十八 告白

 文月の宵、早くも鳴き始めた秋虫の声が、壺に植えられた女郎花や瞿麦なでしこの陰から聞こえてくる。幾分涼しくなった夜風が半蔀はじとみにかけられた御簾を揺らす中、結子は文に目を通していた。間近に置いた大殿油おおとなぶらの灯が風の吹き込むたび大きく揺れて、几帳に映る結子の影を大きくしたり小さくしたり、気まぐれな姿を見せる。

 手許にあるのは、右京からの文──あの懐かしい乳母めのとからのものだ。

 右京が身体を壊して職を辞して以来、結子は折に触れ見舞いに訪れたりもしている。それでもやはり、結子が邸を出るにも限度があったから、こうして右京からの文が届くことはとても嬉しいことだ。

 その文は、元々宴が催される日に右京を訪う予定だった結子の詫びの文への返事だったのだけれど、女御さまの宴を優先するのは当然のこと、その翌日にいらしてくださるのは嬉しいがご無理はなさらぬように、宴を楽しんでくるように……そのようなことがつらつらと書かれた終わりに、何やら思わせぶりなことが書かれてあって、それで結子はさっきから何度も何度も読み返しているのだ。


『──これからはきっと、姫さまもそうそう、こちらに参られることもなくなるのではと思うております。お目にかかれることを楽しみに、日々を過ごすことにいたしましょう』


 こちらに参られることもなくなるのでは、とはどういう意味だろうか。

 今度こそ結子が葛野かずらのに行ってしまうと考えているのか、それとも、滅多に出歩くことも叶わぬ身になることを指しているのか。たとえば……誰かの妻になるとでもいうような。

 手にした文を横に置いて脇息に凭れると、結子は深々と息を零した。

 父や姉と過ごすことにうんざりして早々に宮の方の邸に戻ってきている結子だったのだが、あの二条堀川の邸に行った日以来、逸子の態度もよりあからさまになっていて、正直なところ、どこにいても心休まることはない。

 あれほど結子にとって理想的な公達を拒む理由がどこにあるというのか、元亘もとのぶは、結子の美点をすべて認め理解した上で心から結子を望んでいるのだし、これ以上のえにしなど見つかるわけがない、というのが逸子の言い分だった。

 二条堀川邸で雅嗣を目の当たりにした逸子の心境に、どのような変化があったかは分からない。昔と変わらぬ、いやそれ以上に麗しく頼もしくなった雅嗣の姿が、逸子の心に揺さぶりをかけたのは確かだと思う。けれどもそれが今、早く元亘を受け入れよと訴えてくる理由ともなっているとすれば、それは結子にとって落胆を禁じえぬことだった。

 結子の心は決まっているのだ。たとえ一生、孤独に暮らすことになろうとも、もう雅嗣以外のひとに心を渡すことなどありえぬ、と。

 二日後の宴に、あの方はいらしてくださるだろうか? 早く宴に行きたい、行ってもう一度言葉を交わし、あの方のお心が知りたい……まるで時が八年前に戻ってしまったかのような心地だ。結子はそんな己に半ば呆れながら、秋風に揺れる灯をじっと見つめた。




 そうして指折り数えて刻をやり過ごし、二日後の申の刻*、結子はようやく逸子とともに三条大路をゆるゆると車で進んでいた。こっそりと物見を開いて外を見てみれば、内大臣邸のどこまでも続く長い築地塀ついじべいのここかしこに武官が配置され、尊きご身分の方が在られると一目で分かる物々しさだ。

 いつだったか、佳子が風情がないと嘆いていた邸のうちは、女御の里邸にふさわしい重厚さを備えていた。二条堀川の邸が女君のようだとすれば、この邸はまるで男君のような、などと考えながら、結子は先導の女房と逸子のあとをついて行く。宴だからと仰々しく飾り立てるわけでもなく、さりげなく飾られた秋草に趣味のよさを感じた。

 早くこの日をと願っていたものの、いざ当日になってみれば、女御との初めての対面と御前での演奏に、ともすれば心が挫けそうになる。緊張で覚束ぬ足取りに、紅の薄様*に花薄はなすすき*の表着うわぎを重ね、濃蘇芳こきすおうの唐衣を身につけたきぬの重さが纏わりつく。

 暗澹たる思いで歩を進めていたその時、どこからか微かな赤子のいとけない泣き声が洩れ聞こえてきて、思わず小さな声を上げた。きっと若宮さまがむずかっておられるのだ、と口許に笑みが浮かぶ。少しだけ、心がほぐれた。

