十九 宴の夜の求婚
冴え渡る月が煌々と輝く
一度は断りを入れた宴に今いるのはただ、中の君自身から受けた誘いゆえだ。今一度言葉を交わしたい、あの
なのに、なんと不甲斐ないことか。結子と再び言葉を交わすことは叶ったものの、己の不器用さに焦りを覚えるばかりで、未だ何ひとつ伝えることはできていない。
そして、あの男だ。
雅嗣は目を細め、末席にひっそりと座る右京大夫に視線を向ける。
中の君の従兄であるその男は、本来ならこの場にいることが許されるような位にもないはずであるのに、いったいどのように取り入ったものか。あの権大納言にも似通った整った面差しを持ち、どこまでもやわらかい笑みを湛え女たちに甘い言葉をかける、雅嗣とは真逆の性格を持つらしい彼を、苦々しい思いで見遣った。
長らく伊予にいたらしく、道理で結子に声をかける姿を初めて見た時、誰なのか分からなかったわけだ。神妙な顔つきで結子の箏を聴いているその表情には今、誇らしささえ浮かんでいる。彼こそが、中の君を迎え入れる男なのだろうと、先ほどからこの宴でもあちらこちらでまことしやかに囁かれていた。今まで姉妹の陰に隠れてほとんど噂でさえ表に出ることはなかった、しかし実は、和琴の名手である女御をも感服させるほどの箏の腕前を持つ姫君と、ようやく埋れていた鄙から都に戻ってきた、血筋に間違いはない見目麗しい男。二人とも多少とうが立ってはいるが、それもまた似合いではないか。
まわりから伝わる無責任な言葉に、苛立ちはいや増すばかりだ。出された酒に口もつけず、雅嗣は落ち着きなく視線を彷徨わせた。
このまま、中の君が別の男に攫われていくのを、ただ黙って見ていなければならぬのか。何とかして今一度──
そこまで考えて、雅嗣は肝心の楽をほとんど聴いていないことに気づいた。
白銀の月の光を浴びる広大な内大臣邸を満たすように、凛とした音が響いている。敢えて箏のみをという女御の意向により、今は他の弾き手も楽器を置き、結子の響きだけが慎ましやかに鳴っていた。
この音だ、と雅嗣は目を閉じて心を傾ける。決して
初めて逢った黄昏時の二条堀川の邸、夢幻の桜と箏の音。
その光景は今や、雅嗣の中で冒しがたい神聖な美しさを湛え、そこに繋がる
なぜ、手放した? 何ゆえ、迎えに行かなかった? 再会を果たした時、どうして己の気持ちに向き合おうとしなかったか?
考えれば考えるほど惨めさと後悔に打ちのめされ、雅嗣は拳を握りしめ、幾度めか分からぬため息をつく。
ふと視線を動かせば、娘の音色をどう思っているのか、義照が憮然とした表情のままあらぬ方を見ている。中の君の側近くには、恐らく宮の方や大姫もいるのだろう。未だ、挨拶すら返してはこぬ宮の方の頑なな態度は、八年前の、二人を引き裂くためになされた説得を嫌でも思い出す。雅嗣は、まるで敵陣に孤軍奮闘しているような気分だ。
またひとつの曲が終わり、宴客に微かなざわめきが広がる。雅嗣も姿勢を正し、逸らした視線を御簾のうちに戻すと、結子を労わる女御の声が聞こえてきた。
「中の君、かねてより聞いていたとおりの、まこと比類なき音色でした。いつまでも聴いていとうなり、無理を言いました。少し、休まれよ」
その言葉ののち、ざわざわとした衣擦れが御簾越しに聞こえてきて、女御が一度退座されたことが伝わるや、簀子に居並ぶ人々もほっと息をついて口々に喋り出した。
押し寄せるようなざわめきが遠い。眩暈にも似た感覚に、雅嗣は思わず目を瞑る。
かように歯がゆい思いをするため、この宴に来たのではない。ただ、あの
乱れる気持ちを鎮めようと幾度か大きく息をしたのち、雅嗣は静かにその瞳を開いた。
***
御簾のうちでは、女御が中座されたざわめきの中、結子が心地よい疲れと高揚感に陶然としていた。
これほどまで集中して箏に向き合ったのは久しぶりだ。
