八 賀茂祭

 卯月の中の酉の日*は、前日の強い風もようやく収まり、爽やかな風が時折吹き抜ける美しい日となった。

 紀伊守の邸は、すでに夜明け前から大騒ぎだった。化粧やらきぬの準備やらで、ただでさえいつも神経質に甲高く騒いでいる北の方が、より一層落ち着きを失っていたためだ。

 同じ騒動は、隣り合うさきの播磨守の邸でも起こっていた。姉妹の姫君、特に若菜の君の様子はもう、ほとんど取り乱しているといってよいほどだった。なんせ、今を時めく頭中将の車に同乗するのだ。世の女君の羨望の眼差しを一身に受けることになるであろう瞬間ときを前に、若い姫君に冷静でいよと言うことの方が無理がある。

 そんな喧騒の中、結子は淡々と身支度を済ます。

 まだ幼かった頃、結子は母と姉妹三人で車に乗って一度だけ賀茂祭かものまつりを見に行ったことがあった。父との見物は何かと理由をつけて断ってきていたので、それ以来久方ぶりの祭見物とあれば、やはり楽しみにもなるのだ。


「姫さま」


 結子の髪をくしけずりながら、女房の茅野が鏡の中の主人に呼びかけた。


「あの……わたし如きが申すことではないかもしれませんけれど」


 そう語りかけられ、結子は鏡の中から視線を返す。


「なあに?」

「頭中将さまのこと、紀伊の姫さまのこと……もちろん、殿のことも、いろいろとお悩みかと。でも」


 茅野はそう言いながら櫛を置き、ふわりと漆黒の髪を美しく流し整えた。


「今日だけはどうか、そのようなことはお忘れになって、楽しんできてくださいませね」

「茅野……」

「姫さまはもう、これ以上お苦しみになられる必要はございませんわ」


 結子は、背後にいる茅野の方に向き直った。期せずして雅嗣の文遣いを任されてからこちら、ずっと結子の側に付き従い、つぶさにこの八年間を見てきたこの女房の、なんとしてもこれ以上の悩みからは守って差し上げたい、という願いを、結子は全身で受け止めた。


「ありがとう」


 結子は静かに微笑み、藤の襲*を纏って車宿くるまやどりへと向かう。その穏やかな笑みを、茅野は静かに見送った。


 ***


 紀伊守邸のてんやわんやが一段落した頃、迎えに来た雅嗣の車が車宿に引き込まれた。一旦雅嗣が車から降りると、さっそく邸の女房たちが一斉に出てきて車の設えを整え始める。車のうちにかたびら*をかけて隔てを作っている様子は、隔てなど要らぬと言う姉以外の女君と車に同乗したことがなかった雅嗣にとって、なかなか新鮮な光景だった。

 卯花うのはな*の直衣を身につけた雅嗣が、蝙蝠かわほりを手に車の傍らに立ちその様子を眺めていると、横をすり抜けて行く女房が手にした袿の山吹色が目に飛び込んできた。

 なんなのだろう──その瞬間、雅嗣の心に何か引っかかるものがあり、眉をひそめた。

 しかし、しばし考えたのち、それ以上は深く追求することもなく視線を外に向ける。雅嗣の車の向こう側に紀伊守の車も引き込まれ、ほぼ出かける準備は整いつつあるように見えた。

 やがて、多少の騒ぎののちに皆が車に乗り込むと、車宿からゆるりと二輌の牛車が出立した。明るい日差しの中、前を行くのは頭中将 雅嗣の車、その後ろに紀伊守 護貞の車が続く。雅嗣の車には初音の君と若菜の君が女房と共に乗っており、護貞の車には任子と結子、そして式部大丞 とおるも同乗していた。

 一目で趣味のよさの伝わる車に、美しく溢れさせた出車いだしぐるまが華を添えて、それは控えめながら美事な一行だった。

 車が右大臣邸にも近い一条大路にかれて入ると、その場はすぐに密やかなどよめきに包まれる。昨年には勅使も務めた頭中将が現れたというだけでも注目を集めるというのに、そこに女君が同乗しているとあれば、いったいどなた、とかまびすしく騒がれるのも仕方あるまい。

 車が停められ、外された牛を追う牛飼童うしかいわらわの鞭の音が遠ざかるや否や、様子を窺う者たちが入れかわり立ちかわり車のまわりをうろつき出した。雅嗣が、こうなることも予想の上ではあったが……と帷の向こうの姫君たちの様子を見れば、さすがの姉妹も、場の雰囲気に呑まれて黙り込んだままだ。