 立ち働く女房は姿かたちのよい者ばかり、きびきびとした動きもさすが内裏に出仕しているだけある。そのようなことを考えながら軟障ぜじょう*の張り巡らされた渡殿わたどのを行くと、やがて通された西の対の片隅に、すでに早々と父と姉、それに亮の姫君の姿が見えた。東宮亮はどこかへ席を外しているらしく、残された三人は少しばかり心許なげにも見える。

 とうに葛野の別邸の修理も終わっただろうに、未だ東宮亮の邸に居座り続けている父と姉を見ていると、結子は本当に腹立たしかった。権大納言たる義照が、浪費の末に邸を手放し葛野へ移ったことは誰もが知るところだというのに、今また平気な顔でこのような場に現れることが恥ずかしい。いくら、内大臣の北の方が気遣って招いてくれたのだとしてもだ。その出自に対して持っている愚かしい誇りは、このようなところにこそ感じて欲しいのにと心の中で苛立ちを覚えつつ、結子は逸子とともに父たちの許へ向かった。

 孫廂まごひさしに座る義照のすぐ間近の御簾のうちに、姉の晴子と亮の姫君が寄り添うように座っている。逸子と結子のしとねもそのすぐ側に設えられたので、軽く会釈をして亮の姫君の背後を通る。その時、ふわりとくだんの侍従の香が薫った。結子は扇を翳したまま、ちらりと視線だけ動かし、何ごともなかったかのように逸子に続いて茵に腰を下ろす。


「宮の方さま、ご機嫌よろしゅう」


 晴子のどこまでも晴れやかな挨拶を、逸子は亮の姫君に視線を走らせながら受けた。


「御機嫌よう、大姫。……亮の姫君も」


 言われて亮の姫君が慌てて頭を下げる。彼女が身じろぎするたび薫る強い香に、結子は思わず袖で口を覆った。


「あら……」


 その様子に気づいた晴子が、扇で口許を隠しながら結子に声をかける。


「中の君は、どこかお加減でも?」

「……いいえ、お姉さま、そのようなことは」

「そう? ところで素晴らしい衣をお召しだこと……その蘇芳はお母さまのものね?」


 言葉では褒めているけれど、扇から覗く姉の目は決して笑っていない。結子はただ、小さく頷いて瞳を逸らした。御簾の外からは父の呟きも聞こえてくる。


「なかなか見目よい女房はおらぬな」

「まあ! それは……殿や大姫さまほどの美しさに敵うお方は、そうそういらっしゃいませぬゆえ」


 やはり人のうわべしか見ない父と姉、そんな彼らにくだらぬ言葉ですり寄る亮の姫君の笑いに、結子は白々とした気分を持て余し、南向きに開けた広廂ひろびさし*の方に目を向けた。そして、そこに見つけた姿に音もなく息を呑む。ちょうど雅嗣がやって来て、女房と何ごとか言葉を交わしているところだった。

 俄かに弾む鼓動を抑えようもなく、結子はそっと姉たちの方を窺うと、気づかれぬように少しだけ彼らから離れて背を向けた。端近に寄って雅嗣の方を見る。縫腋袍ほうえきのほう*を身につけた見慣れぬその姿に目を奪われる。いらしてくださった、という高揚した気持ちが結子を大胆にし、やがてすぐ近くにまでやって来た雅嗣に、結子は御簾のうちから小さく声をかけた。


「御機嫌よろしゅう。……中将さま、いらしてくださったのですね」


 雅嗣はその声にびくりと足を止め、ゆっくりと視線を動かした。御簾のそばで雅嗣を見上げるような格好の結子は、話しかけたもののそれ以上の言葉が見つからない。


「……中の君」


 しばしの気詰まりな沈黙ののち、雅嗣は昔のように結子を呼んだ。

 先日まではよそよそしく、二の姫、と呼んでいたのに。結子はそのわずかな変化だけで涙が出そうなほどに嬉しく、切なさに心が疼く。

 その時、雅嗣が硬い表情のままちらと義照の方を見て、それから小さく頭を下げた。どうやら、義照が雅嗣を無視することなく、無礼にならぬ程度の挨拶はしたらしい。八年前には、会う価値もないと切り捨てた相手に、義照が自ら頭を下げたのだ。結子の背で晴子が訝しむ声をあげ、逸子が扇を開く音が鳴る。結子は今この瞬間、彼らの表情までは見ることができぬことを心から感謝した。

