九 垣間見

 惑わされる。

 こんなことがあると……惑わされてしまう。


「──姫さま、まだおしずまり遊ばさぬのですか?」


 祭の夜、結子は紀伊守邸の東の対で、未だしとねに入らずぼんやりとしていた。もうじき亥の刻も過ぎようかという頃、茅野に声をかけられて、大殿油おおとなぶらに照らされた結子の肩がびくんと跳ねた。


「あ……ああ、ぼんやりしていたわ。ごめんなさい、茅野も休めないわね」

「いえ、わたしは平気ですが、姫さまこそお疲れでございましょう? もう一度、お白湯でもお持ちいたしましょうか?」


 心配げなその声に小さく首を振った結子は、視線を外したまま蝙蝠かわほりを茅野の方に押し遣った。


「これを、どこか目のつかぬところにしまっておいて頂戴。そして、もう退がっていいわ」

「……蝙蝠、でございますか?」


 怪訝な様子でそれを手に取り、それから茅野はもう一度結子の方を窺い見た。憂いに沈んだ瞳を彷徨わせている主人を置いて、下がることなどできやしないと再び声をかける。


「あの、先ほどの──」


 その声に呼び戻されたように、結子はゆるりと視線を茅野に向け、呟いた。


「切れたと思っていたものが……世は、ままならぬものね」


 結子の呟きに、茅野は分かったような分からぬような顔で首を傾げた。




 一条大路には、すでにたくさんの祭見物の車がひしめき合っていた。

 護貞の車に乗っていた結子が物見からそっと表を覗いてみると、牛を追う牛飼童や前駆の者たちがあちこちに行き交い、がやがやとした華やかな活気に満ちていて、物珍しさに心が弾む。母と来た、思い出にある祭はもっと厳かな雰囲気だったような気がするのも、あの頃はまだ童だったせいもあろう。

 ざわめきはそれだけではない、何やら先ほどから、隣に停められた雅嗣の車のまわりが騒々しい。

 一緒に乗ってきた亨が、ため息をつきながら呆れたように言った。


「頭中将が女君を乗せて現れれば、こういうことにもなりますよ」


 同乗する姫君は誰か、と探りに来ている人々がいるのだという。

 それを聞いた護貞と任子が、頭中将の意中の姫は姉妹のうちどちらか、ということで議論を始めた。あの従兄となどもってのほか、初音の君こそ中将さまには相応しいと言い張る任子と、いや、初音と従兄はすでに相思相愛、中将さまのお気持ちは若菜にあると主張する護貞の間で、話は平行線のままだ。

 結子はそんな二人の様子をしばらく黙って見ていたが、もう悩んでくれるなという茅野の思いもある、心に深く受け止めることはせぬようにあえて微笑みを浮かべ、かたびらの向こうに座る亨に明るく話しかけた。


「ごめんなさいね、こう見えても仲のいい二人なの」


 それを聞いた亨もまた少々困っていたのだろう、小さく笑って囁き返す。


「分かっています、お二人はよく似ておられる」


 そうして、ほら、と閉じた蝙蝠で外を指した。


「祭の列がやって来ます」


 それを聞いて、ようやく護貞と任子も、決着がつかぬまま話すことをやめた。

 祭の列が車の並ぶ一条大路に入って来る。馬上の勅使の美々しい姿は、観客の視線を一身に集めてどこまでも晴れやかだ。


「昨年は、頭中将が勅使を仰せつかったのですよ。ご覧になられましたか?」


 祭に見入っていた結子は、ふいに亨にそう問われて一瞬口ごもった。

 二条堀川の邸でひっそりと暮らしてた結子には、雅嗣が頭中将になっていたことすら知らなかったというのに、祭のことなどどうやって知り得よう。


「え? ……いいえ、わたくしが祭見物に来たのは、実は童の頃以来なのです」


 そう答えた結子に、任子が驚いた様子で聞き返した。


「まあ、お姉さま、もしかしてお母さまと見に来た、あの時以来なの?」

「ええ、そう」

「まさか! 本当に小さな頃のことじゃない。お父さまとは一度も?」


 首を振る結子に、信じられない、と任子は声をあげると、帷の向こうの亨に言った。


「わたくしも、都を離れていたここ数年は来ておりませんでしたの。ですから、昨年の中将さまの晴れ姿も拝見しておりませんわ。残念ですこと」


 任子がそうこぼし、それを聞いて結子もまた、そのお姿を拝見したかった、と薄く微笑みながら思った瞬間だった。昨夜の名残の風が強く吹いて、結子の前にかけられた御簾が、一瞬思い切りよくばさりと捲れ上がった。


