十一 暗転

 それはもしかしたら、二人が心の奥底でずっと、待ち望んでいた瞬間ときだったのかもしれない。

 だけどそれは、決して二人が待ち望んでいたかたちではなかった。


「──こちらへ」


 結子は、雅嗣と交わした視線を落とし、釣殿つりどのの御簾の中を指し示した。射るように結子を凝視していた雅嗣もまた、その声に弾かれたように目を逸らし、若菜の君を抱きかかえたまま無言で彼女の前を通り過ぎる。

 結子はその時、雅嗣が、色を失った若菜の君の頬をしっかとその胸に押しつけいだくのを見た。床の板には、だらりと垂れた若菜の君の力ない腕の先からも、そして雅嗣の身体からも、点々ととめどなくしずくが落ちていく。結子は震える息を一度だけ零すと、その跡を辿り、雅嗣に続いて御簾のうちに入った。

 褥代わりの畳に若菜の君を横たえた雅嗣は、己の姿も顧みぬまま若菜の君の口許にてのひらを翳す。その蒼ざめたくちびるは微動だにしなかったが、掌は若菜の君の微かな息を捉え、そこで初めて雅嗣は、は、と息をつき、身体の強ばりを解いた。

 若菜の君の頬や額に張りついた髪を払おうとしている雅嗣の手は震えていた。それは水に落ちた冷たさゆえか、大切なひとが直面している状況に対する恐怖ゆえか。結子はそのことに気づくと、空恐ろしいほどの静けさの中、さわと衣擦れの音をさせて雅嗣とは反対側に座った。ふ、と雅嗣の指が止まる。結子は瞳を伏せたまま、わたくしが、と袿の袖で若菜の君の冷たく濡れた頬を拭い、丁寧に髪を除けた。


薬師くすしを呼ぶよう、言ってあります。もうじき、女房たちも参りましょう」


 優しく、一筋ひと筋髪を払う結子の指先に、雅嗣はまるで魂の抜けたかのような視線を置いていた。返事のないことを訝しんだ結子がそっと瞳を上げると、雅嗣は、いきなり現実に引き戻されたかのようにびくりと身体を揺らし、伸ばしたままの手を引っ込めた。


「……あ、ああ、申し訳ない──」


 雅嗣は、途中で折れた烏帽子えぼしの下、乱れた髪が幾筋も落ちた額にその手を遣り、目を閉じた。未だ成熟し切っていない若菜の君を無意識にでも焚きつけた結果がこれだと、雅嗣も今ようやく理解したのだろう。

 結子は若菜の君の冷たい手を取り、両手で包み込む。


「中将さま……若菜の君はきっと、大丈夫です。神仏もお守りくださいます」


 結子の言葉に、雅嗣はかすれた声で呟いた。


「わたしのせいだ……どうすれば、いい……?」


 結子はうつむいたまま、ぎゅっと目を瞑る。縋るような言葉と狼狽うろたえる姿が、心に痛かった。


「……殿!」


 大きな足音とともに、几帳の後ろから任子の声がして、結子ははっとそちらを振り返る。御簾の外に護貞の影が見えた。なんとか正気を取り戻した初音の君の肩を抱えるようにして、釣殿に上がってきたのだ。


「様子は!?」


 護貞は横たわる妹の方に来ようとしたものの、几帳の向こう側で初音の君を抱えたまま任子にしがみつかれて、身動きが取れなくなっていた。


「大丈夫です。どうか皆さま、落ち着かれて……」


 御簾の向こう側の簀子すのこで、亨と頼彬も黙り込んだまま様子を窺っている。すすり泣く初音の君の声だけが響き、場は沈鬱な空気に支配されていた。

 廊の方に母屋もやから数人の女房のやって来るざわめきが聞こえる。結子はもう一度、中将さま、と呼びかけた。


「女房が参ります、若菜の君を母屋にお連れいたしましょう。お願いできますか?」


 それを聞いた雅嗣は静かに目を開き、じっと結子を見る。まっすぐに受け止めたその瞳の色を見て、結子は心のうちで激しく動揺した。決して気取られてはならぬと若菜の君の手をそっと離し、己が手を袖の中にかたく握りしめる。

