさか、誰ぞが風に紛れて忍んでくるはずもないけれどと思いつつ、震える指でしっかりと掛金がかかっていることを確かめ、ほ、と息をつき、そのまま戸に手をついて崩折れるように沈み込む。ひやりとした妻戸の板に頬を寄せると抑え切れぬ感情が溢れてきて、心にあるただひとりのひとを想い、声をあげて泣いた。

 冷たく孤独な夜は、いつまでも明けぬような気がした。




 それでもようやく迎えた朝に、結子はこれ以上ないほど重く沈んだ心を抱え、涙に腫れた瞳を伏せて逸子の前にいた。

 言葉を選び、時に沈黙を交えながら結子が伝えた話を聞いて、まあ、と言ったきり絶句した逸子の気配に、結子は手にした衵扇あこめおうぎをまた、そっと握りしめる。御簾を開け放した母屋もやには、澄み渡る秋空から軽やかな風が吹き込んできて、疲れた結子の頬を慰めるように撫でていく。

 逸子は、相変わらず黙り込んだままだ。結子はいたたまれず、視線を庭に向ける。気まぐれに揺れる瞿麦なでしこは、結子の悩みなど素知らぬ風だった。


「……俄かには信じ難いことだけれど」


 ようやく絞り出すように逸子が言って、結子は視線を戻した。


「もし、それがまことのことならば、貴女を妻に迎えるなどとんでもないことだわ」


 そう言いながらも未だ釈然としない顔つきのまま、逸子は袖で口を覆った。

 無理もない、元亘を結子の最良の相手と定めていた逸子にしてみれば、己の判断を覆されることにもなる事実をそう簡単には受け入れられぬだろう。たった今話した元亘に関する事実がどれほど逸子を傷つけるのか、それは結子にも分かっていた。

 結子は小さくため息をつき、視線を落とす。


「このまま貴女を葛野へ行かせることなど、できやしない」


 ぽつりとそう言われて、結子は落ち着きなく扇を触る。逸子もまた、そんな結子を見て苛々と吐息を落とした。たとえ判断が間違っていたのだとしても、逸子が結子の幸せを願う心に偽りはない。


