十二 不穏な便り

 空を覆う厚い雲から霧雨が降り注ぎ、青々とした木々を濡らす。

 結子が逸子いつこの邸に着いたのは、若菜の君が不幸に見舞われた皐月のあの日から五日後のこと。あまりに慌ただしい転居だったが、その日を逃すといい日取りが見つからぬと逸子に言われたため、ばたばたと紀伊守の邸をあとにしてきたのだ。

 万里小路までのこうじにあるこぢんまりとした邸は、結子にとっては幼い頃から母と幾度か訪れた思い出もある場所だった。紀伊守の邸に行く前、方違かたたがえに滞在した時の、花のまわりに冷やりと澄んでいた空気は今、雨の匂いとともに纏わりつくような重苦しさを孕んでいる。

 雨に煙る御簾の外を眺めながら、結子は若菜の君のことを思い、紀伊守の邸を思い、そして、雅嗣のことを思っていた。

 若菜の君は、水に落ちた翌朝に一度ふっと目を覚ました。だが、それは本当にわずかな時間で、五日が過ぎた今もまだ眠っていることが多いらしく、回復したというには程遠い状態だ。快活な彼女の笑い声が聞こえない邸は、本当に火が消えたように淋しく、邸の誰もが一日も早い回復をと祈り続けていた。

 この不幸な事故のことを、雅嗣がさきの播磨守に伝え謝罪した時には、北の方は声にならぬ叫びを上げて卒倒したそうだ。それがどのような話となったのか……それから雅嗣は、毎日邸に姿を見せるようになった。

 一方で、結子は間借りしていた東の対に若菜の君が眠っているため、代わりに若菜の君の対屋たいのやに移った。これで雅嗣と顔を合わせずに済む、と結子は心底安堵した。

 これ以上、本当にもう、これ以上このことで悩み続けるのは嫌だった。若菜の君の看病を結子に、と言われた瞬間は、それまで冷たい態度しか取らなかった雅嗣が結子の存在を認めてくれたような気がして面映おもはゆいような心地にもなったけれど、冷静に考えてみれば、若菜の君と雅嗣二人の姿を見守り続けねばならぬのは恐ろしく辛いだろう。だから、任子のくだらぬ嫉妬ですら、二人から離れられるのならばありがたいことなのだ、と結子は思った。

 そうして結子の滞在最後の時間は、北の方や初音の君とのとめどないお喋りと慰めに費やした。別れを惜しんだ亨もまた、若菜の君の見舞いがてら訪ねてきてくれたので、存分に話をして時は瞬く間に過ぎ去っていった。

  ちょうど同じ頃、右大臣家に繋がる麗景殿女御が無事、男皇子おのこみこをお生みになられた。やがて東宮とうぐうに立たれるやもしれぬその皇子の誕生に、誰もが大いに喜んだ。邸の女房たちなどは、帝の側近であり、女御の縁戚でもあられる中将さまには取り仕切ることも多かろう、さぞやお忙しかろうに、毎日若菜の君の許にお越しになるとはまあご熱心なこと、と結局はそこに戻って、そのようなお方を婿君としてお迎えするためにも、一日も早い回復をと祈っているのだった。

 屋根からぽとん、ぽとん、と雨粒が落ちて、そのたびに梔子くちなしの葉をゆらり、ゆらりと揺らしている。それをぼんやりと見ながら、結子は思った。

 すべて穏便に済まされた事後、毎日の訪れ、そして……あの時の雅嗣の瞳。

 それらを考え合わせれば、このあと、どのような流れになるのかは明らかだ。邸にいる誰もが、若菜の君が回復すれば雅嗣が妻問いするのだろうと信じて疑っていない。きっとそうなるのだろう、と結子も思っている。

 揺れ続ける葉を見つめながら、結子は小さくため息を零した。

 雅嗣の、喪失を恐れるあの瞳に気づいた時、今度こそ本当に振り返ることはやめようと決めた。今の結子の願いはただひとつ、なにものにも煩わされることなく静かに暮らすこと。もう、思い悩むことにもほとほと疲れてしまった。都を離れ、ひっそりと生きていこう。そう心に決め、この宮の方の邸に二日ほど滞在したのち、葛野かずらのに向かうつもりだった。なのに。


「──姫さま」


 葛野にいるはずの父 義照と姉 晴子せいこが都に戻ってきている、と逸子の文には書かれていた。雨の時季を前に葛野の山荘を手直しせねばならず、今は例の東宮亮とうぐうのすけの邸に身を寄せているのだという。結子はどれほど驚いたことだろう。そのようなこと、都にいる結子にも任子にも一言の知らせもなかったのだ。