 自分を信じる力に満ちていたはずの男の、傷ついた瞳──それはかつて、結子が雅嗣に別れを告げた時のものと、とても似ていた。大切なものを失うかもしれぬと怯える、彼の瞳。

 結子は、そのことに気づいてしまったやるせなさと苛立ちから声を荒だて、動こうとせぬ雅嗣をもう一度強く呼ばった。


「中将さま!」


 叱咤するような結子の声に、雅嗣はまるで頬を打たれたかのようにはっと息を呑む。そして、まるで今ようやく覚醒し我に返ったとでもいうように、あたりを見回した。

 ざわざわと押し入ってきた四、五人の女房たちが、悲鳴ともつかぬ声をあげて姫君を取り囲む。そんな中、差し出されたふすまで若菜の君の冷えた身体を素早くくるんだ雅嗣は、そのまま軽々と彼女を抱き上げた。そうすることが当然とでもいうような雅嗣の自然な態度に、結子の心がまたもきりりと痛む。若菜の君を追って見上げた視線をふっと逸らし、側にいる女房に言った。


「中将さまもひどく濡れておいでです、誰ぞ」


 結子の声に慌てて布を手に寄ってきた女房に、雅嗣は首を振る。


「……わたしは構わぬ。とにかく、母屋にお連れいたそう」

「あの……」


 一人の女房がおずおずと口を開いた。


「母君さまのご心痛いかばかりかと思い、未だ母屋の方には伝えておりませぬ。まずはこちらにて……」


 その言葉を聞いて、雅嗣が足を止め、しばし思案する。


「では──」

「わたくしの──」


 雅嗣と結子が同時に口を開き、そして同時に口を噤んだ。それぞれに互いを見ることなく戸惑うような視線を落とし、それから結子が瞳を伏せたまま言った。


「わたくしのところに……」

「……かたじけない」


 雅嗣は結子に背を向けたまま小さく頭を下げ、女房に先導されて東の対に向かった。そのあとに続き、ほんの数刻前、あれほど楽しげにはしゃいでいた若菜の君とともに歩いた廊を、その場にいたすべての人々がうなだれ戻っていく。結子もまた、御し難い悲しみを胸に抱え、釣殿をあとにした。




 薬師の見立ては、それほど悲観的ではなかった。

 すぐに気を失ったことでほとんど水を飲んでおらず脈もしっかりしている、やがて目を覚ますだろうと聞いて、その場の人々が一様に安堵の吐息を零したのは言うまでもない。

 東の対に設えられたしとねに、若菜の君は未だ目覚めることなく横たわっていた。枕元には結子と任子がつき、初音の君は少し離れたところで脇息に突っ伏していた。

 その頃にはきぬも替えてかなり平常心を取り戻していた雅嗣が、御簾を隔てたひさしの間の隅で護貞たちと今後のことを話し合っている。


「……お父君たちには、責任を持ってわたしから話をさせていただく」


 雅嗣が決然とそう言うと、護貞を含め、それに異を唱える者はいなかった。ただ、頼彬だけがぴくりと眉を上げ、雅嗣を見た。そのことが何を意味するのか、と案じる頼彬の視線に気づいたかどうか、雅嗣はそれから、と話を進める。


「付き添って看ていただくのは、に任せられればいいと思うのだが……」


 結子は、御簾のうちで雅嗣のその言葉を聞いた。男たちは皆、この意見に賛成のように見えたし、そう頼まれればもちろん、結子は若菜の君の看病を喜んで引き受けるつもりだった。中の君、ではなく、二の姫、と、よそよそしく初めて呼ばれたことも、あえて気にかけぬようにして。

