十七 再びの恋

 雅嗣がやり場のない苛立ちを床にぶつけている頃、結子もまた、羞恥に喜びと後悔が入り混じったような捉えようのない心地を持て余しつつ、覚束ぬ足取りで二条堀川の車宿くるまやどりに向かっていた。

 まさか、あの方とお会いするとは思いもしなかった。はしたなくも、またお話ししたいなどと声をかけてしまったけれど、変に思われはしなかったろうか。ただ、そのことだけがぐるぐると頭をめぐる。

 元亘が迎えにやって来たことで雅嗣が明らかな不快感を示した時、結子はほとんど本能的に彼に声をかけていた。ほんの僅かな希望を手繰り寄せ、勇気を振り絞って。

 雨音に包まれた廊を行きながら扇の陰で吐息を零し、それもこれも、内大臣さまと北の方さまがあのようなことを仰ったから、と言い訳がましく心に呟く。

 あのようなこと──雅嗣が現れるより少し前、不意に内大臣 有恒が雅嗣のことを話し出したのだった。紀伊の姫君が婿を迎えるということ、その相手が頭中将 雅嗣ではなかったこと。北の方 佳子は結子に、中の君はご存じでしたの? と問うてくる。結子は言葉に詰まり、気まずさに視線を落とした。ともに邸を訪問している逸子にはすでに若菜の君との顛末を話してあったけれど、今もなお、結子が雅嗣について話すのは好まぬことを知っている。頬に受ける逸子の視線が痛かった。

 詳しいことは何も、とたどたどしく答えた結子に、北の方はそう、と小さく息をついて、でもまたにっこりと微笑んだ。


「明るくてお可愛らしい姫君でしたわ。大丞どのもずいぶんお辛い思いをされてきたけれど、これからはお心穏やかに過ごされることでしょう」

「いや、わたしはてっきり、中将と……と思うておったのだがね。まあ今から思えば、その割には話が進まなかったな」

「きっと、初めから弟はそのつもりではなかったのよ。わたくしたちが期待して、思い違いをしてしまったのね」


 ね、となぜか、佳子は結子に向かって首を傾げて言った。結子は頷くわけにもいかず、ちらりと逸子に視線を向けたが、几帳の陰の彼女は相変わらずだんまりを決めこんだままだ。

 結子は何かを言わねばとくちびるを開き、ふと、思い違い……と声には出さずに呟いた。本当に思い違いだったのだろうか? 雅嗣が本心では若菜の君を想っていながら、亨の気持ちを知って身を引いた、などということはないのだろうか。だって、若菜の君を抱いた雅嗣の怯えるような瞳の色は、決して結子の見間違いではなかったはずだ。

 本当に? と素直に問うことは到底できず、でも僅かに芽生えた期待から目を背けることもできなくて、結子は回りくどい言葉で尋ねる。


「あの……もしや、中将さまが大丞さまと仲違いなさった、というようなことはございませぬか? あのように仲の良かったお二人が、このことでわだかまりを残し、こじれてしまったりしたら……」

「あら、いいえ」


 結子のおどおどとした声をよそに、佳子はあっけらかんと答えた。


「そのようなことはまったくないわ。文には恨みがましいことなど何ひとつ書かれてはいませんでしたもの。殿は少しばかり疑っておいでのようだけれど」


 そう言ってちらりと夫の方を見た佳子は、少し声をひそめて言った。


「もし弟が、かの姫君を本気で想うていたならばもっと早くに行動していたでしょう、きっと。それにね」


 佳子は、開いていた扇をぱさりと閉じた。


「弟は、たとえ恋を失ったとしても、そのことで人を恨むような性分ではない……できないと思うわ。自身でどう思っているのかは、存じませんけれどね」


 それはそうだ、と頷く内大臣の声が、結子には遠く聞こえる。

 あの方は、若菜の君のことをまこと想うてはおられなかった? 結子は眉を寄せて考えこんだ。恋を失っても人を恨むようなことはしない──もしそうだとすれば、彼が今まで見せた言動は、実は全く違う意味を持つことになるのではないか。

 もしや……となおも期待してしまう己の思い上がった浅ましさに気づいて顔に血が上り、結子は思わず扇を持つ手を高くした。とくんと心の臓が弾む。


「中将からの文には、右衛門佐からの文で知らされたと書いてあったな。まあとにかく、中将の妻探しはまた一からに戻ったわけだ」

「本当に……突然都を離れたりして、最近の弟はいったい何を考えているのやら、困ったものですわ……あら?」


 入りこんだ物思いの向こうに、あら? という北の方の声を聞いてふと我に返った結子は、何気なく動かした視線の先に濃二藍こきふたあい姿の雅嗣を捉え、飛び上がらんばかりに驚いた。

