十六 想いと現実
一抹の不穏な風が
二条堀川の邸、東の対。御簾を隔てたすぐ向こうに、かつてここの住人であった中の君がいる。小さく聞こえたご機嫌ようという声は、それだけで心をざわめき立たせるに充分だ。
雅嗣は、敢えて意識せぬようにしながら視線を御簾のうちに向けた。陽が陰ったせいで暗くてよくは分からぬが、
ふいと逸らした視界の端を、淡く光を放つような白の袿がよぎった。まっすぐに見ることができず、咄嗟に目を伏せる。
若菜の君を──愛情もない
動揺を隠せずにいる雅嗣をよそに、御簾のうちでは楽しげな会話が続いている。賑やかな笑い声の中に時折、中の君の声の微かに洩れ聞こえるのを全身で追いかけ夢中で耳を凝らして、そんな自分に気づいて困惑し、ため息をつく。そのようなことをひとり簀子で繰り返していると、内大臣
「さてさて……そなたのような若い男でさえ、女たちの話には入れぬと見える」
とぼけた調子でそう言うと、
「わたしも苦手だ。いや、無理だな。こうも延々と……付き合いきれぬ。しかし」
言いながら有恒は、すとんと雅嗣の隣に腰を下ろした。
「頭中将ともあろうそなたが、かように不器用な男とは思うてもおらなんだ」
「……は?」
「あれだ、紀伊の姫のことだ」
有恒は思わず顔を上げた雅嗣に、心配そうな、でもどこか探るような視線を投げて寄越した。
「これでよかったのか? あの男……なんだったかな? そなたの友人の」
「式部大丞のことでしょうか?」
「そうそう、その男が紀伊の姫の……どちらだったか?」
「妹姫の、若菜の君です」
「おお、そうだ。若菜の君を娶ることになったとか」
「ええ」
「そなたも足繁く通うておったのであろう?」
憮然とした表情で話につき合っていた雅嗣は、ぴくりと眉を上げて義兄を見た。
「いえ、わたしは──」
「まあ、こうなったものは仕方あるまい。なんだ、あの、姉姫も婿が決まっておったそうだな」
「
「ほう、それではそなたの入る隙もあるまい。佳子も落胆しておったぞ」
ほほほ、と響く姉の屈託のない笑い声を聞きながら雅嗣は、そうであろうか、と心のうちでだけ呟いた。
「苦しかろうな」
独り合点した有恒に同情を込めてしみじみとそう言われ、雅嗣は先日までの嵯峨の寺での日々を思い出す。若い頃の恋も知る兄に愚かなと呆れられ、ひたすら激しい後悔に身を置いていた闇夜のような毎日。あの頃に比べれば、今の気持ちは言い表しようもないほど清々しく、晴ればれとしている。
雅嗣は、静かに言葉を選びながら言った。
「わたしはこたびのこと、とても嬉しく、姫君がたには幸せにと願うばかりです。元よりそれ以上の思いも恨みも抱いてはおりません」
ふんふん、さようかと頷きながら微妙な笑みを浮かべていた有恒は、雅嗣の言葉にも耳を貸しているのかいないのか、ふと声をひそめた。
「じきに
「……」
これでも真剣に独り身の雅嗣のことを案じてくれているのだろう。雅嗣は、その言葉をありがたく受けることにして小さく微笑んだ。一方の有恒はどこまでも飄々とした様子で、まあ気落ちせぬように、と言い残し、独り先に寝殿へ戻って行った。
再び頭を下げ、吐息をつきながら有恒を見送る雅嗣の
「雨が降って参ったようです。どなたか、中将さまを……」
誰かと問うまでもない、それは中の君の声だった。己の方を見ていたのか、そう考えるだけできりきりと心が疼く。
話し声の止んだ
「……
言いながら雅嗣は思った、もうこれで幾度、中の君に礼を伝えたか、と。
なぜ、中の君は変わってしまったなどと思ったのだろう。彼女の心映えは、その優しさは、何ひとつ変わってなどいなかったのに。ずいぶんと嫌な言葉も投げかけた気がする。
己に嫌気すらさした雅嗣に、結子は微笑みを浮かべたような声で尋ねてきた。
「濡れてはおられませぬか?」
「……ええ」
ただそれだけを答え、雅嗣はまた言葉に詰まった。よろしゅうございました、とか細い声で言った結子もまた口を噤み、そのまま二人の間に沈黙が落ちる。すぐ横で姉たちのお喋りが続いているにも関わらず、雅嗣には雨音に包まれた静かな空間に、ただ二人だけで向かい合っているようにも感じられた。