 雅嗣は、立ち去るべきかその場に留まるべきか、しばらく逡巡しているようだったが、やがて、不自然に結子から視線を逸らしたまま、その場に腰を下ろした。

 結子の傍を、かたびらをはためかせ几帳を運び込む二人の女房が通り過ぎる。それを見るともなしに見遣ってから、結子もまた伏せがちな瞳を前に戻した。


「……外には右衛門佐がおりましたよ。お会いになりましたか?」


 何気ない風を装って、雅嗣が先に口を開いた。結子はようやく話の糸口が見つかって、ほっとしたように顔を上げる。


「いいえ、残念ながら。右衛門佐さまには、あの日以来お目にかかっていないのです」

「あの日?」

「ええ、あの……若菜の君の」


 ああ、と雅嗣は唸るように頷いた。


「あれは……」


 そう言いかけて、雅嗣は一度口を噤んだ。そうしてしばらくの沈黙が落ち、結子が不安を覚えて御簾の向こうに視線を向けた時、ようやく続きを話し出した。


「恐ろしい出来事でした。まさか、あのようなことが起きようとは。お助けしてから目醒めるまでの数日間、わたしは生きた心地もしませんでした」


 雅嗣はそう言うと、深い息を吐き出した。


「でも、貴女はとても冷静に対処してくださったから」

「そのようなことはありません。わたくしは何も。あの時、中将さまが助けてくださったからこそ、今の若菜の君があるのです」


 結子は心底そう思って言ったのだけど、雅嗣は居心地が悪そうに小さく咳払いをした。


「それにしても、まさか大丞たいじょうが若菜の君に求婚するとは……」


 心底意外だとでも言いたげなその様子に、結子は微かに笑みを浮かべて答える。


「わたくしも、夢にも思っていませんでした。でも、お二人とも真面目でいい方たちですから、きっとお幸せになられますわ」


 雅嗣が初めてゆっくりと結子の方を向いた。御簾越しとはいえ、まっすぐこちらに向けられた視線に、結子は思わず瞳を伏せる。


「そうですね……わたしもそう願っています。大丞にも若菜の君にも、幸せになって欲しい」


 雅嗣は柔らかな声でそこまで言うと、簀子すのこを通りかかった男に気づいて頭を下げ、その背を見ながら続けた。


「──少々意外な組み合わせでしたが、しかし、あのお二人には何の障害もない。さきの播磨守どのや北の方も、これまでと同じように若菜の君を慈しむだろうし、お二人の幸せを祈り続けるでしょう」


 目を逸らしたまま、ぽつんと落とされた呟きのようなその言葉の裏にどのような真意が隠されているのか気づいた時、結子は堪らぬ恥ずかしさと悔しさ、申し訳なさから胸を締めつけられるような思いに陥った。

 この方は今、我が身に置き換えて、かつてのわたくしとお父さま、そして宮の方さまのことを考えておられるのだ、きっと。乳母の右京を除き、身内の誰一人として幸せを祈ってなどくれなかった、あの時のことを。

 ふ、と物思いを切り捨てるように、雅嗣が言葉を続ける。


「──正直に言うと、あのお二人には似たところがあまりない、そのことをわたしは心配しています。大丞は勤勉で物静かな、暇さえあれば書を読んでいるような男です。反対に、若菜の君はとても快活で外向的な姫君だ」

「きっと、大丞さまが若菜の君をお導きくださるでしょう。素直で本当にお可愛らしい姫君ですもの」


 あの素直な姫君はもう、今頃一生懸命に亨の好む書に向かっているに違いない。そんな光景を想像していると、雅嗣はまた結子を見た。それから、初めて小さく笑い、そうですね、と頷いた。だけど御簾越しに見えるその笑いはすぐまた姿を消し、憂いに沈んだその顔には影が差す。今まで見知ったひとのものとはどこか違う。

 女房が簀子にかけられた灯籠に順に火を入れ始め、ぼんやりと浮かぶ灯を背に、問わず語りのように雅嗣が話し始めた。


「右衛門佐の妹姫は、あの兄によく似た穏やかな方でした。時に繊細すぎる大丞のことを誰よりも理解していた」


 優しいひとであった、と亨も言っていたことを思い出す。


「大丞も一途に想っていました。あのようなひとを亡くして間もない大丞が、新しい恋をするなんて……」


 信じられぬ、と言外に匂わせて、雅嗣の声は少しずつ感情的になっていく。


「あれほど素晴らしいひとを想っていた男が、その想いを忘れて立ち直るなど、できるとは思えません。いや……立ち直れるわけがない」


 最後はまるで吐き捨てるかのように強くそう言うと、雅嗣ははっと冷静さを失ったことに気づいたのか、それきり口を噤んだ。

 結子はただ茫然と御簾の向こうの雅嗣を見る。

 今の雅嗣の言葉は、亨のことを言っているのだ。きっとそうだ。

 なのになぜ、彼はこれほど激しているのだろう? 何をどう言ったところで、実際の亨は立ち直り、若菜の君と新たな恋に落ちた。そのことを、雅嗣だって分かっているだろうに。

