十 舟遊び

 草の香りをまとった皐月の風が、紀伊守邸の西の対の先、池の上に突き出した釣殿つりどのの御簾を揺らす。

 南面だけ開け放たれたその空間に涼やかな薄紫の羅の几帳を置いて、結子は妹の任子や、足が悪いことを理由に舟には乗らなかった右衛門佐 頼彬よりあきとともに菓子など囲みながら、池に浮かべられた舟を眺めていた。

 楽しげな若い姫君たちの笑いさざめく声が、釣殿の中にまで響く。几帳を載せて仕切られた舟には他に、二人の兄で邸の主である護貞と雅嗣、亨が乗っていた。前々からの約束をどうしても、とせがんだ若菜の君の希望による舟遊びだ。

 紀伊守邸の南庭にある池は、あまり大きくはないが凝った造りになっており、まわりに配置された樹々も季節を意識して面白く作られている。まだ若い松に、終わりかけの花藤が絡みついている足元には菖蒲の葉が生い茂り、その横には清らかな夏椿が、早くもいくつかの白い花を咲かせ始めていた。

 樹々の下、真新しい舟を操る船差ふなさしの棹からはきらきらと水が飛び散り、それを受け止めようと、若菜の君が衵扇あこめおうぎ水面みなもに差し出している。遠くから見ていても危なっかしいことこの上ない。


「──ねえ、お姉さま」


 ふと、隣にいる任子からこそりと耳打ちされた。今日はまた体調が悪いと、舟にも乗らず黙りこくったままの妹がようやく口を開く。


元亘もとのぶさまからは、その後何か?」


 今度は結子が黙り込む番だ。結子はそっと扇を翳した。

 あの不躾な従兄のことなど、今は考えたくもない。あの祭の日からもうじきひと月が経つが、あれきり何の音沙汰もないのは、やはりあの場限りのことだったのだと結子は思いたかった。


「……いいえ、何も。きっと、いっときのお戯れだったのでしょう」

「そうなのかしら?」


 腑に落ちぬといった様子で任子は首を傾げた。これほどいい話はないのに、と信じて疑っていないのだ。


「叔父君さまがお亡くなりになられて久しいけれど、もしもお姉さまとのお話をお聞きになられたら、きっとお喜びになられると思うわ。お父さまだって……」


 あの父が、今さらあの、自分たちを足蹴にした従兄と関わることを喜ぶはずはあるまい。だけど、任子の見当違いな話にいちいち反論するのも面倒で、適当に相槌など打ちながら、結子の視線は無意識に雅嗣の姿に吸い寄せられていた。雅嗣は涼しげな若蝦手わかかえでの狩衣を身につけ、時折その手を水につけたりしながら、何やら楽しそうに男同士で語り合い、そして笑っている。再会後、そのように眩しい笑顔を見たのは初めてだった。結子は思わず、目を細めて扇を口許まで上げる。

 あの賀茂祭の日、倒れそうになったところを助けてくれた雅嗣の腕を、結子はこのひと月、幾度も幾度も思い返しては心を震わせていた。

 あの方はそういうお方なのだ、と……わたくしを許すことはできなくとも、他に想いを寄せる女君がいるとしても、その心の優しさゆえに、かつて親しんだことのある女を冷淡に突き放すことができず、助けてくださったのだ、ただそれだけだ──結子は、そう思おうとしていた。そうでもしなければ、また結子の心は雅嗣に向かってしまいそうだから、必死でそう思おうとした。

 それでも、あの方が助けてくださったのだと思うだけで、結子の心は激しく揺れ動いてしまう。間違いなく存在していた二人の愛情の、無残に壊れ果てた欠片かけらを目の前に突きつけられたような心地で、結子にはそれが喜ぶべきことか苦しむべきことかすら、もう分からなかった。


「──お姉さま……お姉さまったら!」


 任子に呼ばれて、結子ははっと我に返る。


「皆がこちらを見ているわ。何かしら? ほら……」


 言われて扇の指す先を見てみれば、確かに舟の上の人たちが皆、結子たちのいる釣殿の方を見ていた。結子は思わず、脇息から身を起こす。薄い羅の几帳越しには、明るい光の下での出来事はすべて手に取るように見えるけれど、舟からは結子たちの姿はほとんど見えないはずだ。それでも、五人の視線が一斉にこちらを向くとなんだか落ち着かない。やがて、舟はゆっくりと方向を変えて、釣殿のほうへと向かってきた。