やがて、あの……と結子が沈黙を破った。
「いつも、お文を届けてくださったのだとか。ありがとう存じます」
「いえ、ちょうど通り道だったものですから」
雅嗣は固い声で答える。紀伊守の北の方
「しかし、わたしが嵯峨に行ってしまったせいで途絶えてしまい、申し訳ない」
「いいえ」
そして、また話が途切れた。ざあ、という雨音が、煩わしいほどに
「……嵯峨には、どのくらい行かれてましたの?」
「半月ほど……」
互いの口から出る言葉は戸惑いゆえかぽつぽつと短く、はざまに落ちる沈黙が重い。居心地の悪さに雅嗣は、胸元から蝙蝠を出して握りしめた。
そういえば、このように中の君と他愛もない話をするのは、再会以来初めてだ。そう気づいた瞬間、雅嗣の心は沸き立つように震え出した。雅嗣に語りかける結子の声は、今も変わらぬ優しさを湛えている。もしや八年の歳月を取り戻すこともできるのではないか、そんな思いが雅嗣の心によぎる。
「兄君さまは、ご息災でいらっしゃいましたか?」
結子の小さな問いかけに少し驚いて、雅嗣は伏せがちだった視線を上げた。
「……兄のことを覚えておられたのですか?」
「だって、それは……」
結子は何かを言いかけて、しかしまた口を噤んだ。まわりが何やらざわめき出したからだ。幾人かの女房たちが二人の側を通り過ぎる。
それは──何を言おうとしたのだろう? 出家した雅嗣の兄は結子との恋を知る、数少ない理解者の一人だった。結子もそのことを知っていたはずだ。そうして今度は、雅嗣の心に淡い期待が芽生えた。中の君もまた、あの時の想いを持ち続けているのではなかろうか? 己と同じように。
「それは……?」
何を言わんとしたのか、問い返そうとした時、背後で女房が伝えてきた。
「ただ今、
几帳の陰でざわりと身じろぎの気配がして、そのまま結子の口から続きが語られることはなかった。気まずい沈黙と、右京大夫とは誰かという疑問に、雅嗣もまた口を閉じる。
やがて、すらりと背の高い男が、雨のかからぬよう渡殿から妻戸をくぐって現れた。その立ち姿を見て雅嗣は瞬時に思い出した、あの
「……わたくしの従兄なのです」
几帳の後ろから、まるで言い訳のような結子の声がした。
「今日はこれから、宮の方さまのところではなく父の許に参りますの。それで、あの方が迎えにいらしてくださったのです」
「従兄……」
雅嗣は呟いた。従兄といえば確か、一の姫の婿がねだった男ではないか、と首を傾げる。結子が雅嗣の事情を知っているように、雅嗣もまたある程度は結子の状況を知っていた。ただし、すべて八年前の話だが。
雅嗣は再び
元亘は、控えめに離れたところに腰を下ろし、深く頭を下げた。
「ひどい雨で、見苦しい姿をお見せして申し訳ございません」
「よう参られました」
佳子が言うと、それまで口を開かなかった宮の方も嬉しげに言った。
「とんでもない、誰がかようにひどい雨になると思いましょう? わざわざ、中の君のためにいらしてくださって、感謝いたしますわ」
取次ぎも介さず、直に声をかけたところを見ると、すでに宮の方はこの男の存在を受け入れているようだ。
「中の君をお願いいたしますよ」
「もちろんです。雨も止みそうにありませんから、すぐにでも出立いたしましょう。中の君、お父君もお待ちでしょうから」
元亘はそう言いながら、結子のいる几帳の方を熱っぽい目でじっと見た。それから、今その存在に気づいたかのようなそぶりをして、雅嗣に不遜な視線を投げつけた。
「……初めてお目にかかります」
小さく頭を下げてそう言った元亘の言葉を引き継いで、結子が続けた。
「中将さま、先ほども申しましたわたくしの従兄で、右京大夫を務めておられます」
そう言ってから、今度は元亘に語りかける。
「頭中将さまです。こちらの北の方さまの弟君でいらっしゃいます」
ああ、これはご無礼をいたしました、と元亘は慇懃に言って微笑んだ。雅嗣は厳しい目で彼を見、小さく会釈するにとどめる。どこか抜け目のないその雰囲気を訝しみ、雅嗣は姉に問うた。