 やはり、若菜の君を亨に奪われたことを許せずにいるのだろうか。でも先ほど、彼らの幸せを願うと言った雅嗣の穏やかさに、偽りがあったようには思えぬ。

 もしや……? 打ち消そうとしても消えてはくれぬ考えに、結子は浅い息を幾度か繰り返し、袿の袖を握りしめる。やがて、その淡い期待が少しずつ確信に変わっていくと、あまりの胸苦しさに胸に手を遣った。

 このような雅嗣の様子を目の当たりにしてなお、結子は夢を見てはならぬのだろうか──雅嗣が言ったことは、初めての恋を忘れることなどできぬ、という、彼自身の胸のうちの密やかな吐露だと信じるのは間違っているだろうか?


「──あの……」

「ほらご覧なさいませ、大姫さま、右京大夫さまがいらっしゃいましたわ」


 結子が掠れる声で雅嗣に呼びかけたその時、背後で亮の姫君のはしゃいだような声がした。思わず広廂の方に視線を走らせると、元亘がこちらに向かってくるのが見える。

 咄嗟に雅嗣に視線を戻すと、彼もまたじっと元亘を見ていた。そして、小さく息をつくと先ほどとはまったく違う固い声で、では、と結子に伝え立ち上がる。かつて紀伊守邸でよく聞いたようなその声に結子は、喉元まで出かかった、待って、という言葉を呑み込んだ。

 雅嗣と入れ替わるように現れた元亘は丁寧に義照に頭を下げる。それから、晴子ではなく、ましてや亮の姫君や逸子にでもなく、誰よりも先に結子に声をかけてきた。


「中の君……ほんの数日だというのに、貴女にお目にかかるのがどれほど待ち遠しかったことか」


 その瞬間、間近にいる人々の空気が凍てつくのが分かった。亮の姫君が小さく、え? と言うのと、晴子が憤慨したように、まあ、と甲高く叫ぶのは同時だった。

 その冷ややかさの中でも結子の瞳はただ、雅嗣だけを追いかける。投げてよこされる刺すような姉の視線も、今はどうだっていい。あの方と今一度、もう一言だけでも交わさねば、ただその思いゆえに、心は今にも立ち上がらんばかりの勢いだ。

 雅嗣は元亘の一言に足を止め、背を向けたままこちらの気配を窺っているようだった。今こそと思わず腰を浮かせた結子の耳に、晴子と雅嗣を牽制するような逸子の声が飛び込んでくる。


「まあ、大夫どの。そのように仰るなら、遠慮なく会いにいらしてくださればよかったのですよ。ねえ、中の君?」


 その言葉がとどめとなって、雅嗣はこちらを窺っていた視線を静かに外し、前を向いて足早に対屋たいのやの奥の方へと立ち去ってしまった。なすすべもなく、力なく座り込んだ結子は、誰にも知られぬよう吐息を零す。

 胸の鼓動が早く大きくなっているのは、まもなく始まる宴への緊張だけではないだろう。結子は目を閉じて、一度大きく息をして必死で考えた。

 どうしよう、どうすればいい? あの方の心にも昔の想いが蘇っているのだと感じるのは、もはや自惚れではないはず。やはりなんとしてももう一度、あの方と話さねばならない。

 その思いは瞬く間に結子の心に大きく広がり、焦燥感に囚われてどこかにいらっしゃらぬかと対屋を見まわすと、いつの間にか一段高く作られた御座おまし*の側近くには内大臣の北の方 佳子が控えており、楽器もすでに運び込まれている。

 姉から発せられる険悪な雰囲気を、何ごとか耳打ちし合う女房たちのざわめきが押しやっていき、やがてそのざわめきはそれぞれの場へと向かい控える衣擦れの音に変わる。しばらくの間を置いて、まもなく女御さま参られます、という女房の凛とした声が響いた。



──────────


申の刻

今の午四時頃の前後二時間。


紅の薄様

蘇芳〜紅〜白のグラデーションの襲。


花薄の色目

表が白、裏がはなだ。淡い水色に見えたと思います。


軟障

壁代としてかけられた絹製の帳で、晴れの室礼に用いられるもの。


広廂

対屋の南面には、通常の廂の外側にもう一段低い廂の間を設けてあり、これを広廂と呼びました。簀子まで用いるとかなり広い空間となり、この場所で管弦や宴が催されました。


縫腋袍

脇を縫って裾部分にらんをつけた、文官の着用する束帯の袍。


御座

貴人の席のこと。

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