「右衛門佐さま、二の姫さま、お乗りになりませんこと?」


 舟の上から、若菜の君の呼びかける声が聞こえてきた。結子はもうこれで何度、一緒に乗ることを断っただろう。


「まあ……! わたくしには、お声もかけてくださらないのね」


 任子は任子で、また僻んだ言葉を呟いている。結子は小さくため息をつき、控える茅野に断りを伝えさせた。几帳の向こう側でも頼彬の、わたしは結構です、という声がする。

 やがて舟はまた、諦めたように釣殿から離れていく。舟が水を掻き分ける音が遠ざかっていくのを感じながら、結子は脇息を引き寄せ凭れかかった。


「二の姫、よろしかったのですか?」

「……え?」


 ふいに、それまでまったく話しかけてこなかった頼彬に声をかけられ、結子は驚いてそちらを見る。


「お乗りになればよかったのに。皆、貴女のことを待っていましたよ」


 結子を責めるでもなく、まるで独り言のようにそう言った頼彬は、それから結子にだけ聞こえるような声で、ぽつりとこう続けた。


「……中将もね」


 最後の一言に、結子は再び視線だけを上げ、几帳に遮られた頼彬の方を見る。この方は何を言わんとなさったのだろう。何をご存じなのか。


「あの……」


 結子が尋ねかけたその時、俄かに舟のあたりが騒がしくなったかと思うと、未だかつて聞いたことのないほど大きな水音が聞こえてきた──




 池の水の撥ねる音が耳に心地いい。

 務めに追われる日々を送る雅嗣にとって、このように過ごす午後の時間はいい息抜きともなっており、今や完全に紀伊守の好意に甘えている。雅嗣の足がこの邸に向かう理由となっているのが何なのか、そこにはそれぞれに思うところがあったが、恐らくは本人もよく分かってはいないのだった。

 ゆらりゆらりと揺蕩たゆたう舟に乗って、雅嗣は邸の方を眺めた。建てられてからまださほど時の経っていない建物は、木材の色も明るく若々しい雰囲気がある。


「良い邸ですね」


 雅嗣の言葉に、護貞も己の邸を見遣る。


「ええ、これでもいろいろと考えて建てたのですよ。ただ、妻はどうやら気に入らぬらしい。二条堀川のような由緒ある邸と比べられても困るのですが……」


 苦笑を浮かべながら言う護貞の言葉に誘われて、雅嗣は紀伊守の北の方がいる釣殿あたりに視線を向けた。簀子すのこに、頼彬が寛いだ雰囲気でこちらを眺めながら座っており、雅嗣の視線に気づいたのか小さく手を挙げている。その後ろには薄紫の羅の几帳が、風を孕んでふわりと揺れていた。

 祭のあと、図らずも中の君を間近に見ることになった。その顔まで窺うことはできなかったけれど、どこか不安げな心許ない様子は、かつて別れたあの日の姿を思い出させ、心のうちがひどく掻き乱されるのを感じた。そのようなことで動揺する己が嫌で、雅嗣は気を紛らわせるため、より頻繁に紀伊守邸へ──若菜の君の許へと、足を運ぶことにもなっていったのだ。


「──二条堀川といえば、姉上さまはご息災でいらっしゃるのか?」


 亨もまた、光に溢れる空を見上げながら尋ねてきて、雅嗣は釣殿に置いた視線をきらきらと輝く水面に移した。


「ああ、姉上はいつだってあの調子だよ。今は、宿下りされた麗景殿女御さまの御ために、あれやこれやと心を砕いておられる」

「そうか。そうだろうね。あの方の明るさは、女御さまの不安をお慰めするにふさわしい──」


 亨がそう言った時、軽やかな若菜の君の笑い声が几帳の向こうから響き、舟べりから差し出された扇が見えた。


「若菜の君、あまり身を乗り出すと危ないですよ」


 棹から落ちる水の煌めきを扇に受けようと舟から身を乗り出す若菜の君に、雅嗣は声をかける。


「中将さまの仰るとおりだ、やめなさい。何度言われたら分かるのだ?」


 兄の護貞も注意するが、若菜の君は楽しそうに笑いながら水面に手を伸ばし続けている。


「大丈夫です、わたしはこういうことばかりして育ってきたんですもの。中将さま、わたし、播磨国にいた頃にはお舟だけでなく、お馬にだって乗っていたんですよ。ねえ、お姉さま」

「ええ、それはそうだけれど……」


 誰が止めようと若菜の君は、だって気持ちがいいのですもの、と言ってやめようとはしない。

 意思の強いひとに、と言って以来、若菜の君はますます己に心を寄せてくるようになった、とさすがの雅嗣も気づいていた。そして、自分を見て欲しいという気持ちからか、元から持つ無邪気な奔放さゆえか、時に少々羽目を外し過ぎて、兄姉を困惑させているようだということも理解していた。雅嗣はしかし、そうするように仕向けたのは彼自身だということを、この時はまだ理解していなかった。