 御簾が隔てとなっていたけれど、うちにいる己の姿を隠すだけのそれはただ、雅嗣の気配を少しばかり結子から遠ざけるだけのものでしかない。雅嗣が若菜の君を娶らぬと知って以来初めて目にしたその姿は、痛いほどに結子の心を締めつける。それはまるで、初めて恋に落ちたかのような──


「──中の君?」


 いつの間にか立ち止まっていた雨の廊のただ中で呼ばれてはっと視線を上げると、翳した扇の向こうには従兄の元亘の端正な微笑みがあった。今の今まで脳裏に思い描いていたひとのものとは違うその微笑みに、結子は思わず目を逸らす。廊の柱に寄り添うように咲く夕顔が、容赦ない雨に打たれ花首を垂れているのを見つけて、ほ、とため息をつくと、元亘が結子に歩み寄ってきた。


「どうなさいましたか? ……ああそうだ、ここは元々、貴女の邸でしたね」

「……ええ」

「懐かしいですね。わたしがここを訪ねたのはもう、ずいぶん前になります。貴女にお目にかかったことはありませんでしたが」


 そう言いながら視線を上げて廊を見まわした元亘は、またもう一歩、結子に近づいた。


「貴女のお父君がここを手放さざるを得なかったのは残念ですが……お陰で、このように右大臣家との繋がりができたのですから、ありがたいと思うべきなのでしょうね」


 思いもよらぬ言葉に、結子は扇から覗かせた瞳をひそめた。


「おや? だってそうでしょう? 我が一族は血筋だけは摂関家の流れを汲むとはいえ、今やかようなありさま。わたしの父もとうに亡くなりましたし、飛ぶ鳥も落とす勢いの右大臣家とは比べものにならぬでしょう。そんなわたしたちが、主上おかみにも近い方々と親しくお付き合いさせていただければ、また昔の華やぎを取り戻すきっかけともなるというもの」


 すべての物音をも遮断するほどの激しい雨が息苦しいほどに邸を覆い、その中で立ち尽くす結子に向かって元亘が少しずつその距離を縮めてくる。その瞬間、ふ、と丁子ちょうじを強くした侍従じじゅう*の微かな、本当に微かな薫りが結子をかすめた。どこかで聞いたような、でもそれは、普段元亘が焚き染めている薫りではない。

 結子は思わず一歩後ずさった。姫さま、とそっと呼ばう茅野の声が背に聞こえた。


「……異なことを仰います。わたくしはただ、こちらの方のお人柄に惹かれ、近しくお付き合いさせていただくことを嬉しく思っておりますのに」


 正直なところ結子は、本来の持ち主である自分たちよりも、佳子たちの方がよほどこの二条堀川邸にふさわしいと感じていた。この風格ある邸により似つかわしい人があるじとなったのだ、と。だから、元亘の言葉はとても失礼な気がした。


「ああ、お怒りにならないでください」


 元亘は、話にそぐわぬ笑みを浮かべながら手にした蝙蝠かわほりで口許を隠し、声をひそめた。


「これでもわたしは、我が一族のことだけを考えているのです。本当ですよ。わたしはね、中の君、わたしたちがかつての栄華を取り戻すこと叶わば、貴女のお父君もご自分より身分低い方に目を向けるようなこともなくなるのでは、と……そう思っているのです」

「それは……」


 いったい誰のこと? という疑問が浮かぶのと、あるひとのことが思い浮かぶのはほとんど同時だった。そう、この侍従の薫りを纏っているのは、あの亮の姫君ではないか。


「わたしはそう望んでいるのです。貴女もきっと、同じ思いでおられるのでは?」

「……」


 元亘がまた、ふっと笑った。彼が時折見せる、僅かに口許を歪ませる笑い方は、彼に好意を持つ人間が見ればとても魅力的に映ったかもしれない。けれど今の結子には、亮の姫君に対する侮蔑的な態度のようにしか感じられない。

 元亘が亮の姫君を嫌い、その魂胆を大いに疑っているのは、これまでの話からも明らかだ。結子もまた、父 義照に亮の姫君が近づいていることを危ぶんでいたのは間違いないし、逸子だって警戒している。その点では、元亘の言いたいことも分からぬではない。だけど何なのだろう、この何か腑に落ちぬ感覚は。あの、一瞬の薫りはなぜ……?