 ところが任子がまた、それはおかしい、と声をあげた。


「わたくしが、若菜の君の義姉あねなのですよ? どうしてわたくしでなく、お姉さまが看た方がいいなどと仰るのかしら!?」


 この場違いな要求に、結子だけでなく、御簾の外からも任子の方に呆れた視線が向けられた。しかし、取り乱す以外何もできなかった者が何を言うのか、という場の雰囲気をものともせず、結局は護貞も折れて、任子のこの要求は通ってしまった。雅嗣があからさまに苛々と深い息を吐き、いつも穏やかな頼彬がそれを目線で制した。

 どこか白々とした空気の漂う中、結子は任子の横顔を見ながら、もはやこの邸にいるべきではないと思った。ただでさえ若菜の君のことで大変になるだろうこの時に、姉妹で役目を取り合いするなどまっぴらだ。

 結子は小さくため息をつくと、後ろに控える茅野に声をかけた。


「茅野、紙と筆を」


 手際よく用意した茅野は、いずこに? と尋ねる。


「まずは宮の方さまに。三の君もずいぶん元気を取り戻したし、わたくしがここに長居する謂れもないでしょう? そろそろおいとまさせていただこうかと」


 そもそもは、体調が悪いと騒ぐ任子の面倒を見ろと、厄介払いのように父にこの邸へと送られたのだ。雅嗣と再会することになったのは予想外であったけれど、これほど長居するつもりもなかった。


「義姉上、それでは宮の方さまのところに?」


 護貞が困惑した様子で尋ねてくる。これほどよくしてくれたのも、すべて護貞の人柄ゆえだろう。


「いえ、恐らく葛野かずらのの父の許へ参ることになるでしょう」

「そのような……。義姉上は、いつまでもここにいてくださっていいのですよ」


 そう言い募る護貞の言葉に、結子はちらりと任子を窺う。黙り込んだままの任子は、姉にいて欲しいとは頑として言わなかった。いつだったか、殿はお姉さまのことばかり、と言っていた任子の言葉が結子の脳裏に蘇る。


「ありがとう。でも、元より葛野へ行くつもりだったのですから」


 護貞ももう、それ以上は何も言わなかった。その代わり、ずっと黙りこくったままだった亨が口を開いた。


「残念です、もっとお話させていただきたいのに」

「今生の別れというわけでもありませんわ。よろしければ、葛野にもいらしてください」


 結子はそう言って、小さく微笑んだ。恐らく、葛野まで会いに来る人などいないだろう、と思いながら。

 そう──二条堀川の邸を失った時から、結子の居場所などどこにもないのだ。否、母を喪った時からかもしれぬ。

 ここで束の間、皆と楽しく過ごし、話し相手にもなって過ごしてきたけれど、それもただ好意に甘えてきただけだった。結局のところ、結子などいなくともこの邸の暮らしは成り立つのだ。

 そして、と結子は雅嗣の方を窺い見た。

 あの方もまた、今は空いているその場所に迎え入れるべき女君を見つけただろう。先ほどのような喪失に怯える瞳を見れば、回復した若菜の君を逃してしまうような失敗はするまい。

 そして、すべてがあるべき場所に収まるのだ。

 結子は誰にも気づかれぬよう、ほ、と吐息を零す。

 葛野に行ったとて、父や姉からは歓迎もされぬだろう。それでも今の結子には、そこしか行く場所はないように思えた。


「──さて」


 穏やかに様子を見守っていた頼彬が、悪い足を庇うようにして立ち上がる。


「わたしはここで失礼するよ。紀伊守どの、あまりお気を落とされぬよう。また、若菜の君の容体など知らせてくれ」


 そう言いながら頼彬は、視線を落とし黙り込んだままの雅嗣の肩に手を置き、意味ありげにぽんぽんと軽く叩いた。そして、御簾の中へ会釈するとその場を去っていった。

 すでに陽はすっかり落ち、迫りくる闇を前に雨の気配が御簾のうちにまで忍び入る。

 結子は、眠り続ける若菜の君を見つめながら幾度か目を瞬かせ、それから思い直したように顔を上げてひとつ息をつくと、筆を取った。もう二度と、雅嗣の方には視線を向けなかった。

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