「ほら、隣は内大臣家の車ですよ。今日は姉も来ているようです」

「……」

「間もなく祭の列もやって来るでしょう」

「……」


 立て膝で座る寛いだ雰囲気の雅嗣とは対照的に、二人の姫君は扇を翳し固まっている。そんな様子に、雅嗣も思わず苦笑した。


「そんなに畏まらずとも……。そちらの物見を開けてご覧なさい、兄君の車も着いていますよ」


 言われて恐る恐る物見を細く開けた若菜の君は、少しだけ覗き見るとまた、ぱたんと閉じて深く扇を翳した。


「……誰かが覗き込もうとしておりました……」


 震える声でそう呟いた若菜の君に、雅嗣は声をあげて笑った。


「まったく、不躾な者ばかりですね。貴女がたは堂々としていればいいのですよ」

「それは……中将さまはこういうことにも慣れておいででしょうけれど」


 初音の君が反論すると、雅嗣はふと真顔に戻って言う。


「……いや、皆、わたしではなく貴女がたを見に来ているのですよ。いったいどちらの姫君か探ってこい、と命じられてね」


 さらりと言ってから、我ながら意地が悪いと思った。怯えている姫たちを前にわざわざこのようなこと、言わずともいいものを。二人はまた、黙り込んでしまったではないか。

 そうこうしているうちに、居並んだ車からは違うざわめきが伝わる。いよいよ、祭の列が来たのだろう。騎乗する勅使*を見つけて、ようやく姉妹もいつもの調子を取り戻し、身を乗り出して祭を眺め出した。


「中将さま、昨年は中将さまが勅使をなさったのですね」

「そうですよ」

「悔しいわ、昨年はわたしたち、見に来ることができなかったんです」


 心底悔しそうに言う若菜の君の声を聞きながら、雅嗣も今年の、何の役目も仰せつかってない気楽さを堪能しようと視線を車の外に向ける。時々、昨晩の風の名残りが御簾をはためかせ、出車をひらひらと蝶のように舞わせていた。山吹の色も美しく、よく練られた絹の輝きが、陽の光を浴びて楽しげに揺れている。