麗景殿女御はさすが、楽器についても楽曲についても博識で、楽についての語り合いがこれほど楽しかったことは、そうそうない。始めは緊張していたけれど、やがては喜びの方が強くなり、最後はただ求められるまま、己の指から湧き立つ音にだけ集中して奏で続けた。逸子も満足げな視線を結子に送っていたし、結子を女御に推してくれた内大臣の北の方の穏やかな微笑みは、少なくとも恥をかかせるようなことはしなかったと思っていいのだろう。
肩の荷が下りた心地でようやく落ち着きを取り戻した結子は、ふとあたりを見回し、それから御簾の外に視線を馳せた。数人の公達の姿が見えたが、そこに雅嗣の姿はなかった。
宴の前に中途半端なまま途切れてしまった、雅嗣との語らい。
雅嗣が言わんとしていたことは何だったのか、結子の愚かな勘違いでしかないのか、どうにかしてそれを知りたい。雅嗣が昔の想いを取り戻し結子を見てくれていると感じる、確信めいたものが正しいのか否かを確かめねば、もう落ち着いてこれからの日々を送ることもできそうにない気がする。
逸子と晴子は何やら話し込んでいて、結子のことを気にしている様子はない。それを窺い見ると、結子はそっとその場を抜け出した。
寝殿に繋がる壺に面した渡殿には
簀子にぽつんといる父 義照の姿がふと目に入る。どこか憮然とした表情でいるのはいつものことだけれど、今度は何が問題なのだろう。結子の演奏が気に入らなかったのか、それとも、晴子につき従っていた亮の姫君が宴から姿を消したせいか。さすがの亮の姫君も、帝の寵姫たる女御の宴に身分をわきまえずのうのうと居座り続けるほど厚顔無恥ではなかったらしいのだが、そのことを父が理解できているかは甚だ疑問だ。この宴ののち、
先ほどまで座っていたはずの元亘の姿もまた、見えなくなっていた。姉 晴子の前であのようなことを言い出されては、邸に戻ってからの姉の態度が目に浮かぶようで滅入ってしまう。
結子は小さく息をつくと、軟障を手で押さえて僅かな隙間を作り、白く冴えた月を静かに見上げる。
でも、と結子は思った。父のことも姉のことも、元亘のことだって今の結子にとっては些細なことだ。
なぜだか、仄かな幸せが心に満ちてくる。箏の琴を認められ、存分に弾けたことももちろんだけれど、何より心に抱き続けてきた雅嗣への想いを、もう、自分自身に嘘をついてまで見て見ぬふりをする必要はないと思えることが嬉しかった。
望月の神々しいほどの光がざわめく心を鎮めるように降り注ぎ、心地よく吹き込む秋風が上気した頬を優しく撫でていく。それは昂った感情をも冷静にしてくれるようで、結子は口許に微かな笑みを浮かべて瞳を閉じた。
かつて、雅嗣と出逢ってすぐの頃、この方こそがわたくしが心をお捧げするべきお方なのだ、と信じた。あの頃の、ひたすらにまっすぐ雅嗣を想う気持ちを再び胸に抱けたことが、嬉しい。
結子は震える心で雅嗣を探し求める。あの方は今、どこにいらっしゃるのだろう。まわりに人がいないのをいいことに、もう一度隙間からそっと顔を覗かせ見回してみるが、それらしい人影は見当たらず、またもや吐息をついて視線を落とす。その時、ふと現れた人影が、結子の
「……中の君?」
密やかに呼びかけられたその低い声に息を呑み、はっと視線を上げる。
「大夫さま……?」
顔を背け、なぜここに? と呟いた結子に、元亘は、ふ、とやわらかく笑って言った。
「それはわたしの言葉です。なぜこのようなところに? 皆が探しておいでですよ。麗景殿さまをも唸らせた箏の名手の姫君をね」
そう言いながら元亘は、結子が手を添えていた軟障の端を捲ると、すいとその中に身を滑り込ませ、後ろ手で
「いつか、間近に聴かせていただきたいと思っていた願いが叶いました。貴女のように素晴らしい方を従妹に持つことができ、わたしは誇らしいですよ」