「ほら、あそこに白い花が。あれは何の……?」


 他に興味を引かせようと雅嗣が釣殿の近くにある樹を指して尋ねると、若菜の君はようやく身を起こして首を傾げ、口を噤んでそちらを見上げる。


「夏椿です。もう咲き始めているのですね」


 答えに詰まった妹を見て、初音の君が助け舟を出した。すると、若菜の君もまた、何かを見つけたように声をあげる。


「あ、ほら、あそこに……。中将さまに取って差し上げます。ねえ、あちらへ漕いで頂戴」


 そう言いながら、若菜の君はまた舟から身を乗り出し、その手を伸ばす。その先には、落ちたばかりの夏椿の花が浮かんでいた。


「おやめなさいって」


 初音の君の言うのも聞かず、もう少し、と指を伸ばした時だった。

 ぐらり、と一度舟がかしいだ。あ……、と弱々しい声が洩れ聞こえたかと思うと、若菜の君はそのままゆっくり、吸い込まれるように水面に落ちていった。

 大きな水音とともに、舟の上の人々が一様に凍りつく。誰も、一言も発しなかった。

 頭から水に落ちた若菜の君は、一瞬のちにふわりと仰向けに浮かんできたが、すでに気を失っていた。その顔のまわりに、まるで花が咲いたかのように撫子*の袿が広がり、そこに水草の如く長い黒髪が散らばる。それはみるみる水を吸い込み、若菜の君の身体に纏わりついて、今にもその身体を水底に引き込もうとしていた。


「棹を……早う!」


 凍りついた時を叩き割るように、雅嗣がかつて誰にも聞かせたことがないほどの怒鳴り声をあげる。しかし、船差は怯えて腰を抜かし、身体を竦ませるばかりだ。護貞がその棹を奪い取り、袿を引っかけて掬おうとするものの、もちろん棹でどうこうできるものではない。まだ若い亨は、何をすればいいのか分からぬままおろおろと舟べりから覗き込み、初音の君は叫び声をあげる前に意識を手放していた。

  雅嗣もまた、ひったくるようにもう一人の船差から棹を受け取ると、すぐに池にまっすぐ突き刺した。そして、そこが足がつくくらいの深さと知るや、そのまま池に飛び込み、水に浮かぶきぬを手繰り寄せるようにして若菜の君を抱き寄せると、岸に向かった。




 雅嗣の叫び声と二度目の大きな水音で、結子はそれがただごとではないと知った。


「お姉さま、今の音はなに……?」


 眉をひそめる任子の横で、結子は几帳の帷の間から池を見る。そして、立ち上がった頼彬の背越しに見えた目の前の情景に、震える声で茅野に言った。


薬師くすしを……」

「……は?」


 意味が分からぬと首を傾げる茅野に、結子は再び強く言った。


「一刻も早う、薬師を! それから、できるだけたくさんの女房を連れてきて。早く!」


 結子の声に驚いた茅野が、慌てて一礼すると釣殿から転がり出て行く。状況をようやく理解した任子がへなへなと座り込み、金切り声で何ごとかを叫んでいる。


「三の君はいいから、貴女がたはすぐにふすまと布を取ってきて頂戴。急いで……!」


 任子を支えようとしていた女房たちにも指示を出すと、結子はしとねを空けて場所を作りながら、釣殿を出ようとしている頼彬に声をかけた。


すけさま、どうぞ中将さまをお助けして、こちらにお連れして……」


 頼彬は黙って頷き、きざはしを下りて行った。しばらくすると、下にある船着場から動揺した気配が伝わってきて、結子は御簾を押し開け外を窺う。雅嗣と護貞、そして頼彬の慌てた遣り取りがあって、それから、雅嗣のものらしい乱れた足音が砂利を踏んで階の方へ向かうのを聞いた。

 一瞬、結子は躊躇い、たじろいだ。だけど、そのようなことを言っている場合ではない、と己を奮い立たせる。

 意を決して視線を上げた結子の前に、ぐったりと目を閉じた若菜の君を抱えるずぶ濡れの雅嗣が現れた。結子が御簾を掲げ、青ざめた雅嗣にまっすぐ視線を向けると、雅嗣もまた、じっと結子を見た。

 この時、八年という、二人の間にある時間の空白が埋まったのは確かだった。若菜の君という、八年前にはいなかった女君をはさんで。



──────────


船差

棹を使って舟を漕ぐ人のこと。普通は四人で漕ぎます。


若蝦手の色目

表、裏とも青(今の緑)。


撫子の色目

表は紅、裏は薄紫。

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