 いったいどういうことなのか、宮の方さまに尋ねねばならぬ。いずれにせよ、結子はまた、葛野に行く機会を逃してしまった。


「姫さま」


 いつの間にか戻って来ていた茅野が、応えぬ結子の背にもう一度呼びかけた。


「先ほどから、宮の方さまがずっとお待ちだそうです」


 しばらくの沈黙ののち、くちびるに小さく微笑みを載せて、分かったわ、と呟く。振り向きざま、対屋たいのやに飾られた芍薬が強く香った。


 ***


「ああ、それにしても今日は本当に蒸すこと。今からこれでは、先が思いやられるわね」


 逸子は薄暗く沈んだ母屋の中、薄き*のひとえの上に二藍ふたあい蘇芳すおうの羅の袿だけを軽く羽織り、休みなく扇を動かしていた。


「中の君はまだ?」

「先ほど車が入ったばかりでございますよ、宮の方さま」


 後ろに控える古参の女房 小式部こしきぶたしなめられた。逸子ははたはたと扇ぎながら口を閉ざすものの、なんと言われようと、可愛い中の君に久しぶりに会えるのだから楽しみなのは仕方ない。


「……遅いわね」


 すでに邸には着いているらしい結子の訪れを待つ逸子が、幾度めか分からぬ呟きを洩らす。

 大切な友の懐かしい面影を宿した、誰よりも大切な娘。なぜ、あの優しく賢しい中の君が、二十五になった今も独り、こんな根無し草のような暮らしをしているのか──逸子にはそれが口惜しくてたまらない。

 こんなことになるなど、思いもしなかった。あの、結子の秘めた恋に否と言った時には。

 義照のようなどうしようもない父を持つ結子に、位も財もない男とのえにしを許すわけにはいかなかった。結子にはもっとふさわしい公達がいる、そう信じたのだ。

 だけど、結果はどうだっただろう。今や、結子はひたすら孤独の闇に沈み、片や、あの男は頭中将となって世間にも認められ、主上おかみの信も篤いのだとか。結子の美しさがあの時を境に翳ってしまったことも、きりきりと逸子の心を責め苛み続ける。

 わたくしが間違っていたのだろうか? その思いが絶え間なく心によぎる。けれども、それを決して口にはしない。一度でも口にすれば、それは現実という逃れようのない枷となって逸子に襲いかかってくるだろうから。


「──宮の方さま、二の姫さまが」


 小式部の囁きに顔を上げると、微かに笑みを浮かべ、薄紅の袿を纏った結子がひさしに入ってくるところだった。

 その姿に、逸子は目をみはる。疲れ果てて二条堀川を出た時に比べ、ほんの少しふっくらとして、まるで昔の清楚な美しさと輝きを取り戻したかのようだ。


「……嬉しいこと」


 思わずそう呟くと、結子はにっこりと微笑んだ。


「宮の方さま、ご機嫌よろしゅう」


 そうして静かに袿の裾を捌いて腰をおろした結子は、それだけはいつも変わらぬ澄んだ声で、窺うように逸子を覗き込んだ。


「お元気でいらっしゃいましたか?」


 結子の問いかけに、ええ、ええ、と頷くと、逸子はそっとその頬に手を触れた。


「お話ししたいことがたくさんあるわ。貴女はどのように過ごしていたの? とてもお元気そうね」


 逸子がその紅色の頬を撫でながら愛おしげにそう言うと、結子は小さく笑った。


「よくしていただいて、毎日楽しく暮らしておりました」


 そう、と逸子は頷いた。それはきっと、本当のことだろう。さきの播磨守や紀伊守の家族は、結子の父や姉と比べれば至って良識的な人たちだ。それに、暮らしに困らぬだけの財と立派な邸。だからこそ、紀伊守が二十になった結子に求婚したと聞いた時には、身分には目を瞑り、話を進めるよう言い聞かせてもみたのだけれど、まさか三の姫が北の方に収まってしまうとは。人の心はままならぬものだ。


「それで、若菜の君のご容体は?」

「まだ、はっきりと回復なさってはおられぬようです。でも、薬師くすしも大丈夫と言っておりましたし、いずれは……」


 表情を曇らせて言う結子に同情を込めて頷きつつ、逸子は若菜の君の浅はかさになんとも言えぬ気持ちになった。姫君が池の水に落ちるなど、未だかつて聞いたこともない話だ。


「でも……」


 結子が何かを言いかけながらそこで言い淀み、視線を逸らしたのを見て、逸子は微笑んで首を傾げ続きを促す。言いにくそうに一度口を噤んだ結子は、それから意を決したように言葉を続けた。