そう言ってにこりと笑った元亘は、ああ、でも……と一段声を落として続けた。
「できることなら、わたしはこう言いたいのです。貴女のように素晴らしい妻を持つことができて、と」
瞬間、結子はびくりと肩を震わせる。
「貴女にはどうか、わたしの妻になっていただきたい」
「お戯れを──」
「戯れ? あの賀茂祭の日からすでに
元亘はそこで一度言葉を切ると、袖に隠れた結子の耳許にすっとくちびるを寄せ、囁いた。
「それよりもずっと前から、貴女のことを想うておりました」
「……どうして、そんなに前からなどと」
結子は後ろに身を引きながら、ありえぬ、とひそめた声で気丈に問い返す。
「誰から、とは今は申せません。ただ、わたしは以前から貴女のことを耳にし、密かに想いを募らせていたのですよ」
「まさか……」
「ええ、まさか、あの祭の日にこの目を奪われた姫が、その中の君だとは思いもよりませんでした……縁があるとは、まさにこのことをいうのでしょう」
そう言いながらまた、じりと結子に身を寄せた元亘は、ちらりと結子の背後に目を遣った。結子の背後は、普段は女房が使う渡殿の局の壁となっている。つまり、結子はもうほとんど逃げ場を失っていた。
背に固い壁を感じながら、結子はできるだけ元亘の顔を避けて深く袖を翳す。一方の元亘はそのような態度もものともせず、なおも言い募った。
「わたしなら、二条堀川の邸も取り戻し、我が家系を守ることもできます」
「ここがどこか、お分かりでしょう? もう少しお考えになって……」
「貴女によい返事をいただかねば、何をするか、自分でも分かりませんよ」
「どれほど仰っても、よいお返事を差し上げることはできません」
早く立ち去って、という意を滲ませた拒絶の言葉にもまるで怯むことなく、元亘は一度ふっと笑うと、悠々と結子の
瞬間、あの薫りが微かに漂った。亮の姫君が纏う、丁子の
結子の息が止まり、瞳が揺れた。もう疑いようがない、元亘と亮の姫君の間には何かある。この微笑みの裏には間違いなく、別の顔があるのだ。
その確信と許容し難いくちづけに、結子は、はっ、と嫌悪の息を吐く。
「……これ以上、無体なことなどしませんよ。どうかお許しください」
その吐息をどう受け止めたのか、元亘はそう言うと黒髪を手にしたまま結子をじっと見上げた。
耐え難く、息苦しい。今すぐ離れて欲しい。結子は、ともすれば震えそうになる声を気丈に奮い立たせた。
「離して」
「近いうちに貴女の父君に、きちんとお願いに参ります」
「お断りしますと申し上げています」
さすがの元亘も微かな苦笑を浮かべ、ようやく結子から離れた。
「どうぞ、そのようにお心づもりを」
結子の言い分にまったく耳を傾けてはいないような元亘の言葉に、結子は衣擦れの音をさせて軟障を揺らし、逃げ込むように妻戸をくぐる。
立ち働く女房も逸子たちも誰ひとりとして気づかぬ中で、結子は廂の柱に手をついて不快に弾む胸を抑えながら喘ぐように息をついた。そうして上げた視線の先に、ようやく探し続けた雅嗣の姿を見る。
あ、と思わず零れた呟きと同時に、振り向いた雅嗣が、中の君? と呟いた。
涙が出そうなほどの安堵に、込み上げてくる想いを抑え切れぬ声で呼びかける。
「中将さま……先ほどは、お話が途中になってしまって」
だけど、雅嗣からの答えはなく、聞こえなかったかともう一度、 中将さま? と声をかけた。途端に、強ばった声がが返ってきた。
「……わたしは失礼せねばなりません。申し訳ない」
思いもよらぬ言葉だった。先ほどの話の続きをと思っていたのに。
突然の態度の変化に戸惑いながら、縋る思いで言葉を紡ぐ。
「どうして……? 宴はまだ終わっておりませんのに」
「これ以上は、敢えてい続けるほどのものでもないでしょう」