「姉上は、お会いになられたことが?」
佳子は弟の突然の問いに首を傾げながら、ぱさりと扇を開いた。
「ええ、
麗景殿女御の若宮は、いずれ
右大臣家と権大納言の甥が東宮亮を介して一本に繋がり、雅嗣は頷いた。
「……なるほど」
呟きながら再びちらりと元亘を見ると、向こうも同じように雅嗣に視線を向けていた。二人の視線が絡んだ瞬間、ふっ、と口許を歪め、鼻で笑うような仕草を一瞬見せた元亘は、それでは、と立ち上がった。
「中の君」
促すように呼ぶその声はことのほか甘い。雅嗣は我知らず蝙蝠を握る手に力を込める。
さやと軽やかな衣擦れがして、結子が席を立つ気配がした。もはや雅嗣にできることは黙って見送ることだけだ。けれどその時、思いがけず結子が密やかな声で話しかけてきた。
「中将さま、今度の宴にはおいで遊ばすのですか?」
「いえ、まだ何も……」
「ではぜひ、いらしてください。先ほど、北の方さまと楽の相談もいたしましたの。楽はお好きでしょう?」
「……」
「大丞さまと若菜の君のことも、お話したいですし」
結子はそう言うと、雅嗣が何かを言う前に皆に礼を述べ、柔らかな手つきで扇を翳し、元亘に続いて廂を出て行った。
「──ねえ、宮の方さま」
誰もが口を閉ざし結子を見送った静けさの中で、佳子が結子の出て行った妻戸の方を見ながら言った。
「中の君は本当に素晴らしい女人ね。穏やかで、楚々と美しゅうて、優しくて。先ほどの箏のお話でも知識も深く、選ぶ曲は本当にご趣味がいい。世には一の姫の評判ばかり聞こえてくるけれど、なぜなのかしら。中の君がかように寂しくお暮らしの理由が、わたくしにはまったく分からないわ」
「……」
逸子は一瞬、言葉に詰まったようだった。それから、当たり障りのない言葉で結子を褒めた。
「中の君の母君も、素晴らしい方でした。日に日に似通うてこられます」
それでも、逸子の愛しい娘を思うような口ぶりに、まわりの女房たちも頷き合う。
「右京大夫さまもこれまでは鄙におられましたけれど、このたび都にお戻りになられ……お血筋もございますし、すぐに然るべき地位に就かれることでございましょうね」
「まあ、そうなればきっと、中の君さまをお迎えになられるのでは? お美しいお二人、ようお似合いにございますもの」
雅嗣は、結子が去ったあとの女たちの会話を黙って聞いていた。そして、顔には出さぬまま心の中で呟いた。
女たちの喋りは嫌いだ。
これまでも宮中でたびたびそう思ってきたが、雅嗣は今また確信した。聞くに耐えぬ。そして、そのような話にこれほどまで心掻き乱される己も……ただ、腹立たしい。
脳裏に焼きついた並び立つ結子と元亘の後ろ姿や、無残に打ち崩された淡い期待を断ち切るかのように、雅嗣は一度、ぱんっ、と蝙蝠で床を打った。けれど、賑やかに喋り続けるその場の女たちは、誰一人としてそのことに気づかなかった。
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筒井筒
幼なじみのこと。『伊勢物語』第二十三段に幼なじみの男女の恋が描かれており、そこで詠われる歌に由来しています。
筒井つの 井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
麗景殿
この場合、麗景殿女御を指します。時として、住まう殿舎の名で女御を呼びました。
直衣
通常、参内時には位に定められた色の衣冠を着用しますが、雑袍宣旨(何色の袍でもよいという特別な許可)を受けた者は、直衣で参内することが許されていました。
白撫子の襲
白〜蘇芳、紅梅〜青(今の緑)の色目を使った襲。
白が際立ち、そこに仄かに紅が透けた色目です。
(表みな白くて。裏蘇芳。紅。紅梅。青き濃き淡き。白き。紅ひとへ。こゝろごゝろなり。──『満佐須計装束抄』より)
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