「とにかく、貴女はまだここにいるべきよ」

「でも──」


 結子が困惑の声をあげたその時、邸のどこかで何やらざわめく気配がして、やがて簀子すのこの方から女房の小式部の声がした。


「……宮の方さま」

「なに?」

「大姫さまのご名代として、東宮亮の姫君さまが」


 結子は視線を上げた。なんとか顔を合わせずに済んだと思っていた、会いたくもないひとの来訪の知らせに、思わず身じろいだ結子を見て、逸子は冷ややかに言った。


「大姫のきぬを持ってくると知らせがあったわ。──通して」

「お姉さまの衣……?」


 さわと遠ざかる小式部の気配を感じながら訝しげに繰り返した結子に、逸子は憮然とした表情で続ける。


「ええ、貴女のお母さまの形見の衣をね。葛野には持っていけぬから、と言って」


 まさか、と呟いて結子は言葉を失った。母の形見を要らぬと言うなんて、どうかしている。

 亮の姫君は、艶やかな笑顔で母屋に入ってきた。朽葉色の袿を纏ってにこやかに廂まで来ると、嫋やかな動きで結子の近くに腰を下ろし、頭を下げた。


「宮の方さま、二の姫さま。ご機嫌麗しゅう、嬉しく存じます」


 逸子も結子も、決して麗しくないご機嫌を隠して小さく微笑んだ。


「ご機嫌よう、亮の姫君。権大納言どののお加減はいかが? 昨夜はずいぶん酔うて帰られましたけれど」

「もう、大事ないようにお見受けいたしました。朝は少し長くおやすみになっておられましたが」


 それほど酷く酔うまでお酒を召し上がったのか、と結子は心の中でため息をついた時、亮の姫君が言った。


「ですが、右京大夫さまはさすが、もうすっかりいつもの通りで」


 最初は聞き流そうとしたその言葉がどこか引っかかって、結子はつと顔を上げた。


「……大夫さまは今日から物忌みなのでは? どうしてご様子をご存じでいらっしゃるの?」


 結子が投げかけた問いに、亮の姫君のまわりだけ時が止まったようになった。だけど、それもほんの一瞬のことで、すぐになんでもないことのように微笑むとこう言った。


「いえ……大夫さまは昨夜、まるで酔うてもおられぬかのようにご自分の邸に戻られた、ということですのよ」


 そうして、ほほ、と笑う紅い口許を、結子は腑に落ちぬと見つめる。それに気づいているのか、亮の姫君は結子の方に視線を向けず、話を変えた。


「ところで宮の方さま、こちらが大姫さまの衣でございます」


 女房が横に置いた結構なかさの衣の山をちらりと見遣った逸子がまた呆れたように亮の姫君に言うのを、結子は黙って聞いていた。


「……この紅梅のにほひ*も要らぬと?」

「ええ……ああ、二の姫さまはまだご存じありませんでしたわね。実は昨日、右京大夫さまが新しい衣をいくらか、お贈りくださったのです」


 結子は眉をひそめた。その紅梅の匂も、その下に見え隠れしている雪の下*の衣も、それは趣味の良い美しい衣だった。母がもっとも大切にしていたそれらの衣は、一の姫である晴子に譲られたのであったのに、それを手放すだなんて。


「大姫さまは大層お喜びでございましたわ」


 そうであろう。真新しい衣を前にして、母の古びた衣など身につけたくなくなった虚栄心の塊のような姉の顔が目に浮かぶ。

 その時、そ、と亮の姫君が結子に寄り、閉じた扇で口許を隠して囁いた。


「大姫さまは衣のお陰か、すっかりご機嫌を直しておられます。どうぞご安心を」


 にっこりと目配せしてそううそぶく亮の姫君を前に、結子はただ微かに視線を揺らしただけだったが、その瞬間、心の中に不快な感情が渦巻くのを止められなかった。

 このひとは危険だ、と改めて思う。不躾な言葉を、さも美しい思いやりであるかのように話すこの女人は、誰かに似ている──

 そんな結子の思いなど素知らぬ顔の亮の姫君は、ひそめた声でそのままこう続けた。


「これは、大姫さまには内緒なのですけれど……大夫さまはもちろん、二の姫さまにも衣をご用意しておられるそうですのよ」

「……」

「わたくしがお持ちいたしましょうか、と申しましたら、ご自分でと仰られて」


 ほほほ、と密やかに笑う亮の姫君は、耳打ちするかのようにそう言うと、つと背筋を伸ばしてはらりと衵扇を開き、逸子の方を向いて言った。


「大夫さまの細やかなお心遣いはまこと、心を打たれるほどですわ。権大納言さまと大夫さまは叔父君と甥御でいらっしゃいますけれど、それはもう、実の親子のように見えるほど……」


 結子は言葉もなく、ただくちびるを引き結び、妙にはしゃいでいる亮の姫君を見た。相変わらず、何を考えているのかまったく分からぬままだ。

 結子は亮の姫君に向けていた視線をそっと山積みの衣に移し、呟くように尋ねた。


「宮の方さま、この衣はわたくしが持っていても?」

「もちろんよ、その方が貴女のお母さまもお喜びになるでしょう」


 逸子があからさまに吐息をついたその時、簀子の方から今度は茅野の声がした。


「……二の姫さま、お文が参っております」

「そう、どなたから?」

「紀伊守さまのお邸よりでございます」


 言われて差し出された文箱を見れば、見慣れた妹の任子からの文箱であると知れた。瞬間、あたたかな紀伊守の邸の人々のことが脳裏に浮かんだ。このところ、妹からの便りは途絶えがちで、しばらくは彼らの消息を知ることもできていなかったのだ。


「こちらに」


 今、この場の嫌な空気からなんとか抜け出したくて、結子は逸る気持ちで文を開き目を通す。手持ち無沙汰になった亮の姫君は、せわしなく扇を揺すりながら、庭に目を遣っていた。


「皆さま、ご息災でいらっしゃる?」


 脇息にゆったりと凭れかかった逸子が尋ね、結子は読みながら頷いた。


「ええ、皆、お元気そうです」


 任子はともかく、紀伊守邸の人々の雰囲気や姫たちの軽やかな笑い声は、結子にとって救いにも似た明るさに感じられる。あの邸にいた時は少しばかり辛く切なかったけれど、雅嗣の気配が間近にあって、それはこの上ない幸せだったのだと、今だから思う。