にべもない言葉で突き放されてそれ以上は何も言えず、立ち去る雅嗣の背をただ、見送ることしかできなかった。
***
雅嗣が渡殿に足を踏み入れた時、その軟障は
女御もおわすこの警備の行き届いた邸によもや賊など入ろうはずもないが、宴のさなかにかような場所で、と考える間もなく、ゆらりと揺れた絹の帳の裾から僅かに
「これは──」
「……ここで何を?」
へりくだるように何かを言いかけた元亘に、雅嗣は絞り出すような声で尋ねた。厳しい視線の前に元亘は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに口許を微かに歪めた笑いを浮かべて慇懃に頭を下げた。
「いえ、特には。頭中将さま、失礼をいたしました」
多くは語らず、もう一度深々と頭を下げた元亘は、雅嗣の肩をかすめるようにすれ違い、簀子の方へと立ち去っていく。
敢えてそれ以上の追及はしなかった。いや、できなかった。
密やかな逢瀬の目撃に猜疑心が頭をもたげ、雅嗣はただ、くらりと床が揺れたような気がして立ち尽くす。すべてが遅きに失したのではと、またもや激しい後悔に打ちのめされそうになったその時、妻戸にほど近い御簾の陰から人の気配がして、雅嗣はぎくりと振り返った。
御簾と御簾の間の柱に凭れかかるような人影があった。僅かに溢れる色目が、その人影の主を示していた。
「……中の君?」
「中将さま……!」
聞こえてきた中の君の声は、軽やかに雅嗣の胸へと飛び込んできた。先ほどから切望してやまなかったその声にも、いったい今の今まで右京大夫と何をしていたのかと、なぜそんなに嬉しげなのかと、そのようなことばかり考えて言葉も出てこない。
「先ほどは、お話が途中になってしまって」
やわらかく艶めいた声が雅嗣の耳をくすぐる。なぜそのような声を、と雅嗣の心はまた引き絞られるように疼いた。
「中将さま?」
黙り込んだままの雅嗣に、結子がもう一度、怪訝そうに呼びかける。雅嗣は落としていた視線を初めて結子の方に向けた。
御簾に映る影が、かつての儚く幸せな逢瀬を思い出させる。
この
ゆらりと揺れた影が雅嗣の中にあの手酷く別れを告げられた日の記憶を呼び覚まし、先ほどの右京大夫の姿を思い出させ──その瞬間、心が悲鳴を上げるように痛んだ。
「……わたしは失礼せねばなりません。申し訳ない」
「どうして……? 宴はまだ終わっておりませんのに」
「これ以上は、敢えてい続けるほどのものでもないでしょう」
感情のない声でそれだけを言うと、くるりと踵を返して結子に背を向けた。今の雅嗣には、それ以上結子の甘い声を聞き続けることなど、できそうにもなかった。
一歩踏み出すごとに遠ざかる結子の気配に、雅嗣はくちびるを噛みしめる。駄目だ、と心の中で呟いた。何が駄目なのかは、己でもよく分からなかった。
そうして、思い詰めた目で足早に
「頭中将さまにもぜひ一曲を……中の君さまとの合奏は妙なる調和をみせるであろうとの、たっての仰せにて」
その言葉に、雅嗣は深い息をつく。
請われることは承知の上で愛笛も持参していた。だが、今はどうしても吹けぬ。このような気持ちのまま奏でて不本意な音など聴かせたくない。妙なる調和など、叶わぬ夢のようなものだ。
「恐れながら、本日はあいにく楽器を持ち合わせておりませぬ、とお伝え願いたい」
胸元の奥深くに笛を隠して、雅嗣は頭を下げた。そして、少々困った様子でその言伝を持ち帰った女房が御簾に消えるのを見届けると、雅嗣は振り返ることなく内大臣邸をあとにした。
──御簾のうちに取り残された結子の瞳を一目でも見ることができたなら、雅嗣の大きな誤解は瞬く間に解けたであろうものを。
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