 元亘はなおも言う。


「それに、宮の方さまも同じように思うておられるはず。この邸を手放さねばならなかった口惜しさゆえに、ご自分でわざわざ内大臣の様子を探りに来られたのでしょうから」

「……お言葉が過ぎるのでは?」


 結子が絞り出すような声でその言葉を咎めると、元亘は少し驚いたような表情を見せた。


「そうですか? わたしは宮の方さまの見識やもののお考えを尊敬し、感服しているのですよ。さすが、高貴なお血筋の方である、やはり違うと」


 元亘は、何か間違ったことでも? とでも言いたげな表情でそう続けると、結子にふわりと先ほどとは違う優しげな笑みを浮かべた。


「もちろん、わたしは貴女の優しさや教養の深さも心から尊敬しています」


 どちらの笑いが本来の彼のものなのか、その言葉が彼の真実なのか、結子にはその心を測りかねて言葉を呑み込んだ。

 元亘は、結子との間の苦い空気を払拭しようと、ふっとその身に漂わせる雰囲気を変えて明るく言った。


「それにしても、この邸はまこと素晴らしい」


 そうして眩しそうに邸を見上げながら、また、何気なく結子に近寄る。


「いつか、ここを取り戻したいものです……貴女のためにも、中の君」


 何かを訴えるような熱っぽい瞳で見つめられて、結子は眩暈でも起こしそうな気分に陥った。

 誰もが信じて疑わぬ、元亘のな態度──なぜ、結子にはかようにも綻びだらけに見えるのだろう。

 扇を深く翳して顔を背けた結子に、元亘はまるでご機嫌を取るかのようにもう一度微笑む。


「そうなればこの邸にふさわしく、多くの人を招いて盛大に祝わねばなりませんね。お父君も貴女も、そのように迎えられて然るべき方々なのですから」


 その言葉に結子は、あ……と思ったけれど、敢えて何も答えなかった。ただ、痛々しく雨に叩かれ続ける夕顔の花の打ちひしがれた姿をしばらく見つめ、それから一度ぎゅっと目を瞑って息をついた。


「……参りましょう」


 元亘の熱を孕んだ視線と、今にも袖を取られそうなその手の動きを断ち切るように、結子は決然と白撫子の袿の裾を捌いた。その姿を目を細めて見ていた元亘もまた、それ以上は何かを言うのを諦め、結子に背を向けて車宿へと向かった。




 ひどい雨を口実に念の為と茅野も同乗させた元亘の車で、父の仮住まいである楊梅やまもも小路の東宮亮の邸に戻った結子は、女御の宴にともに招かれ浮かれた様子の父や姉を、また後ほど、と適当にあしらい、早々に充てがわれた小さな局に引き籠もった。

 ひどく心がたかぶっていて、そして、ひどく疲れていた。

 茅野の手を借り、唐衣と裳を脱いで身軽になると、結子は崩れるように脇息きょうそくに凭れかかって目を閉じる。

 父や姉がどう思うかはともかく、逸子が元亘と結子の結ばれることを望んでいると知るのは苦痛だった。

 もしも雅嗣の存在がなかったなら、結子は元亘のことを受け入れることができたのだろうか?

 結子は脇息に突っ伏したまましばらく考え、小さく首を振った。答えは否だ。

 やはり、元亘の心の底には、誰にも見せぬようにしている闇があるように思えてならぬ。かつて父を蔑ろにし、姉の晴子せいこに恥をかかせ怒らせた彼が、今、どれほど取り繕って誠実を装ったとしても、結子の目に見える綻びは間違いではないという確信があった。

 二条堀川の邸を見て、盛大な宴をと言った元亘と、かつて、一面の箏の音の方がよほどふさわしいと言った雅嗣と。結子の心の琴線に触れるのがどちらなのかはいうまでもない。どうして、そのような雅嗣の存在をなかったことになどできようか。

 今日、不意に現れた雅嗣を見た瞬間の動揺……思い出しても恥ずかしくなるほどに、己を見失ってしまった。紀伊守の邸でのさまざまな出来事から、顔を合わせることにももう慣れていたはずだったのに、と結子はまた目を瞑る。

 御簾越しに見た雅嗣の姿、雨に濡れてすぐ間近に来た気配、その声。八年前、初めて出逢ったあの時からただひたすらに憧れ、想い続ける気持ちを、結子には抑えることなどできなかった。

 声……? はたと結子は顔を上げた。そういえば、あの方の様子もどことなくこれまでと違った気がする。

 どこまでもぎこちなかった、束の間の語らい。結子に向けられたその声も、これまで紀伊守の邸で幾度も耳にした、自信に溢れつつも、結子の心を冷えびえとさせたあの声ではなく、まるで己の心を押さえつけているかのような、戸惑いに満ちて不安げな声ではなかったか。

 あの方も、もしや……? そう考えるだけで、結子の心はまた、落ち着きなく揺れ始めるのだ。

 このささやかな期待もまた、見当違いなのだろうか? ──いくら考えようとも答えの出ぬ問いを、結子は幾度も幾度も繰り返す。


「雅嗣さま……」


 もはや決して口にはできぬと自ら戒めたその名を、あの別れから初めてくちびるに載せる。

 結子は今また、雅嗣に恋をした。



──────────


侍従

秋の薫り。この時代に薫物たきものとして用いられた香のうち、黒方くろぼう、梅花、荷葉かよう、侍従、菊花、落葉おちばの六種を特に『六種むくさの薫物』と呼びました。

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