「そういえば、妹姫の婚儀もじきにある、と聞いたけれど」

「日取りが決まったようで、その前にぜひ一度、邸へ、と──」


 読み進めていた結子はそこまで言って、言葉を呑んだ。

 珍しく機嫌のよさそうな任子の文字が踊る文に書かれていた。あの不幸な行き違いののち、しばし疎遠になっていた頭中将さまもいらしてくださる、と。

 まるで真綿に包まれたかのように、その瞬間、まわりの気配が遠ざかった。


「貴女がたが葛野に参るのはいつ?」

「まだ十日ございますわ」


 逸子の問いに代わりに答えた亮の姫君が、結子に言っている。


「二の姫さま、葛野の冬は都より雪深いと聞きます。そう簡単に戻っては来られませぬゆえ、わたくしも今のうちにと、名残を惜しんでいるところですの」


 亮の姫君も再び父について葛野に行くつもりなのだと分かる、そんな声も結子からは遠い。


 ──あの方もいらっしゃる。

 それは、結子にとって闇に射す幽かな光にも似た知らせだった。

 これを限りとなるのかもしれない、きっとそうだろう。それでも……だからこそ、お逢いしたい。

 切ない望みに胸が震える。そして、今にも崩れ落ち、押し流されてしまいそうな心にほんの僅かな勇気が湧いた。己の生きる道を、誰かの思惑に左右されるわけにはいかぬ。かつてのわたくしのように──まわりの説得に負けてしまった、あの時のように。

 静かに文を畳みながら結子は瞳を上げた。それから、茅野、と声をかける。


「覚えている? 以前しまっておいてと頼んだ、蝙蝠かわほりのこと」


 結子の背後で頭を低くしていた茅野は、ちらと視線を動かし、それからなお深く頭を下げた。


「あれをこちらに」


 はい、とその場を立ち去った茅野が、さほど広くはない逸子の邸の対屋たいのやから蝙蝠を持って戻ってきたのはじきだった。

 差し出された蝙蝠を受け取り、何ごとかと首を傾げる逸子の前で、それを亮の姫君の前に静かに置く。


「……二の姫さま?」


 扇を持つ手を止め、訝しげな表情で聞き返す亮の姫君に、結子は穏やかに言った。


「申し訳ないのだけれど、右京大夫さまにお渡しいただけるかしら?」

「ま……この蝙蝠を?」

「ええ、渡してさえくだされば、お分かりいただけると思います」


 わたくしの心を。決して貴方を受け入れる気はないという、気持ちを。

 そう伝える結子の凛とした瞳に、亮の姫君はたじろいだ。


「なぜわたくしに……?」

「きっと貴女はまた、大夫さまとのでしょう?」


 結子には珍しく棘を孕んだその言葉に亮の姫君はさっと色を失い、頬をひくつかせて小さく頭を下げる。

 きっと、亮の姫君は好奇心に負けて蝙蝠を広げるだろう。そして、元亘の書きつけた歌を覗き見るに違いない。その時、このひとは何を思うのだろうか。

 結子はふっと亮の姫君から視線を外し、逸子に向き直って言った。


「宮の方さま、紀伊の姫君たちに何かお祝いをと考えていたのですけれど……この、お母さまの衣を直して、お贈りするのはいかがでしょう? 古びているものもありますけれど、それでもこのような衣はもう、今では手に入れることも難しいもの……」


 それを聞いて逸子も大きく頷いた。


「それがよろしいわ。これほど美事な衣は、どんな新しいものよりも価値があるものです。今時はなかなか見つからない」


 これまた、大いに棘を含んだ言葉とともに結子に微笑みかけた逸子は、ふと真顔に戻って、でも、と続けた。


「一番美しい、お母さまが大切になさったこの紅梅の匂は貴女のために置いておきなさい、中の君。よろしくて?」


 二人の言葉に居場所をなくした亮の姫君が、失礼いたしますわ、と笑みもなく座を立ったその背を見送りながら、結子は静かにひとつ、息をついた。



──────────


紅梅の匂の襲

薄紅梅〜紅梅のグラデーションの襲、 単は青(今の緑)。

匂とは、同じ系統の色をグラデーションで使うことを意味します。

(上は薄くて。下へ濃くて。あおきひとえ。また倍りたる単をも着る。──『満佐須計装束抄』より)


雪の下の襲

白〜紅梅〜薄紅梅の襲、単は青(今の緑)。

雪の降り積もった紅梅の木を表しました。

(白き二。紅梅匂ひて三。あおきひとえ。──『満佐須計装束抄』より)

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