「……あ!」


 任子が大きな声をあげる。結子はあまりに突然で動くこともできず、呆然と外を見た。

 御簾に遮られない外の世界はどこまでも明るく、なんと輝かしいことだろう。

 そう思った刹那、結子ははっと息を呑んで袖で顔を覆い、亨が慌てて御簾を押さえる。それはほんの僅かな、まばたきのような一瞬のこと。


「なんということだ」


 護貞が苛々と言い、亨は結子を気遣って大丈夫かと尋ねた。


「え……ええ、大丈夫です。なんでもありません」


 結子はそう言いながらも、驚きと恥ずかしさにますます鼓動が早くなる。まったく油断していた。結子の後ろでは任子が深く扇を翳し、突然何? などとぶつぶつ言っている。


「わたしが気を抜いたばっかりに……本当に申し訳ありません」


 帷の向こうで亨が困ったように結子に謝る。結子は瞳を閉じて、一度息を整えてからなんとか小さく微笑んだ。


「わたくしは本当に大丈夫です。丞さまのせいでは……。どうぞお気になさらないで」

「多くの者は祭に見入っていたゆえ、誰も義姉上あねうえのことには気づいていないだろう」


 護貞が低い声で結子を案じてそう言うと、妻である任子が噛みついた。


「殿、お姉さまのことはと仰ったけれど、わたくしはどうなるの? わたくしも誰かに姿を見られたかもしれないのに」

「貴女は奥にいたから、ほとんど見えなかったと思うが」

「まあ……まあ! 殿はいつだってお姉さまのことばかりご心配なさって、わたくしのことなど顧みてもくださらないんだわ!」


 何やら話が違う方向に進み出し、車の中は、外とは違う不穏な雰囲気になってきた。


「ああ、わたくし、恥ずかしくってもう、帰りたい……」


 任子は、まるで自分が矢面に立ってしまったかのように情けなさそうに呟き、男二人は困ったように口を噤む。


「……中将さまのこともあるのに、勝手には帰れぬだろう?」


 護貞が声をひそめて任子を諌めるのを聞きながら、結子はひとつため息をつくと、妹をなだめた。


「三の君、大丈夫よ。貴女は見えなかったと思うし、わたくしも気にしていないから。せっかくだもの、楽しみましょう。ほら、今度は……楽器を持った方たちが」


 そう言って、結子がいざなうように任子の手をそっと取った時だった。


「──こちらの姫君に」


 外から密やかな声がして、御簾の隙間から突然、結子の目の前に開いた蝙蝠が差し出された。


「……!」


 あまりのことに、結子は言葉を失った。見られていた、誰かに姿を見られたのだ。

 車中の誰もが黙り込んだ。


「……お受け取りいただけぬのですか?」


 まだ若いが、少しかすれて笑いを滲ませた低い声。

 受け取らぬと言って声を聞かせることも憚られて躊躇う。さりとてこのまま頑なに拒み続ければ、多くの人に見られてしまうだろう。結子が仕方なしにのろのろとその蝙蝠を手にすると、御簾の外でふっと笑う声がした。


「では、またいずれ」


 そう含みのある言葉を残し、男は車から離れた。御簾の陰から見えた姿は、藍寄りの二藍ふたあいを身につけた、とても背の高い男だった。

 護貞が外にいる者を呼び、何ごとかを言っている。


「……ま、今の公達はいったいどなた?」


 任子は先ほどまでの帰りたいという言葉もすっかり忘れ、興味津々の様子だ。結子の肩越しに、男が手渡してきた蝙蝠を覗き込む。


「見ずもあらず 見もせぬ人の……?」


 首を傾げながら声に出して読む任子の声を受け継いで、亨がその先をそらんじて詠んだ。


「……恋しくは あやなくけふや ながめくらさむ* 業平ですね」


 は、と結子のくちびるから、か細い息が洩れる。

 これは、車で垣間見た女君に向けて詠んだという歌だ。結子の姿を見たのは明らかだった。


「……少々、強引な方のようですね。姿はよく見えませんでしたが」


 亨が不快感を露わにそう言うのを聞きながら、結子は蝙蝠を袖の下に隠した。

 嫌だ。なんだろう、この何ともいえぬ気分の悪さは。

 いきなり声をかけてくるだけでも不躾なのに、遣いに持たせるのでなく本人が御簾のうちに蝙蝠を差し入れるなど。しかもあのように、薄ら笑いを浮かべた軽薄な声は、結子がもっとも苦手なもののひとつだ。


「──右京大夫うきょうのだいぶ 元亘もとのぶどの?」


 御簾の外からの報告に耳を傾けていた護貞がその名を口にした瞬間、任子がはっと息を呑んだ。


「まさか……叔父君さまのところの?」


 言いながら、もはやその姿など見えもせぬのに、物見から外を覗く。


「お姉さま、そうよ間違いない! わたくしたちの従兄の、元亘さまよ!」


 まあ、なんという偶然かしら? と喜ぶ任子の横で結子は眉をひそめる。

 結子の父 権大納言の兄はすでに世を去っているが、息子が二人おり、その弟が元亘という名だった。

 まことそうであれば、それはお父さまがお姉さまの婿に、と長らく望んでいたお方。なのに、裕福な受領ずりょうの姫君を北の方に迎えられたとかで、裏切られたとお父さまは大層お怒りだったはず──


 結子は思わず袖で口許を覆った。何か、面倒なことになりそうな予感がする。


「戻りましょう。今、中将さまの車にお声をかけて参ります」


 護貞の気遣うような声が結子の耳に聞こえた。せっかくの遠出がこのようなことになり申し訳ない、そう言いたいのに、もはや声も出ない。澄んだ外の日差しが、今はただ煩わしい。

 結子には面識もない、その従兄がまた訪ねでもしてきたら?