「この衣も美しいですね。貴女がたが選んだの?」


 雅嗣が問うと、若菜の君が嬉しそうに答えた。


「ええ、そうです。この花橘の襲が映えると思いましたので」

「今日のような光溢れる日にぴったりだ」


 雅嗣が言うと若菜の君はくすぐったそうに笑ってからしばらく口を噤み、そして、実は、と切り出した。


「この袿、権大納言家の二の姫さまのものなんです。先日、ご一緒に衣を選んでいた時に貸してくださって」


 その瞬間、蝙蝠を開こうとしていた雅嗣の手が止まる。

 二の姫さまは本当にご趣味もよくて、と初音の君も頷いている隔てのこちら側で、雅嗣は秘かに、ああ、と呻くような声を零した。

 そうだ、さっきのあの違和感──これは、かつて中の君が逢瀬の時に身につけていたものではないか。雅嗣は思わず蝙蝠を横に置き、額に手を遣る。

 帷の向こうでは、そんな雅嗣の様子も知らぬまま、姉妹のお喋りが始まっていた。


「わたし、二の姫さまがお兄さまの北の方になってくださってたら、どんなによかったかと思うわ」


 その若菜の君の言葉に、雅嗣は思わず聞き耳を立てる。


「お義姉さまは悪い方ではないけれど、ことあるごとに権大納言家は、とか、摂関家がどうとか仰って……」

「おやめなさい、そのようなことを言うのは」


 初音の君にたしなめられても、若菜の君は話すことをやめない。


「お兄さまは、本気で二の姫さまに恋しておられたと思うわ。求婚を断られたあとのことは、わたしはまだ小さかったけれど、それでも覚えているもの」

「……紀伊守どのが、二の姫に求婚していた……?」


 尋ねるともなく呟いた雅嗣の低い声を聞いて、若菜の君は無邪気に答えた。


「ええ、そうだったんです」

「で、二の姫は断ったと?」

「そうです。それで、お兄さまは二の姫さまの妹君をお迎えになったんです」


 車の前を、多くの楽人が通り過ぎて行く。そちらにも気を取られている姉妹は、雅嗣の様子がどこかおかしいことにも気づかぬようだ。

 その時、悪戯な一抹の風が吹いて、ばさりと一度、車にかけられた御簾を捲り上げようとした。雅嗣は慌てて御簾を手で押さえる。


「わたしは、きっとあの、二の姫さまと親しくなさっておられる式部卿宮さまの妹君さまが、反対なさったのではないかと思っているんです」

「……なぜ?」

「お兄さまに、あのお方を満足させるだけの知識や学がおありでないゆえに、二の姫さまを説得なさったからではないかと……」

「そんなこと、分からないわ。憶測でものを言ってはだめよ。現に、お兄さまたちだって仲良くしておられるのだし」


 初音の君の良識的な言葉に、さすがの若菜の君も口を閉じ、車の中に沈黙が落ちた。

 雅嗣は立てた膝に肘を置いて顎に手を遣った。あくまでも平静を装いつつ、頭の中では余計なことが浮かんでは消える。

 中の君が、ほかの男に求婚されていたという事実は、自身が予想もしなかったほどに心に揺さぶりをかけてくる。しかも、中の君は断ったのだという。

 それは何ゆえに? 若菜の君が言うとおり、またもや宮の方に反対され、説き伏せられたのだろうか。それとも──。

 雅嗣の視線が落ち着きなく動いた。そしてはたと、もはや祭など見てもおらぬことに気づき、己を戒める。何を動揺している? 愚かなことを。

 雅嗣は息を大きく吸い込み、冷静さを取り戻そうとした。そこに、若菜の君の言い募る声が被さる。


「わたしには理解できません。自分でこの方と思い定めれば、たとえまわりにどれほど反対されようとも想いを貫くべきだわ。そんな、説得に応じてしまわれるなんて」


 熱弁をふるった若菜の君は、満足げにまた祭を眺め出した。もうすっかり、いつもの調子に戻っている。

 そうだ、と雅嗣は、宮の方の説得に負けて己を裏切った中の君への恨みを思い出す。そして、ほとんど自虐的に若菜の君へと話しかけた。


「貴女は……意思が強いひとなのですね」

「中将さま?」

「素晴らしいことです。すぐに気持ちを揺らしてしまうような人とは長続きしませんからね。どうぞ、今の心の強さを持ち続けてください、それがわたしの願いですよ」


 雅嗣にそう言われて、若菜の君は恥じらうように頬を染めた。

 貴女が強くあることはわたしの願いでもある、などという雅嗣の言葉は、恋に憧れる乙女にとって、恋の告白にも等しい言葉に感じられたから。

 しばらく言葉を失ったかのように黙り込んでいた若菜の君は、それから何かを見つけたように、あ、と声をあげた。


「ご覧になって! お兄さまの車……ほら、どなたか公達がお声をかけておられるわ!」


 その弾んだ声につられ、雅嗣もまた、はっとそちらを見る。

 二藍ふたあいを身につけた、雅嗣より幾つか歳上に見えるひとりの男がちょうど、何ごとかを書きつけた蝙蝠を紀伊守の車に差し出しているところだった。御簾越しに斜め後ろからなのでよく顔は見えないが、遣いを送るのでなく自身が直接渡しに来るなど、普通ではない。


「まあ……! きっと、二の姫さまによ。なんてことかしら!」


 自分のことでもないのに喜ぶ若菜の君の声が、雅嗣の頭の中をまわる。

 雅嗣はその光景を、半ば呆然と凝視した。それは、まだ本人ですら気づいていなかったことだけれど、雅嗣の結子に対する、許せぬ、と思う以上の何らかの感情──実は心の中に八年もの間、熾火おきびのように燻り続けていた感情に再び火が点いた瞬間だった。



──────────


中の酉の日

賀茂祭は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼です。ゆえに、下鴨神社の祭神 玉依姫命たまよりひめのみことが上賀茂神社の祭神 賀茂別雷命かもわけいかづちのみことを生んだといわれている、卯月の二回目の酉の日が祭の日となりました。


藤の襲

紫〜白のグラデーションを使った襲。

(薄色匂いて三。白表二が裏青き。濃き淡き。白きすずしのひとへ。──『満佐須計装束抄』より)


牛車の中に帷

車に男女が同乗する場合、親しい仲でない時には、中に几帳の帷や細長などを吊るして隔てを作りました。


卯花の色目

表が白、裏が青(今の緑)


勅使

賀茂祭の勅使(帝からの使い)は、近衛中将が務めることになっていました。『源氏物語』の有名な車争いの場では、源氏が勅使を務めています。



──牛車の使用については、当時、身分によって厳密に取り決めがありました。乗っていい車の種類も決まっていたほどです。雅嗣が車を使用できたのは当然ですが、中流貴族の受領層である護貞が牛車を所有、使用できたかは少し疑問が残ります。ただ、当時はその決まりを守らぬ人々が多く、頻繁にお達しが出ていたようですので、ここでは裕福な護貞にも車を持たせました。

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