「それで、あの……頭中将さまが──」


 逸子はぴくりと視線を動かし、少し困ったように眉を下げて微笑む結子を見た。


「──中将さまが、絶えずお気にかけて訪ねてきておられます。若菜の君が回復なさったら、恐らくは……」


 結子は言葉を濁したけれど、その先は聞かずとも分かる。若菜の君を妻にする、ということなのだろう。近頃、頭中将が頻繁に紀伊守の邸に出入りしているとは聞いていたけれど、そういうことだったのか。逸子は憮然とした表情で、瞳を伏せる結子を見つめた。


「喜ばしいことと思います。お幸せになっていただきたいわ」


 うつむき気味でそう呟いた結子の心の奥底までは、逸子には窺い知ることができない。中の君はまだ、想いを残しているのだろうか? 右大臣家の三男は、すでに心変わりした様子だけれど──そう思うと、逸子のうちになんとも釈然としない、安堵と怒りが混ざったような複雑な思いが渦巻く。

 中の君ほどの女人に想いを寄せていた男が、今、年若い受領ずりょうごときの娘に心奪われている?

 そもそも、二人の関係が破綻した原因は逸子にもあるのだから、このような思いはいささか矛盾してはいるのだが、それでも中の君を蔑ろにされたようですっきりしない。


「それより、ね、宮の方さま、お父さまのこと……」


 黙り込んでいると、話を変えようとした結子がざわりときぬを鳴らして逸子に近寄ってきた。逸子はじっと結子を見つめ、それからふと肩をそびやかした。


「ええ、都に戻っておられるの。一時いっときだけのことですけれどね。本当に、知らせもなかったの?」

「まったく何も。わたくしは、すぐにでも葛野に向かおうと思っておりましたのに」

「それはしばらく叶いそうにないわね。お父さまも大姫も、久しぶりの都の空気に喜んでおられるご様子だから」


 逸子は呆れた様子で言い放ち、結子は諦めの吐息を零す。

 いくら大切な友人の夫だったからとはいえ、逸子にはあの男を好意的に見ることはできなかった。北の方であった友人を悩ませ、人の美醜と名誉にしか関心がない男。

 逸子が軽蔑の気持ちを心に隠して義照のことを思い出していると、後ろで小式部の声がした。


「失礼いたします、宮の方さま。御文が参っております」


 差し出された小さな塗りの文箱に入った文を開く。晴子からだった。


「……大姫からよ。昨日、貴女が来ることを伝えておいたものだから」


 言いながら文を広げて目を通し、結子に伝えてくる。


「貴女や三の姫の消息を尋ねているわ。近々、会いに来るようにと」

「……」

「それから……あら? まあ……」


 逸子が声をあげ、黙り込んでいた結子は庭に向けていた視線を戻した。


「中の君、貴女、覚えておられるかしら? 大姫に、とお父さまがお考えだった、貴女がたの従兄のこと」


 その瞬間、結子の瞳が大きく見開かれたような気がした。返事のないことを訝しく思いながらも逸子は文に視線を戻し、話を続ける。


「確か、伊予守の姫君を北の方にお迎えになったとかで、お父さまはたいそうお怒りになられて」

「……ええ」

「以来、関わることもなくなったと聞いていたけれど」

「ええ」


 逸子の話を聞く結子の顔色がみるみる曇っていくことに、文に視線を置いたままの逸子は気づかなかった。


「最近、お父さまの許を訪ねて、とても丁重な態度で謝罪してきた、と書かれているわ。今さら、どういうことかしら?」


 言いながら視線を上げる。そして、目の前の結子の、いつもとは違う表情に驚いた。


「……中の君?」


 結子は、かつて見たこともないほどに厳しく眉間に皺を寄せ、逸子の手にある文に睨むような視線を向けていた。いったいどうしたのかと、逸子は思わず口を噤む。

 外には相変わらず音もなく細かい雨が降っていて、対屋は紅の芍薬のむせるような香りに満ちていた。逸子は黙って首を傾げながら文を畳むと、何か問いたげに顰めた瞳で結子の顔を見つめた。



──────────


薄き

この時代、紫は高貴な色とされ、あらゆる色の上にあるものでした。なので、単に「濃き」「薄き」という言葉のみで紫を表しました。また、五行思想の中ですべての色彩を含む色といわれる、黒の代わりとしても存在しました。内裏の中で最上位にある建物が『紫宸殿』と呼ばれるのもそのためです。

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