 このことを、お父さまやお姉さまが知ってしまわれたら?

 たとえ戯れであったとしても、お父さまはお怒りになられるだろうし、昔はこの従兄の北の方になるつもりでいたお姉さまは怒り悲しみ、またわたくしに辛く当たられることだろう。

 結子は暗澹たる気持ちを抱えながら、ただ黙り込むしかなかった。

 やがて車がぐらりと動いて牛がつけられ、牛飼童の追う声とともにゆるゆると帰路についた。何か興奮気味に喋り続ける任子の声だけが、車の進む音に時折かき消されながら続いていた。




 紀伊守の邸に着くと、先に着いていた雅嗣の車からはすでに姉妹の姫たちが降りて、待っていた多くの女房たちを引き連れ、寝殿へと戻ってしまったあとだった。ほとんど人の残っておらぬ車宿くるまやどりを扇の陰から見て、簀子すのこに移ろうとしていた任子がむっとした声をあげる。


「まあ、誰もいないじゃないの」


 その声に、残っていた数人の女房が慌てて任子の手を取り、車から降りるのを手助けした。そのまま妻戸の中に消えていくと、そこに残る女房は茅野だけとなり、あとは、車の片付けをしようと車寄の外で待ち構える雑色など男たちのみ。

 結子も扇を翳し、身をかがめて車から出る。足元がふらつくのは、揺れる車の中でじっと座り続けていたせいだと思いたかったが、本当は、あの蝙蝠のせいで心が動揺しているのかもしれない。それでもなんとか一歩を踏み出した結子の身体は、茅野の手を取ろうと足を下ろす前にぐらりとかしいだ。


「あっ……」


 茅野が慌てた叫び声をあげるよりほんの一瞬早く、いつからそこにいたのか、きざはしから駆け寄って来た雅嗣が、結子の咄嗟に伸ばした手を取った。そのままぐいと強く引き起こされ、その卯花の袖に包まれるかのように、後ろから肩を抱かれて支えられた。

 まるで、時が止まったようだった。

 ただ、聞き覚えのある懐かしい薫りに包まれて、彼と知った。

 不安に震える結子の心が、その瞬間やるせない欲求とともに雅嗣に縋りつこうとする。肩に、背に、得難いぬくもりが伝わって眩暈を起こしそうな感覚の中で、結子は一瞬、雅嗣の身体にその身を委ねた。


「──失礼を」


 耳許でそう囁く雅嗣の声が聞こえ、肩にかかる指の力がもう一度ぎゅっと強くなったあと、ふ、と抜けた。

 結子は振り返ることも叶わず、ただ、嗚咽にも似た吐息を扇の陰に隠す。

 かつて、初めて結子の指に触れた時にも、雅嗣は同じ言葉を言ったのではなかったか。その時とはまるで違う、強張った声。足元から掬われるような感覚に襲われ、立ちすくんだ結子の背後から、それ以上何を言うこともなく雅嗣が離れた。代わって茅野が結子の側に立つ。


「申し訳ございませぬ、姫さま」


 気遣わしげに結子の手を取り、もう片方の手を背中にまわした茅野は、結子を妻戸の方へとゆっくり導く。結子は、どこをどう歩いたかも分からぬまま、茅野に連れられ妻戸に入った。

 ことり、と静かに閉じられた妻戸が今また二人を分かち、そのうちと外で、それぞれが立ち尽くす。

 礼を言うこともできなかった、と雅嗣の指が触れた肩を己で抱きしめる結子と、まるで睨みつけるように妻戸を見ながら、その掌に残る幽かな結子のぬくもりを逃さぬよう、きつく握り締める雅嗣と──



──────────


見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなくけふや ながめくらさむ

(見なかったわけでもなく、見たわけでもない貴女が恋しく、妙な心地で今日の一日を物思いに耽りつつ過ごすのだろうか)

古今和歌集 恋歌一 にある、在原業平の歌。

『右近の馬場のひをりの日、向ひに立てたりける車の下簾より、女の顔のほのかに見えければ、よむでつかはしける』とあります。

この歌のエピソードは、伊勢物語 第九十九段でも書かれています。


──この時代、夫や親兄弟以外の男君に直接姿を見られてしまうことは、今で言えば見知らぬ男性に着替えや下着姿を見られてしまうくらい、恥ずかしいことだったようです。

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